EP01:灯の鳥〈2〉


◆◆◆


 ケイ、朝だよ。もう起きて。


 そう優しく揺り起こす声を、聞いたように思う。


 ――あれは、一体誰の声だろう。


 すごく優しい声だ。

 その声に僕は天にも上る気持ちになる。

 その声さえあれば、僕は何も怖くない、大丈夫。

 どこへでも行けるし、何にだって挑戦できる。


 心強く頼もしい、その声は――


 一体誰のものだっただろう。


「……」


 目が覚めたけれど、瞼が重い。

 まだいくらでも心地よく眠り続けられるような気がした。


 膨らんだ枕と厚く柔らかい毛布に全身を優しく包まれて、親鳥に温められる卵の気分だ。

 深く呼吸をすると、幸福感に満ちたまどろみが少しずつ引いていく。もう眠ってはいられない。


「……ここ、どこだ」


 見知らぬ部屋にいる。

 こんなに寝心地のいいベッドも身に覚えがない。

 服は森に入った旅支度のままだが、ブーツもジャケットも取り去られ、首元はボタンから解放され、眠りを邪魔しないような配慮がなされていた。


 けだるい身体を起こす。

 まだ疲れは残っているけれど、心地いい運動をしたあとのような、どこか清々しい感覚だった。


 僕は昨日……

 森で迷って、屋敷にたどり着いた。


 夢ではないか、と即座に思う。


 少女に出会った。

 鳥篭に、鳥を受け入れて……微笑んだ。


 その光景が妙に非現実的に見えて、夢ではないかと疑った。

 そうではないのなら、ソファで寝入ってしまった僕を、一体誰が運んだのだろう?


 身を起こして部屋を見渡す。

 窓から森の木々が見えた。

 時刻はよくわからない。でも、空は明るい。


 部屋にある最低限の調度品は長らく使われた形跡がなく、それにしてはベッドは清潔に保たれている。もう一度潜り込んで眠ってしまいたいほど毛布はやわらかく温かい。


 誘惑よりも好奇心が勝ってベッドを出た。


 ブーツを履いて、窓ガラスが歪んだ日差しを投げる床の上を歩いて、ドアを開く。


 埃っぽい空気に満ちた廊下が続いて、左右のどちらかが昨日案内されたサンルームだと推察した。

 明るい光の満ちるほう、暗い影に続くほう。

 おそらく前者だろうか。

 首を伸ばして様子を窺う背中に、


「お目覚めですか、お客様」


「わっ」


 唐突に声をかけられて、振り返る。

 影になった廊下から背の高い女性が現れた。

 

