灯の鳥〈5〉
◇◇◇
何を忘れにここへ来たのだろう。
捨ててしまいたいほどの記憶とは、一体何だったのか――。
鳥に触れた幸福な気持ちが一転して、眠れない夜を迎えた。
こんなに寝苦しい夜はこの屋敷に来てはじめてだ。
ずっと、触れた熱が手に残っている。
鳥は温かかった。
見た目の印象よりもずっと、熱を持っていた。
母鳥のような毛布も今日は息苦しく、重たい身体を起こす。
眠れそうにない。
裸足のまま床を踏んで、足音を殺して部屋を出た。
どこへ行こうと思ったわけでもない。
ただこの場所でじっとしていても事態はよくならないだろう。
屋敷は静まり返っていて、静寂が耳に痛い。
時折、森が風に揺らされて潮騒のような音がする。
足は、気づけばサンルームを目指していた。
眠れないなら、夜のうちにも仕事を進めておこうと思ったのかもしれない。
サンルームの扉を開く。
昼のうちに暖められた空気が残っていて、夜の気配が遠ざかる。
少しだけ安堵してソファを目指した。
そこに、動くものに気づいた。
「ケイ?」
囁き声が呼ぶ。
「……ケイ。どうしたの」
彼女の呼ぶ名を、ようやく僕のものだと理解する。
「ケイ。それが、僕の名前」
確かめるように呟く。
そうだ、間違いなく僕の名前。
なぜ今、咄嗟に返事ができなかったのだろう。
なぜ、自分の名だと思えなかったのだろう。
「眠れない?」
ルクレイはソファに身を預け、天井を見ていたようだ。
小さなランプに火を灯して僕の道を照らす。
「考えごとをしてしまう」
導く光を頼りにソファへたどり着く。
ルクレイは寝間着のまま、靴をぬいでソファに上がっていた。
そうして背もたれに首を預けて天井を見上げると、窓から夜空が見える。
満天の星に気づいてルクレイを見た。
彼女はいたずらっぽく微笑んでランプの灯を吹き消す。
ふ、と吐息の音が聞こえ、あたりは闇に包まれた。
ほどなく、光を探す目に星空が飛び込んでくる。
思わず手を伸ばしてしまう。
届きはしないと知りながら、でも、伸ばさずにはいられなかった。
「届きそうだ」
「星に? いったい、どんな手触りなんだろう」
ふたりはしばし言葉を忘れ、星の手触りに考えを巡らせる。
目が慣れるとランプの明かりがなくても相手の顔が分かる。
ルクレイは案じるように僕を見つめた。
「考えごとって?」
「今まで気にならなかったんだ。でも、急に怖くなった。
僕はここへ来て何を忘れたかったんだろう。
もう忘れてしまったから思い出せない。
それが目的だったのだから、何の問題もないはずだ。それなのに、不安になる」
耳を傾けていたルクレイは、テーブルからマッチ箱を引き寄せて、ランプに再び火をともした。
にわかに周囲が照らし出される。
ソファを立ち、ランプを取ると「ちょっと待っていて」と言い残して部屋を去っていく。
話を中断されたとは思わなかった。
自分でも何を言いたいのかまとまっていない。
不安を吐き出して楽になるかもわからない。
取り残された部屋は夜と同じ色をして、星空が頭上に瞬いている。
星はいったいどんな手触りなのだろう?
