灯の鳥〈4〉
◆◆◆
ここで暮らす。
そう決めて、いくつかの行動を起こした。
まず己の言葉のとおり、玄関の扉を調整した。
錆びついたネジを磨いて蝶番の軋みを軽減させると、扉の開閉が軽くなった。
食卓の椅子を点検し、不備のあるものに手を加える。
仕事を始める前、こんなことがあった。
釘や工具を求めて屋敷中を探し回って、どこにも見当たらず疲れ果てて部屋へ戻ると、僕の寝起きしているその部屋にまさに一式揃っていた。
狙いすましたような出来事にルクレイかメルグスの作為を疑うと、ふたりはそろって「知らない」と首を横に振った。
森には不思議な力がある。
これもそうだろうか、と僕は空想を広げてしまう。
今日からまた新しく仕事を始めた。
サンルームの窓拭きだ。
僕はサンルームを気に入っていた。
時折手を休めて、きらきら光る天蓋を見上げる。
部屋中に光が降り注ぐ。
優しく、柔らかく。
この日差しを浴びながら働くのはどんなにいい気分だろうかと思った。
思ったとおり――それ以上に、いい気分だ。
つい歌い出したくなるほど。
僕は上機嫌に仕事に取り掛かる。
サンルームの窓は膨大な数だ。
すべての汚れを拭うまで何日かかるか分からない。
先の見えない長期的な仕事があることを今は嬉しく思えた。
少なくともこの仕事を終えるまでは、ここに居られる。
漠然とそう信じた。
おつかれさま。
そう言ったのは窓越しに姿を見せたルクレイだった。
どこかへ向かう道すがらで、ガラス窓の向こうで手を振っている。
続けて、何か伝えようと口を開いた。
喋っているのは判るが、厚い窓越しに声は届かず、挨拶以上の内容はまったく伝わらない。
「え? 何?」
今度はゆっくり口を動かすのだが、唇の動きで言葉を読むような技術を僕は身につけていない。
首を横にふって肩をすくめると、ルクレイも同じようにして笑った。
あとでね、というような言葉を残し、通り過ぎていく。
もう少し仕事をしよう。
再びボロきれを手に、窓ガラスに触れる。
しばらく夢中で掃除を続けて、ふと顔を上げて見た空は快晴の青で、時間の経過がよくわからない。
ここでは、そういうことはよくあった。
森の外とは時の流れが違うのかもしれない。
急かされることなく、焦ることなく、穏やかに過ごしていられる。
外の空気を吸いたくなって庭へ出た。
日差しも直に浴びよう。
ふと、先ほどのやりとりを思い出して、ルクレイを探し歩く。
サンルームの周辺、玄関――もっと足を伸ばして屋敷の裏手へ。
裏手は菜園になっていて、いくつかのハーブや野菜、小さな果実が育まれている。
それはメルグスの唯一の趣味だという。
きっちり整えられた菜園は精密な機械の仕事を思わせる。
どれもこれも几帳面に実り、収穫を待っているように見えた。
菜園のための道具が揃えられた小さな納屋の、ひさしの下に長椅子がある。
丁度よい日陰の中に、その身体は横たわっていた。
己の手を頬の下に敷いて、あどけない顔で眠っている。
「ルクレイ」
呼びかけると、偶然か、少女は小さく身じろぎをした。
長椅子の端に腰掛けて、彼女の細い髪をすく。
指の隙間を流れていく繊細な感触が心地よくて、いつまでも撫でていたくなる。
あまり触れると起こしてしまいそうだから、手を引いてただ眺めた。
健やかな寝息が聞こえる。
心地よい疲労と規則的な寝息が、いつしか僕をも眠りへと誘った。
抗う理由もなく目を閉じる。眠りの手前で夢を見た。
今みたいな時間を知っていた。
誰かと寄り添って眠る。
優しい囁き声が呼ぶ。
ケイ。
微笑みを交わす。手と手が触れる。
温かくて、満ち足りて、何の心配もいらなかった。
日々は忙しく過ぎて、いつの瞬間も楽しかった。
明日を待ち望み、昨日をいとおしみ、日々を編む。
それがあれば、どんなに怖い思いをしても平気だった。
帰る場所は絶対に暖かく、優しいはずだから。
それがあれば、どんなに途方もないことにも立ち向かえた。
何よりも心強い励ましをこの身に受けていたから。
それがあれば、暗闇の中を果敢に歩んでいけた。
目が潰れても、耳が塞がっても、唇を縫いつけられても、きっと大丈夫だった。
それがあれば。
それは一体何だったのか。
それはここで失った記憶なのか。
否、違うはずだ。
心地よい記憶なら、わざわざ手放すはずもない。
だからこれは、一度も得たことのない、ずっと欲しがっていた感覚なのかもしれない。ここでなら手に入る――もう手に入れているかもしれないもの。
何かが欠け落ちたようには思えなかった。
風邪を引いていた身体がようやく完治したような。
重たい服を脱ぎ捨てられたような。
身体はとても軽くなった。
同じだけ、以前よりも寒くなった。
一体何を失ったのだろう。
ケイ。
そう呼ぶ声がする。
耳に馴染んだ囁きに、僕の意識は曖昧になる。
眠りへ落ちるその瞬間、隣でルクレイが身を起こした。
急な動作に反応して僕も覚醒する。
少女はあたかも僕が聞いた幻の呼び声に呼応して目を覚ましたようだった。
驚いて彼女の挙動を見る。
彼女は眠気の名残をひとつも窺わせない機敏さで頭上を仰いだ。
「ルクレイ?」
たずねる声に、彼女はようやく僕に気づいて表情をやわらげる。