 黒い髪をきっちりと編み込んでいる。黒いワンピースに白いエプロンと、全体の印象が二色で色分けされたような女性だった。

 ふたり目の住人に遭遇して妙に安心した。あの子がこの屋敷にたった独りで暮らしているわけではないのだ、と判ったからだ。


「あ――もしかして、僕を運んだ?」


 ほかにも言うべきことはあるだろうに、やっと出てきたのはそんな質問だった。

 男をひとり、彼女の細腕で運んだのかと思うと申し訳なくなる。

 重たかったに違いない。


「はい。不躾ながら、客室までの移動および衣類の着脱をお手伝いさせていただきました。ご了承ください」

「ああ、いや、それは構わないよ。ありがとう。面倒をかけてすみません」

「いいえ。屋敷の客人は手厚くもてなす決まりです。支度ができました、食堂へお越しください」


 侍女は長いスカートを翻し、僕へ向き直る。


「申し遅れました。私、お世話をつとめさせていただきます、メルグスです」


 身に染みついた見事な所作で一礼し、頭を起こす。

 一連の動きも、ともなう表情も、声の調子からもある種の厳しさを感じさせた。

 つられて僕も、角ばった動きで礼を返す。


「僕は、えっと――ケイ。お世話になります」


 ケイ。それが僕の名前。


 忘れるはずないのに、忘れていたような気がした。

 お世話になると言いながらも、一体どういう経緯で自分がこうなったのか、いまいちはっきりしたことがわからない。


 ただ、昨日の少女の言葉だけが耳に残っている。


『目的は果たされた』


 ――僕はひとつ、記憶を失った。


 何かが欠け落ちたようには思えなかった。

 不足した感覚はなく、むしろ余分なものが削ぎ落とされて、本来の自分のかたちを取り戻したとさえ思う。


 風邪を引いていた身体がようやく完治したような。

 重たい服を脱ぎ捨てられたような。


 ――これが、多分、本来の自分のかたち。


 影の落ちる通路を案内されて食堂へ向かう。

 どこから入るのか、足元に不意に踊る日差しが森に息衝く小さな生き物みたいだと思う。


 屋敷の中はとても静かだ。


 メルグスはほとんど足音を立てず、僕も忍び足になって息を殺してあとをついて行く。だから、静寂がいっそう確かに感じ取れる。


 あの女の子は、どこにいるのかな。

 なぜここに暮らしているんだろう。

 ふたりのほかに、住人はいないのか。


 次々に浮かんでは消える好奇心が次第に僕の意識をはっきりさせていく。

 メルグスに質問しようか。いきなり不躾だろうか。

 迷っているうちに食堂に辿りつき、椅子を勧められた。


「あの、これは」


 食卓は、広い円形のテーブルだ。

 中央にいくつもの果物を乗せた杯が、周辺にまだぱちぱちと音を立てる焼きたてのパンが、隣には注ぎ口から湯気の上るポットが並んでいる。

 肉料理は見当たらず、そのほとんどが野菜や豆、果実のみで構成されていた。

 どれも作りたての温かさをもって僕の食欲に訴えかける。


「おはよう。よく眠れた?」


 食卓に気を取られていた顔を上げる。

 対面に彼女が座っていた。

 淡い色の、小鳥を迎えた少女。


「あ――うん。それはもう」

「ならよかった。ぼくはルクレイ。きみは?」

「ケイ。……ルクレイ」


 名乗り、相手を呼ぶ。

 呼ばれて、少女は少しだけ目を細めた。


「まずは食事にしよう。お腹空いてるでしょ?」


 僕の質問したがる様子に気づいて、ルクレイは仕切るように言った。

 機を逸したようにも思ったが、確かに彼女の言うとおりに空腹だったから、素直にパンに手を伸ばす。傍らで、メルグスがさりげなくカップにお茶を注いでくれて、茶葉の香りにすっきりと頭が冴えていった。


 ひと口かじって、あとはもう夢中で食事をした。


 その様子をルクレイは眩しげに見つめ、時折カップに口をつける。

 彼女は先に済ませたのか、卓の上の食べ物に手を伸ばさない。

 旺盛に食事をする僕を見て嬉しそうに微笑む。


「美味しい」


 思わず言葉が口をつく。


 と、ルクレイは給仕をつとめるメルグスを見やって、「だってさ」と言葉をつぐ。

 メルグスは律儀に一礼して、逆に僕のほうが恐縮してしまう。

 その様子を見て少女はまた目を細める。


 決して賑やかではないけれど、楽しい食事になった。

 お腹一杯食べて息をつく。

 とても落ち着いた心地だ。

 