僕は想像してみる。
それはきっと、昼間に触れた鳥のように柔らかく、熱いのだ。
心を空想へ飛ばすと混乱した気持ちが落ち着いて、ずっと悩んでいたことをもう一度見つめなおせた。
一体、己が何を忘れたのか、知りたかった。
自分はなぜ、その体験を忘れようと思ったのだろう。
忘れたいほどの嫌な記憶。
それは誰かに傷つけられた記憶か。
あるいは、誰かを傷つけた記憶か。
自分は本当は酷く醜い人間で、最低な行いをして、すべてを忘れるために森を頼ったのではないだろうか。帳消しにして逃げ伸びて、最初からやり直す。全部の失敗をなかったことにして何食わぬ顔でまた始める。
そんな、ずるい人間なのかもしれない。
だとしたら――
この屋敷での穏やかな日々や、幸せな瞬間、すべてに泥を塗る気がした。
少女から親切心を騙し取っているような――それが何より心苦しかった。
「お待たせ」
侍女を従え、少女が戻ってきた。
もう夜も更けて久しい時間だが、メルグスの装いは昼間から少しも変わりない。
まだ仕事をしていたのだろうか、だとしたらいつ眠っているのか疑問に思う。
メルグスは銀のトレイに載せたティーセットをテーブルまで運んだ。
「眠れない夜をやりすごすためのお茶」
ルクレイが囁き声で教えてくれる。
白くて丸い鳩のようなポットから、小さなカップに注がれた。
温かな香りからハーブティだとわかる。
精神の安定を促し、気を落ち着かせて眠りへ誘うお茶だ。
「それでは、失礼いたします」
給仕が済むとメルグスはあっさりと去っていく。
「どうぞ」
勧められ、カップに口をつけた。程よい温度で淹れられた香りのよいお茶は、ひと口で身体中に浸透していくようだ。
「不安はわかるよ」
ルクレイもお茶を飲み、言葉を続ける。
「記憶は、ひとつひとつが関わりあい連なって、昔から今へと至る。
だから記憶をひとつ失うと、すべてのつながりが曖昧になってしまって自分を見失う。でもね、それでもいいから新しくやり直したい人が、この森へやって来るんだ」
少女は覗き込むような眼差しを投げる。
「きみも、そうでしょ、ケイ」
名前。
ケイ。
それを、自分の名だと意識して繰り返す。
ケイ。そうだ。そうだった。
ルクレイの言葉はもっともだ。
僕はもう自分の名前を実感できなくなっていた。
きっと、失った記憶に関連づいていて、だから薄れつつあるのだ。
「――やっぱり、後悔している?」
問いに、すぐには答えられなかった。
「……何を忘れたのか、知っておきたいんだ」
矛盾を自覚しながらも、僕は続ける。
「ここで暮らしたい。こんなに穏やかに暮らせるところは、ほかにないよ。
僕はここが好きだ。できることならずっとここで暮らしたい。
でも、その前に、もし自分が何かを犯していたなら償いたいと思う。
誰かを傷つけたなら謝りたいんだ。
じゃなきゃ、ここでの暮らしが、その心地よさが、全部嘘になる気がする」
「そう」
少女は小さくうなずいた。
僕の意見を肯定も否定もしない。
すべて委ねて、干渉しない。
その態度が僕の決意をいっそう強くした。
確かめに行こう。
町へ戻ろう。
己の過去を知るべきだ。
「ああ、眠たくなってきた」
やるべきことを定めて決意を口にしたことで、不安は払拭されたようだ。
ハーブティの鎮静効果もあったのだろうか。
急な眠気に抗って、僕はソファを立つ。
「眠れそうだ。ありがとう、ルクレイ」
「ううん。よかった。おやすみなさい」
「きみは、まだ眠らないの? もうこんなに遅いのに」
「大丈夫。ぼく、昼寝をしたからね。それで目が冴えてるの」
残りのお茶を飲みながら、ルクレイは答える。
少し語尾が笑っている。
つられて僕も笑って、サンルームをあとにした。
◇◇◇
窓の向こうに柔らかな光が満ちる。夜明け前の空は凍りついたような薄青色で、森は紗幕を通したように靄に沈んでいる。
いくつもの鳥篭の合間にルクレイはいた。
脚立に腰かけ、その鳥篭と目線を合わせている。
鳥篭の中で眠るのはケイと触れ合った赤い鳥だ。
今は安らかに目を閉じ、呼吸のたびに小さな身体がわずかに収縮する。
