太陽と月〈6〉
◆
窓辺の月を見ている。眠れないのは熱のせいだ。
オレの心臓は、今日まで止まっていたのだろうか?
そう思うほど、鼓動が弾んでいる。
どくん、どくんと打っている。だからずっと身体が熱い。
小さな檻にとじこめた鳥が大きくなり果てて、出て行きたいと暴れているみたいだ。
見上げるのは、望の月。
ベッドに入って無理にでも目を閉じてみる。
だけど、瞼の裏側に月が張りついたみたいに、ずっと輝いて見える。
何度も寝返りを打って、試行錯誤を重ねたうえで、オレはようやく眠りに落ちる。
――夢を見た。
お屋敷の庭は広く、続く田園の向こうに雑木林が広がっていた。
緑と水の匂いに囲まれた庭を抜けると、陽射しが細切れに遮られた雑木林。
そこは、子供たちにとっては格好の遊び場だ。
大人の足ではそう広いとは言えない場所も、子供の身の丈には素晴らしい秘密の園に感じられたものだ。木の実をもいで食べたり、それを鳥に分けたりする。
寒白菊が咲いていて、一面に雪が積もったみたいに見えた。
まだお互いに両手で足りた年の数。
足の長さも大差なく、背の高さも同じだった。
同じ目線で、同じものを見ていたあの頃。
村で結婚式があって、二人で隠れて見物にいった。
すぐに影響を受けて、秘密の場所で真似をした。
そのときは、オレはまだ立場をわきまえていない子供だった。だから、あまりにも不敬で、あまりにも身の程知らずなことをした。
アヤ様の額に口づけた、あの一瞬の熱を、オレはずっと忘れていた。
あの日が境だ。
オレはうっすらと己が置かれた境涯を理解しはじめていたし、アヤ様はまだ知らずにいた。
あのとき満足した。手放す決心をして、それに身を捧げた。
アヤ様には、アヤ様にふさわしい幸いのかたちがある。そう信じていた。
諦めはついたはずだった。
どうして今、再び胸に火が宿るのか。
オレはどうして、これを忘れていられたのか。
――なにもかもが、今更だ。
『私は、あなたのものにはならない』
その通り。言われるまでもない。オレにはとっくに分かってた。
まさにそれこそがオレの願いだ。
オレがアヤ様をどう思っていても、関係ない。
アヤ様は、手を伸ばせば届く幸せをしっかりと握りしめて、手放さないでほしい。
それが、オレの幸せ。
そのはずだったのに。
『ハル。朝ごはん食べないの?』
ノックの音が何度か響いて、続けてルクレイの声がドアの向こうから聞こえた。
最初の一発目から、ノックの音には気づいていた。
でも眠すぎて起きられない。
昨晩よく眠れなかったから、身体はまだベッドを出たがらない。
いつもはもっと早く起きられるのに。
「アヤはもう起きたよ」
「えっ……」
ドアの向こうの声に、驚いて飛び起きた。
オレの慌てた様子が伝わったのか、ルクレイのくすくす笑う声が響く。
「待ってるね」
「うん、すぐ行く!」
慌てて着替えて部屋を飛び出した。
アヤ様より遅く起きるなんて、もしかしてもう昼下がりだろうか。
お腹が空いている。はっきりと胃が鳴っている。
こんな朝は滅多にない。
早起きは苦じゃなかった。普段なら、朝は、オレが一番働く時間だと言ってもいいくらいだ。お屋敷のみんなが目を覚ます前に、ゴミを運び出し、掃除を終えて、洗濯をする。朝食を作るのは雇いの料理人だけど、オレもその手伝いをする。後片付けもする。
眠って過ごすと、朝はあっという間に過ぎる。
惜しいような、とんでもない贅沢をしたような、でも落ち着かない気分だった。
慌てたせいで、鼓動が、どくんどくんと騒いでいる。
落ち着こう。深呼吸をしよう。
そう思った矢先に、視界に光が飛び込む。
リビングに入ると、そこに朝食の支度ができていた。
カーテンのむこうから投げかけられる柔らかい陽射しが、食卓をやさしく覆っている。そのなかで艶めく黒髪が、絹糸みたいにきれいだ。
とても上品な織物になるのではないか、と想像してしまう。
アヤ様がいた。
姿勢よく椅子に座ってお茶を飲んでいる。
もう朝食を済ませたのだろう。
こちらを少し振り返り、ちょっとだけ笑う。オレの寝坊をからかうみたいに。
瑞々しい口元から、真っ白い歯が覗く。
でも、一瞬の微笑みのあとで、唇はすぐに奥ゆかしく閉ざされてしまう。
アヤ様はきれいだ。
昨日も、一昨日も、変わらない。
何年も前から、ずっときれいだ。
でも、今日ほどそれを実感できた瞬間は、かつてあっただろうか?
あったかもしれない。
その日のことを、オレはずっと忘れてた。
「アヤ――」
「おはよう、ハル。どうしたの?」
「アヤ様……おはようございます」
喉がつかえて、うまく喋れない。
まっすぐこちらを見る眼差しを、まともに見られない。
俯いて、咳ばらいをして誤魔化した。
どくんどくんと弾む鼓動が胸を圧迫して、苦しい。
「ハル、起きたね。おはよう。さあ座って。スープを温めたよ」
「あ……うん、ありがとう。おはよう、ルクレイ」
「ぼくたち、少し森に出かけるから。二人も好きに過ごしてね」
キッチンから現れたルクレイが、オレの朝食に最後の仕上げをしてくれる。
温かいスープをそそいだカップを添えて、完成だ。
椅子に腰かけると、顔のすぐ横にアヤ様の視線を感じる。
森へ来てから朝食をともにするのははじめてだ。
昼も夜も、一緒に食べたけれど――なぜ、今朝はこれほどに違うのだろう。
空気が、弾んでいるような。
まだ窓の外には雪の残る庭がある。
つい確かめたのは、知らぬ間に春が来たように錯覚したからだ。
眺めていると、庭へ出たルクレイとメルグスさんの姿が見えた。
ルクレイは空っぽの鳥篭を携えている。
「ハル、今朝は遅かったのね。よく眠れなかったの?」
「あ、いえ……そうかもしれません」
「寒かった?」
「いや、大丈夫。心配ないです」
アヤ様は安心したように笑う。
その微笑みに、また鼓動が弾んだ。
「今日は天気がいいから、少し外に出てみない? ルクレイが教えてくれたの。朝の湖は氷が張ってきれいだって」
「へぇ……それは、見てみたいですね。まだ溶けてないといいけど」
なぜだろう。
オレは張している。
昨日も、一昨日も、変わらない。
何年も前から、ずっとアヤ様と一緒にいた。
家族のような、友達のような、
でも絶対にそれとは違う距離感で親しみを交わした。
どうして昨日まで平気でいられたのか分からない。
どうして今朝、急に気づいてしまったのか。
オレはやっぱりアヤ様が好きで、手放したくないってこと。
だけどオレなんかがアヤ様を手に入れることは叶わないって事実は、変わらない。
昨日も、一昨日も、明日も、明後日も変わらないんだ。
すごく悲しくて悔しいのに、胸のどこかで喜びが弾けている。
それは、アヤ様を好きだって気持ちが生み出している熱だ。
好きなひとが、そばにいて嬉しい。
オレを見て、言葉をかけて、微笑んでくれている。
こんな幸福に昨日まで無自覚でいられたことが驚きだ。
オレは昨日までずっと寝ぼけていたのかもしれない。
嬉しい。
でも、喜びが膨れるほどに、同じだけ苦しくなった。
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