 こんな気分になったのは一体いつ以来だろう。

 このところ、ずっと何かに怯えていた気がする。

 ずっと、途方に暮れていた。


 テーブルの上からすべての食器が運び去られ、遮るものもなく少女の姿が見える。

 ルクレイはカップを持ち上げ、温かな香りを楽しむように目を閉じる。

 何を思うでもなく眺めていたら、瞼を開けた彼女とまともに目が合った。


「ここに住んでいるんですか? 森の中に?」


 勢いで、ようやく、疑問を口にする。


「うん。きみは? 町から来たの?」

「もちろん。だから、驚いた。この森に、誰かが暮らしているなんて想像もしなかったから。だって――」

「だって?」


 ふと口を噤む。

 続く言葉が無礼ではないかと心配した。


 だって、ここは忘却の森。

 人から記憶を奪う森。

 だから、近づいてはいけない。

 踏み入ってはいけない。


 ある者は不意に森へ行き、別人のようになって帰ってきた――そんな話も聞いた。

 森には何か、妙な力がある。

 決して深入りしてはいけない。

 それが町での決まりごとで、誰もが知る事実だった。


 不気味な噂の絶えない森に、まさか人が暮らしていたなんて。


 言葉なく、しかし雄弁な沈黙に、少女はすべてを見透かしたように短く笑った。


「じゃあ、なぜ、わざわざここへ来たの?」

「噂を、聞いて……」


 記憶を失う森。

 ここへ来れば、辛い出来事を忘れられる。


「うん。言ったよね。大丈夫、目的は果たされた。きみはひとつ記憶を失った。よかったね、無事に逃げ延びたんだ。もう何も心配いらない」

「もう――いいのか」


 苦しみから解放された。

 そうだ。

 無事に逃げ延びた。

 恐ろしくて二度と振り返りたくない、忌まわしい記憶と決別した。

 それが一体どんな体験だったのか。

 今となってはもう判らない。

 けれど、それで構わないのだ。


 身体はとても軽くなった。

 これが、本来の自分のかたち。


 でも、それならどうして、頬を涙が濡らすのだろうか。


 止めどなくあふれる、これは、痛みなのか、安堵なのか。

 震える喉から漏れかけた嗚咽を飲み込んで、僕は手のひらで涙を拭う。

 しゃくりあげて泣くなんて、子供の頃に戻ったみたいだ。


 少女は黙って、そ知らぬふりで見過ごしてくれる。

 慰めも励ましもなく、そこにいて、ただ受け入れてくれる。

 それが僕には何より嬉しかった。



◆◆◆



「ぼくは、みんなが記憶の喪失に戸惑って道に迷わないよう、ここにいる。

 休む場所を貸して、帰り道を示す。

 示すだけだ、どこへ行けなんて押しつけはしないよ」


 庭へ出て、サンルームへ向かう。

 森の様子を眺めながらルクレイのあとに続いた。


 森は途方もなく深く続いているように見える。

 ここからどうやって町へ帰ればいいのか。

 一度迷った経験が、再び森に入ることを躊躇わせていた。

 怖じ気づく僕に気づいてか、ルクレイは言う。


「行きたくなるまで、休んでいって構わない。みんなそうする」


 驚いた。

 みんなと呼ぶほど大勢の人がこの森に訪れ、記憶を失い、去っていく。

 噂が事実だったとしても、記憶を捨てたい人間なんてそう多くはないと思っていた。前例の存在に勇気づけられるような、むしろ彼らの勇敢さを羨むような、どっちつかずな気持ちだ。


「ここで休んで、それから、みんなはどうするの?」

「それぞれ、って答えは不親切だね。

 みんな数日ここで過ごす。

 気が済んだあとで元の町へ戻る人もいれば、住んでいた町とは別の場所を目指して行く人も。森は色んな町に通じているらしいから」


 中は日光に温められた空気で充満し、いきいきとした植物の香りでいっぱいだ。

 改めて天井の高さやガラス窓の数に圧倒される。

 降り注ぐ光の雨に呆然と天をあおいで立ち尽くす。


「すごいね、ここ」

「うん。お気に入り」


 僕がこの部屋を好ましく思うのが嬉しいみたいだ。

 同じように天井を見上げて、眩しさに瞼を閉じる。


「日の光を浴びて、しばらく休めば、自然と進む道がわかるから」


 その言葉はまだ僕には実感として響いてはこない。

 まだ、時間が必要だ。


「焦らないでいい。慌てないでいいよ。

 ゆっくり、落ち着いて、それから考えればいい。

 今はただ――休んでいいよ。

 身体に、心にも、休息をあげて。いままで充分迷ったでしょ」

 

 ルクレイはソファへ気楽に身を投げ出す。

 僕もならってお行儀悪く身を横たえる。


 ふたりが半身を並べてもまだ余裕のある、大きなソファだ。

 横たわって見上げる天井はさらに高い。


 ガラスの天蓋の向こうは青い空。

 平衡感覚を失って、ふわふわした浮遊感を味わう。


 そっと目を閉じると、瞼越しにも温かな日差しを感じる。

 居心地がいいな、と素直に思う。


「みんな、記憶を捨てにくる? この森へ」

「うん」

「捨てたいほどの、記憶を……」

「みんな、抱えきれずに、ここへ来る」

「きみはずっと、彼らのためにここで待ってるの?」

「そう。もう大丈夫だよ、心配ないよって、安心させてあげるの。

 記憶を失ったことでひどく取り乱す人もいる。不安がって混乱してしまう。

 そうならないように教えてあげるんだ。

 これはきみが望んだことで、望みは叶ったって」

「後悔するひとも、いる?」

「どうだろう。それはきっと森から帰ったあとのこと。きみは後悔している?」


 僕は目を開ける。

 思いもよらない強い光に反射的に瞼を閉ざす。


 もう一度、おそるおそる目を開けると、何かが日差しを遮って僕の顔に影を落としていた。ルクレイがこちらを覗きこんでいる。

 窺うような眼差しには僕を哀れむ色はなく、純粋な興味だけが宿っていた。


 僕のことを知りたがる目だ。


「後悔。わからない。

 けど今はこれでよかったって気がしている。

 後悔したくないと思う。僕はここに来てよかった。今、すごく気が楽だ」


 ルクレイは吐息をもらす。

 笑みのような、返事のような呼吸だった。


 言葉はなく、寄り添うでもない。

 ただそばにいて、同じソファに横になって、無為な時間を過ごした。


 時間は無限にあるような気がした。

 何もしなくていい。

 何も喋らなくていい。


 ここでは誰も急き立てず、何も催促されず、望むままに休んでいられた。

 ずっと、こういう時間がほしかった気がした。


 眠りとも目覚めともつかない曖昧な意識。

 現実とも夢ともつかない不可思議な空間。

 日々の生活から切り離され、今日と明日の狭間でいつまでもまどろんでいられる。


「ケイ」


 不意に、ルクレイが身体を起こした。

 ソファを降りて絨毯を踏む。僕へと向き直って、


「夕食のリクエストをメルグスにしておいで。

 彼女、久々の来客にはりきってる。もう下ごしらえを始める頃だ」

「ああ、うん。ありがとう」


 促されて身体を起こす。

 まどろみへの未練は立ち上がった時にはもう消えていた。


 夕食の時間まであとどのくらいだろうか。昼の食事を済ませてから一時間も経っていない気もすれば、もう長いこと横になっていたようにも感じる。

 何もせずに過ごす時間を、これほど惜しくないと思ったのははじめてかもしれない。

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