太陽と月〈5〉


    ◆


 アヤ様は着替えるために屋敷に戻った。ルクレイとメルグスも一緒に。

 特に必要もない後片付けのために、ひとりサンルームに残る。


 ソファに腰かけて、頭を抱えた。

 さっきからずっと頭が重い。熱を持っている。

 ふと視界に入るのは、寒白菊の指輪だ。

 植物らしい瑞々しさが皮膚に伝わる。

 オレ自身の体温で温まって、肉体の一部みたいに感じられる。

 ずっと、胸の奥で、うるさく鼓動が弾んでいた。

 唇をあてられた額から熱が冷めない。

 息が苦しくて、とても疲れている。おかしいな。よく眠ったはずなのに。


「――ハル。お昼ご飯食べる?」


 ドアから覗き込むのはルクレイだった。サンルームへ入ってくる。


「開けたままで、頼むよ」


 不思議そうに首を傾げ、でもうなずいて、ドアを半開きにしたままこちらへ来た。

 冷たい風が吹き込むのが今はとても気持ちいい。


「ハル。顔、赤い」

「そうかも。なんか、熱がある」

「……大変だ。寝てないと――」

「いや、大丈夫。風にあたれば、よくなるから」


 ルクレイはしばらく慎重にオレの様子を確かめていた。

 が、やがて納得したようにうなずいてソファに腰かけた。


「アヤ、とっても綺麗だったね。せっかくだけど、今は髪を直してる」

「そうか。うん……アヤ様は綺麗だった。ありがとう」

「本番の結婚式も、あんなかんじ?」

「いや。もっと、とてつもなく豪華な場所でやる。天井が高くて、シャンデリアがいっぱい輝いてさ、絨毯もふかふかで……アヤ様は三回くらい着替えるはずだ。満開の花みたいなドレスをさ」

「きっとすっごく綺麗だね」

「だろうね。そりゃもう見事なものだよ――」


 ふいに胸が苦しくなって、つい咳き込む。


「ああ、幸せになってほしいな」


 ずっと変わらず願っていたことが、言葉になってサンルームに響いた。

 ――もう、願うまでもない。

 間違いなく、アヤ様は、幸せになるはずだ。


「さっき見てたけど、アヤ、とても綺麗だったんだよ」

「はい。それはもう、アヤ様は……月のお姫様だから」

「うん。それもだけど、それだけじゃない。すごく嬉しそうだった」

「……そうかな?」

「そうだよ。ハルの隣でね、すごく、幸せそうだった」


 ルクレイがどんなおせっかいを焼こうとしているのか、分かる気がした。

 少し笑った。強がるつもりだったのに、全く力が入らない。


「――一瞬だけですよ。一瞬だけなら、幸せになれる。でもそれだけじゃ足りない。アヤ様は、ずっと、生涯、末永く幸せでいてくれないと。それを達成するのは、オレでは難しい。アヤ様はオレには手の届かない宝石なんだ。でもそれでいい。触れられなくてもいいから、相応しい場所で一番輝いている姿を見守っていたい。それができれば、オレは満足なんだ」


「……ハルは、アヤのこと大好きなんでしょう?」


「もちろん。こんな宝物は、ほかにない。でも――大好きだからって、手に入れたいとは限らない。大好きだからこそ、オレのものにしたくないって思う。……オレのものじゃないほうがいい」


