灯の鳥〈3〉


◆◆◆


 過ぎた日々は一日のようにも、一月のようにも感じた。


 目覚めるたび、鳥の巣みたいに温かいベッドを新鮮に感じる。

 生まれる前の鳥は卵の中でこんなふうに温かく柔らかな安心に抱かれているのだろうな、と想像してしまう。

 穏やかな気持ちでいられて、目は覚めていても毛布を抜けたくない。


 やがて、扉が軽く叩かれる。

 扉は閉ざされたまま、メルグスの呼び声がする。


「ケイ様。お食事のご用意ができました」

「ありがとう、メルグス。行くよ」


 向こうで慇懃に一礼する彼女の姿が見える気がする。気配が去って、それでもしばらく毛布の中でぐずぐずして、ようやく僕は支度を調える。


 借り物の白いシャツ、リネンの心地よいズボン。

 メルグスによって清潔に保たれる衣類たち。

 ここへ来る道で着ていた服はあれから一度も袖を通していない。


 食卓へ到着すると、いつもどおり先に食事を終えたルクレイがお茶を味わっている。どんなに早起きをした日も彼女は先に食卓にいて、僕が来るのを待っていてくれた。


「おはよう、ケイ」

「ルクレイ、今日も早いね」

「規則正しい生活をしているから。おすすめだよ」

「僕は、だめだな。あのベッドが心地よくて、ついごろごろしてしまう」


 ルクレイは嬉しそうにメルグスに目配せする。

 それを受けて、メルグスは一礼をする。

 毛布を干すのは彼女の役目だ。

 ベッドメイクも毎日きっちりと行う。その仕事は一流のホテルマンのように完璧で、日によって出来栄えが異なるようなことはない。


 今朝も不足のない朝食を楽しんでひと息つく。

 メルグスは絶好のタイミングでお茶を運び、団欒のひとときを万全なものにする。


「どう、ケイ。行き先は決まりそう?」

「ええと。正直なところ、まだ何も考えてない」


 町に帰らなくてはいけないと分かってはいた。

 けれど、どうしても現実味を感じられない。


 町がどこにあって、そこでどのように暮らしていたのか、深く考えることが難しかった。今までどうやって生きていたのか分からないのだ。


「そう。少し歩いて捜してみるのもいいかもね。森の中へ散歩に行く?」


 ルクレイの問いかけに僕は考え込む。

 彼女には急かすつもりはなく、僕にもそれは理解できた。


 このまま居続けることはできないと漠然と感じてはいるが、具体的にどうすればいいのか見当もつかない。

 変化を得るのはいいことかもしれない。

 今日まで充分休んだ。

 少しずつ行動を起こしてもいい頃合いだと思う。


「散歩、一緒に行ってもいい?」

「大歓迎!」


 連れ合いを得て、ルクレイが素直に喜びをあらわにする。

 森への散歩は彼女の毎朝の習慣だ。

 僕は付き添ったことがない。

 森で迷った経験が新しく、再び踏み入ることに抵抗があった。


 けれど、散歩程度の距離ならば――

 ルクレイが一緒なら、迷うことはないだろう。


「そうと決まれば、メルグス、ランチボックスを作って。

 あ、待って、ぼくも手伝う」


 カップをあおってお茶を飲み干し、ルクレイが席を立つ。


「せっかくだから少し遠くまで足を伸ばそう。日暮れまでには帰るから」

「え、あ――いや、いい、近くまででいいよ。疲れちゃうだろ」

「へいき! ゆっくりしていて。食休みのあとで出かけよう」


 メルグスのあとを追って厨房へ駆けて行く。

 その足取りは元気を持て余した子供そのものだ。

 退屈していたところに新しい楽しみを得た、お留守番の子供。

 無下にできるわけもなく、僕は苦笑して頭をかいた。


◆◆◆


 ルクレイは濃紺色のビロードのローブを羽織った外出着姿で、軽やかな足取りで進む。ランチの入った籠を下げた姿は、絵本に出てくる登場人物のようで微笑ましい。

 僕は借り物の服に上着だけ自前のジャケットを着て、少女のあとに続く。


 慣れているのか、ルクレイが木の根につまずくことはない。

 枝に衝突せずに済むのは単純に彼女の背が低いからだ。

 あやうく目に入りそうな枝先を首を曲げてかわしながら、遅れ気味の足取りで少女に続く。


 森は暗い。

 日差しを遮る木々の天蓋の下、生き物の姿は虫も獣も見かけない。

 こちらの動向を窺うように、警戒して息を潜めているような気配があった。

 静寂の合間を、風の通り抜ける音と、それに揺らされる木々のざわめきだけが埋めていく。


 森の息遣いを感じる気がした。

 意思を持って、囁きかけているような。

 導かれている。

 誘われている。

 惑わされている――。


 森で迷った日の記憶がよみがえり、僕は少しだけ怯える。


「ついた」


 ルクレイの囁きが、僕から恐怖を取り除く。


 明かりの差す、空間の開けた様子は、ルクレイの住む屋敷の周辺を思い起こさせた。中央にあるのは巨大な樹で、幹の直径を目算するのも難しいほどだ。


「ここに、きみを案内したかったの」


 ルクレイは振り返る。


「ここは森の中心地。ここからどんな場所へも、同じ距離でたどり着く」


 不思議な話だ。

 方々からの距離が均等になる位置を測って中心地を割り当てたのか。

 そうだとしたら、そびえ立つ巨大な樹がここにあるのはできすぎた偶然に思う。

 あるいは、事実はどうあれルクレイは励ますつもりでそう言っているのかもしれない。