鳥を眺めてルクレイは頬を綻ばせる。
その鳥が、あまりに幸せそうに眠っているから。
「あたたかくて、きれい」
少女は囁く。
そっと、打ち明け話よりも静かに、眠る鳥へ語りかける。
「幸せな鳥だね。決して悪いものじゃない。怖くもない、汚くもない。
そばにいるだけで胸が温かくなる。
……だから、さみしくなるんだ。
きみは、ぼくの鳥じゃないから。きみの巣箱は、ほかにある」
ルクレイは目を細める。
まぶしく尊いものを見るように。
鳥は眠り続ける。
夜が明けるまでにまだ時間がある。
ルクレイは鳥篭に寄り添って、朝を待った。
◆◆◆
久しぶりに着ると胸がそわそわした。
それは、僕がここへ来る道中に着ていた旅支度だ。
あの日以来一度も袖を通さなかったが、メルグスによって洗濯され、糊づけまできっちり済んでいる。
遅くに眠りに就いたのに朝の目覚めは清々しかった。
やるべきことを抱えたからかもしれない。
いつになく前向きな気持ちだ。
メルグスに起こされる前に食堂に行くと、それでもやっぱりルクレイが着席していて、食後のお茶を飲んでいる。
いつもより早起きをしたつもりだったから悔しい。
「ルクレイ。おはよう」
「おはよう、ケイ。よく眠れたみたいだね」
彼の服装に気づき、少女は少しだけ目をみはった。
落ち着いて微笑みを返す。
「今日、一度町へ戻ろうと思う」
ルクレイはうなずいた。
彼女は変わらず否定も肯定も示さない。
それを、やっぱり心地よく感じる。
「帰って確かめてくる。自分が何を忘れたのか。
そうして改めて、きみと暮らしたいって望みを告げるよ」
宣言した脇でメルグスがお茶を注ぐ。
「もちろん、メルグスともね」
付け足して、明るく笑った。
メルグス手製の朝食をいつも以上に大切に味わう。
それから短い食休みを終えて屋敷を出た。
ルクレイが庭先まで付き添ってくれる。
「僕が道に迷わないよう、願っていてよ」
「もちろん。ケイが無事に道を見つけることを、ぼくは信じているよ」
大仰な口調を、つい茶化したくなってしまう。
でも、彼女は大まじめな顔で僕を見た。だから黙ってうなずいた。
僕へ控えめに手を振るルクレイの気恥ずかしそうな見送りが嬉しくて足取りも軽くなる。
以前のように森を迷うことはないだろう。
そう彼女の言葉を信じられる気がした。
◇◇◇
彼の姿が見えなくなるまで少女はそこに立ち尽くしていた。
曖昧に振った手をおろし、胸元の鍵を探る。
己の体温で温まった鍵を服の上から握りしめる。
これでよかった、と思う。
屋敷へ戻り、二階を目指した。
鳥篭の部屋へ。
襟元から鍵を引き抜き、扉を押し開ける。
鳴き声が聞こえた。
羽ばたきの音が、いますぐにでも飛んでいきたいと訴えているみたいだ。
篭の中で赤い翼を広げ、内側の白い羽毛をあらわにする。
ルクレイは篭を鎖から外し、窓辺へと運んだ。
窓を開くと朝の清涼な空気が部屋に滑り込む。
差す日はもう明るくて、見上げると眩しいほどだ。
この空へ、鳥は飛んでいきたがっている。
戸を開けて指を差し出す。
鳥は怯えずに鳥篭を出てきて、一度ルクレイを見上げた。
問うように首をかしげる。思慮深さを感じさせる黒い瞳で少女を見つめる。
「そうだよ。きみは巣箱に戻るんだ。
ここでずっとは暮らせないよ。そうでしょう?」
そうっと腕を引き寄せ、鳥に頬ずりをする。
なんて温かいのだろう。
こんなに温かなものを手放すのは少し惜しかった。
けれどルクレイは窓の向こうへ鳥を放った。
赤い翼を翻し、軽やかに飛び去っていく。
眩しくて目のくらむ空へ飛びあがり、森へと向かった。
一度、甲高い鳴き声を残して、姿はもう見えなくなる。
「さよなら」
鳥は、きっと彼を追っただろう。
目に浮かぶようだ。
旅支度のケイが木の根につまずきながらもなんとか歩いている。
彼のもとへ赤い鳥がたどり着く。
「そう。それが、きみの巣箱だよ」
しばらく窓辺に佇んで、朝の風を受けた。
前髪をくすぐられ、心地よさに頬が緩んでしまう。
これでよかった、とルクレイは思う。
◇◇◇