「昼寝、起こしたなら、ごめん」
「ううん。ちがう。鳥が鳴いたから」
「鳥?」
ルクレイはうなずく。
僕に構わず急ぎ足で菜園を出て行く。
去り際、僕を振り返り「一緒に来る?」と問いかけた。
◇◇◇
屋敷の二階へ、僕は今日はじめて踏み入った。
「ここが、鳥篭の部屋」
ルクレイが示したのは大きな扉だった。
コバルトグリーンの塗装がところどころで剥げ落ちて、屋敷の古さを窺わせる。
高い位置に丸い採光窓がくりぬかれて、差し込む日差しが床に模様を描く。
ルクレイは己の襟元に指を差し込んで、それを引き抜いた。
リボンで結ばれた小さな鍵だ。
何の飾り気もない無骨な鍵をドアノブの下の鍵穴にさす。
がちゃんっ、と確かな金属音を立てて解錠を知らせたドアを、ルクレイは力を込めて押した。
僕はなぜか息を殺して見守っている。
ドアが、開く。
羽ばたきの音が聞こえた。
ルクレイに続いて部屋に入る。
首をもたげて頭上を仰ぐ。
見渡す限り、部屋中に、鳥篭があった。
頭上を渡る幾重もの梁に掛けられて、あるいは柱に支えられ、ともすれば床の上にそのまま、鳥篭がある。色も素材もさまざまのすべての鳥篭に、一羽、あるいは二羽三羽、かたちも色もとりどりの、小さな楕円形のかたまりのような、うごめく暖かな生き物が棲んでいた。
「鳥――」
見たままを呟く。
ルクレイは迷いない足取りで部屋の中を進む。
僕も気づいた。
鳥が鳴いている。
その場所を彼女は見抜いている。
部屋にはあちこちに脚立が立っていて、そのひとつを選んで軽やかに上ると、梁に下がる鳥篭を外して膝の上に置いた。
抱えるほどの大きさの、円筒型の銀の鳥篭だ。
ルクレイは額を格子につけて中を覗き込む。
また、鳥は鳴いた。確かに聞き届けたと伝えるように少女はうなずいた。
鳥と人の間に心が通じたように見えて、僕は深い感慨にひたる。
ただ、言葉を発せず、見守っていた。
ルクレイは鳥篭を抱え脚立を降り、窓辺に歩む。
窓を開いて、それから鳥篭の戸を上げると、鳥へ指を差し出す。
導かれたように鳥はひとさし指に乗り、鳥篭を出た。
胸は白、羽は灰、頭を黒い毛が覆っている、几帳面な印象の小さな鳥だった。
惑うように何度か首をかしげ、やがて、止まり木の指から空へ飛び立っていく。
「さよなら」
別れを告げる言葉が優しかった。
見送る眼差しは遠く、寂しさと喜びの同居した表情が鳥への親しみを窺わせる。
あの日も彼女はこうやって――あの日は、鳥を迎えていた。
「ここは――この鳥は?」
やっと、僕は声を発した。
ルクレイもそれまで僕のことなど忘れていたように振り返って「あ」という顔をする。
「この子たちは、森へ迷い込んだ鳥だよ」
部屋を見渡し、ルクレイは答えた。
こんなにたくさん、どこから来たのだろう。
今の鳥は、どこへ行くのだろう。
不思議だった。
これだけたくさんの生き物がいて、あるべき匂いがしない。
ただ、ほのかに暖かく、静かに息衝く気配だけが部屋にある。
生きているのだろうか、本当に?
「あの鳥は、どこへ?」
「分からない。巣箱へ帰るのか、空へ帰るのか」
「巣箱から来た鳥なの、みんな?」
ルクレイはうなずく。
「ほかの巣箱からやってきて、ここに居つく。
すぐに出たがる鳥もいれば、ずーっと鳥篭を好む鳥もいる。
一度出たかと思えば、また戻ってくる鳥も」
鳥の去来は頻繁なことなのだと窺えた。
鳥の境遇をつい己に重ねてしまう。
森の噂に導かれる人々に似ていると思った。
鳥たちも、何か忘れたい記憶を抱えて来るのだろうか。
そう思うと、あの日に見た鳥が気になった。
親近感が湧いて、会ってみたいと思った。
「ルクレイ。以前――僕がここへ来た日にも、鳥を迎えていたよね。
あの子は、今も?」
「うん。居るよ。ほら、ここだ」
窓辺を離れ、ルクレイは部屋を歩む。
この膨大な数の中、どこにどんな鳥が棲むのかすべて把握しているようだ。
案内に従いそこへ向かう。
鳥は、支柱から下がった木の鳥篭の中にいた。
赤い鳥だ。
羽根にくちばしをうずめ、心地よさそうにまどろんでいる。
頭部や喉元に白い模様が散って、翼も所々が脱色したようにまばらな白が混じっている。触れたら暖かそうな印象に、つい鳥篭に指を差し込みたくなった。
けれど、安眠する様子がそれを躊躇わせる。
それでも、あまり僕が見つめるせいか、鳥は小さな頭を上げて観察者の顔を見た。
目が合った、と思った。
「触れてみる?」
隣で、ルクレイが問いかける。
「いいの?」
「きみがよければ」
もちろん、触れてみたかった。だからうなずいた。
少女は鳥篭の戸を開け、僕に促す。
おそるおそる手を篭に差し入れた。
手の甲を鳥へ向け、なるべく小さく縮こまらせた拳で、ほんの軽く、触れる。
鳥は怯える様子はなく、僕を拒絶することもない。
「温かい」
思わず口をついた。
高い体温を感じる。
まるで灯し火のようだ。
こんなに小さな鳥なのに頼もしく思えて、むしょうに嬉しくなる。
懐かしいものに触れた気がした。
なぜだか、とても惹かれた。
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