「ここで少し考えたら、もしかしたらいい道が見つかるかも。ね、食事にしよう」


 近くに寄ると、巨樹はその規模感をいっそう曖昧にした。

 見上げても先は見えず、近距離ではほとんど壁のようだ。

 幹から伸びる枝だけでも森のほかの樹ほどに大きい。

 巨大樹は、それ一本だけでひとつの小さな森が成立しているように感じられた。


 単純に、これだけ大きな構造物を目の当たりにして圧倒される。

 力強さに打ち震え、頼もしく感じた。

 見守られている。

 そう思った。

 すべて――この樹はすべてを知っている。


 適当な根を見つけ、それを腰掛けにしてふたり並んでランチボックスを開く。

 僕には具のたくさんつまったサンドが、ルクレイにはいくつかの果実が詰められていて、魔法瓶から熱いお茶を注いでひと息ついた。


 風が吹くと、木々の合間から差す日がちらちらとふたりの身体の上を撫でていく。

 僕はこの場所を好きだと思った。


 いつしか森への苦手意識は消えていた。

 同時に、ここを離れていくことに現実味を感じられないと自覚した。


 小量の食事を終えて、ルクレイは木の根に背を預け、ふりそそぐ光を気持ちよさそうに浴びている。

 視線に気づいて目を開けて、僕を見やった。

 どう、と問いかけるように。


 確かに変化は訪れた。

 どこへ行こうという欲求は浮かんでこない。

 けれど、己の希望がはっきりした。


「……玄関の蝶番、油を差さなくちゃ。

 一度ネジを全部取り替えたほうがいいかも、錆びついていると危ないから」


 何の話かと怪訝そうに上体を起こし、ルクレイは根の上に足を揃えて膝を抱えた。

 僕の言葉に耳を傾ける。


「メルグスは家事はするけど、大工仕事はしないだろ。僕がやる。

 がたついてる椅子の足を直したり、ほかにも、高い場所の埃を払ったり……」


 少しだけ、少女の目に期待が灯る。

 拒絶はされていないと感じて僕は勇気づけられる。


「男手があると、何かと便利だと思うんだ」


 決定的な言葉を聞くまで、自分からは何も言わないつもりらしい。

 少女は抱えた膝に頬をうずめて僕を見ている。


「ここで暮らしても構わないかな。

 今後は、自分のことは自分でするし、メルグスを手伝うよ。

 女性と子供のふたり暮らしより、そのほうが少し安全だ。

 僕、まだどこへ行く気にもなれない。ここで暮らしたい」


 正直な気持ちを伝えた。

 胸に渦巻いていた重たいものが、ふと軽くなった気がした。


「ほんと?」


 ルクレイは囁く。

 何に対する確認か、わからなかった。

 でも、どれに対しても考えは変わらない。


「本当」


 少女は考え込むような目をした。

 思った以上の慎重な反応に心配になる。

 今になって迷惑だとか邪魔だとか、歓迎されない言葉を想定して身構えてしまう。


「ぼくもね、ずっと考えているんだ」

「――何を?」

「ここでの暮らしを、ぼくは気に入っているのだけど……

 時折、誰かほかの人も一緒に暮らしていたらいいのにって思うことがある。

 ひとりきりで過ごすのは嫌いじゃないけど、時々すごく退屈なんだ」


 ひとり、とルクレイは言う。

 メルグスとふたりではないのか。

 あるいは、彼女くらいの年頃の遊び相手には不足なのだろうか。

 

 言葉の細かい意図を推測する。

 その結果、どうやら彼女も新しい住人を喜んでいるようだと理解できた。


 だから、嬉しくて身体中の血が熱くなったみたいだった。


「ルクレイ」


 感極まって思わず抱きしめる。

 む、と少女は息を詰まらせる。

 触れる、ルクレイの身体は傍から見る印象よりも細く、頼りない。


 柔らかく、温かい。

 この感触を知っている気がした。


 確かめるように、もう一度、しっかりと抱きしめた。


「ケイ、もう」


 ルクレイがそっと僕の身体を押し返す。

 乱れた髪を払って、少女は彼を見上げる。

 急なハグに驚いた顔だ。戸惑って、少し照れている。


「ごめん。でも、嬉しくて」

「ううん」


 小さくかぶりを振って、きみを歓迎するよ、と少女は言った。

 僕は彼女の言葉を素直に受け取って、なお喜びを深くした。



 風が少し冷たくなった。

 ランチのあとを片づけて、屋敷に帰る支度をする。

 ルクレイは去り際、大切そうに巨樹の皮を撫でた。


「また来るね」


 あたかも樹に聞く耳があるように囁く。

 それからつま先立ちになると、手ごろな枝にキスをした。

 まるで口づけを受け入れるように、わずかに枝が垂れて見えたのは、風が揺らしたせいだろうか。


「それじゃあ」


 樹に別れの挨拶を残し、ルクレイは屋敷へ帰る道をたどる。

 歩きながら樹を振り返った。


 大きな、大きな、途方もなく大きな樹。

 

 こんな樹があるなんて知らなかった。

 これだけの巨大なものがどうして町からは見えなかったのだろう。

 話も聞いたことがない。今まで知らずにいたのが不思議でならない。


「ケイ。足元気をつけないと、根につまずくよ」

「ああ、うん」


 ルクレイの忠告へぼんやりと返事をする。

 言われたとおり、僕は木の根につまずいた。

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