いつからこうして歩いていたのか――。
もうずっと歩いている気がする。
屋敷を発ってからの時間の経過が分からない。
過ぎた時は一時間のようにも、一日のようにも感じる。
目に触れるものはすべて木々。
空は見えなくなって久しく、生き物は気配だけが濃密に漂っていて、けれど決して姿を現さない。それが何者かに見守られているようで頼もしく感じられた。
大丈夫。道にはもう迷わない。
導かれている。信じて歩む。
ふいに鳥の鳴き声を聞いた。
どこかで聞いた声だった。
鳥の声はいつしか僕を呼ぶ囁きに変わっている。
ケイ。
繰り返し、名前を呼ぶ。
ケイ。
―― ケイ、愛しているよ。 ――
唐突に身体が重くなり、もう一歩も歩けないように思った。
木に手をついて身を支える。
身体が熱く、重い。
風邪でも引いたみたいだ。余分な服を着ているみたいだ。
町への道がはっきり分かる。
引き換えに、森の奥の屋敷へと向かう道に自信がなくなった。
もう二度とたどり着けない予感に胸が痛む。
ちがう、この痛みは――。
「思い出した」
呆然と呟く。
途端に溢れる記憶の奔流に耐えきれなくなって膝をつく。
背を丸めて、胸の中に何か大切なものを抱くように身体を縮こまらせた。
思い出した。
――僕は、愛されていた。
どうして忘れていたのだろう。
どうして忘れようとしたのだろう。
分かっている。
もう、その人はどこにもいないから。
この記憶を抱えたままでは、到底前に進めないと思った。なぜなら、これからの人生に、過去を上回る幸福を望めるなんて思えなかったからだ。
――愛された。愛していた。もう出会えない人と。
幸福な体験ごと忘れ去ってしまいたかった。
あまりにも耐えがたい痛みを受けたから。
森で出会った少女の姿が薄れていく。
本当に思いを寄せたのは彼女ではない、別の相手を重ねていたのだ。
僕はうずくまる。
忘れていた痛みとともに、幸福な記憶が胸を焼いて息もできない。
幸せだった。幸せだ。そうだ――。
森へはもう帰れない。
愛するものは森にはいない。
町にも、どこにも、もういない。
だけど、取り戻したから大丈夫だ。
立ち上がって歩き出す。
ふらつく足取りで前へ進む。
木の根につまずきながら、それでも前へ進む。
またどこかで鳥が鳴いた。
その声は、胸のうちから聞こえた気がした。
◇◇◇
メルグスは客人の部屋を掃除して毛布を庭に干した。
洗ったばかりのシーツも隣に並んで、風にはためくたび眩しく日を照り返す。
サンルームの正面、テラスの椅子に腰掛けて、ルクレイは彼女の働きぶりを眺めていた。
「ケイ様がお帰りになる頃には、素晴らしい寝心地の毛布になっていますよ」
「それは素敵だ。でもね、メルグス。彼はもう戻らないよ」
「そうでしたか」
さして残念がるふうもなく答えて仕事を続ける。
ルクレイは森を見やって、別れを告げた鳥を思った。
眼差しは遠くを見ている。
木々の向こうの彼を追う。
「すごく素敵な鳥だったんだ。
赤い鳥。首や頭にちょこっと白い羽毛が生えていて、それがお茶目なかんじ。
熱くて、強くて、優しくて、穏やかで――
あれが一緒なら、どんな道も歩いていける。そんな気がする。
暗い道も照らしてくれる。灯し火のような鳥だった」
「そうですか。それは素晴らしい」
感動もなくメルグスは少女の言葉を聞き流す。
お構いなしに、ルクレイは続けた。
「手放してしまうなんて、絶対にだめだ。
彼はあれを抱えていかなくては。
あれはきっと、いつか、きみを励ます何よりの輝きになるのだから……」
羨むように目を細める。
夢見るように瞼を閉ざす。
耳の奥に、まだ鳴き声が残っている。
それはいつしか実際に聞こえる異なる鳥の声になって、少女は瞼を開けた。
「鳥がきた」
大慌てで二階へ駆け上がる。
窓を開いて身を乗り出す。
空っぽの鳥篭を抱えて、迷いこむ鳥を待ち受けた。
鳥はまた訪れる。
だからこの森で、少女はずっと待っている。
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