 分かりきっていたことを、言葉にすると、腑に落ちた。

 アヤ様は許嫁と結婚したほうがいい。末永く安定した幸福のためには、それがいい。

 幼い恋は、幼いときに片付けた。少なくとも、オレはそのつもりでいた。

 アヤ様のなかにこだわりが残っているなら、もう忘れてほしかった。

 オレの願いはひとつだけ。


「アヤ様が幸せになれば、それでいい」


 ずっと信じてきたことを、今もう一度決意する。

 それなのに、今までに感じたことのない苦しさが胸を締めつけた。




 サンルームのドアを開けたのは、髪を下ろしたアヤ様だった。

 さっきまでまとめて上げていた髪は、今は見慣れた様子に戻っている。黒くまっすぐな長い髪。


「お昼ご飯の支度ができたからって、メルグスさんが呼んでいるわ」

「アヤ、ありがとう。すぐに行く」


 ソファを跳ねるように下りて、ルクレイはサンルームを出た。

 ドアのかたわらに立ってアヤ様が待っている。妙に重たく感じる身体で、よっこらせと立ち上がった。

 アヤ様の冷たげな双眸がオレを見つめている。

 やっぱり使用人風情が花婿の代理を務めたことに不満があるのかもしれない。アヤ様の目は、鋭くオレを射抜いている。


「行きましょう、アヤ様。寒いでしょう?」

 ドアを閉じて外に出ると、忠告したオレのほうこそ身震いした。


「アヤ様?」

「……私は、あなたのものにはならない」


 それだけ呟いて、そっぽを向く。

 早足で、ルクレイのあとを追いかけて、オレを置き去りにした。

 立ち聞きしていたのかもしれない。どこからどこまで聞かれていたのか。どこからだって構わない。全部オレの本心だ。


「言われなくても分かってますよ」


 もう見えない背中に答えた。

 アヤ様。あなたは決して、オレのものになんかならない。


 ◆


 おとなげないと分かっていても、ハルの顔を見られなかった。

 いっそ、今朝の結婚式の瞬間に時間が止まってしまえばよかったのに。

 そう思うのに、時はよどみなく流れて、人生において完璧な瞬間はいつだって過去になってしまう。常に、今の私から遠ざかっていく。

 あの思い出の森も、遠い過去。


 私たちは昔、おままごとの結婚式を挙げた。

 だから、今朝のあれは二度目の式になる。


 昔、二人だけの秘密の遊び場を持っていた。

 そこが子供の遊び場になることは、大人たちには分かり切っていただろうけど。

 その時は身分の差も気にせず、私たちの関係はとても公平で等しいものだと疑いもしなかった。いつから彼は頑なに線を引いて、従者に徹するようになったのだろう。


 あの思い出の森へ帰れば、また無邪気に手を繋いで、野を駆けまわることができるのか。

 そんな時間を、取り戻せるはずもない。


 夕食を終えて部屋にこもった私のもとを訪れたのはルクレイだった。


「これは、ぼくたちだけの内緒の話なんだけど……おやつがある」


 そう言って、抱えたバスケットの中身を見せてくれた。はちみつの匂いがする。


「温かいミルクもあるよ。一緒にどう?」

「ぜひ、いただくわ」


 もう寝る前なのに。

 悪い誘いだ。

 ルクレイはにやりと笑って、私を部屋から連れ出す。案内されるまま、私は階段を上がり、緑色の扉を見つけた。ルクレイは私にバスケットを預けて、鍵を取り出す。それは彼女の首から、肌身離さず、という様子で下げられている。


「ここ、ルクレイのお部屋?」


 ルクレイは首を横に振る。

 答えるよりも早く、扉を開いた。それが答え合わせになった。


「鳥篭の部屋だよ」


 言葉が届くよりも先に、私はその光景を見て理解する。


 窓の向こうにまん丸のお月さまが輝いていた。


 その月明りが照らす部屋は、無数の鳥篭に埋め尽くされている。

 部屋の端までは光が届かず、四隅の闇は想像力を刺激して、どこまでも部屋が続くような奥行を感じた。


 鳥篭は、月の明りを冷たく照り返す。


 その中にそれぞれ守られているのは、一羽、あるいは二羽の鳥。翼を畳み、身体を丸めて、息を潜めている。

 来客の気配に耳を澄ませ、目を凝らし、確かめようとしている。

 一斉に注目を浴びたような緊張感に、私は一瞬、呼吸を止めた。


「思った通り、月がきれい」


 ルクレイは窓の向こうを見ている。

 そこに、夜を丸く切り取ったような、満月が浮かんでいる。

 部屋を覗き込むような月明りが降り注ぐ。


 ルクレイは出窓に上って腰掛けた。

 窓は少女の吐息で白く曇る。

 体温の高さが窺えて、少しほっとした。

 月明りの下、ルクレイの頬は青白く、まぼろしのように見えたから。


「この鳥は……何? ルクレイが育てているの?」

「育てるのとは、ちょっと違う。みんな、森の外からやってきた。ここで一休みして、また飛び立つ日を待ってるの」

「そう……」


 言われてみれば確かに、鳥たちは皆ばらばらな個性を持っている。

 同じ森に棲む仲間とは思えない。

 すぐそばにあった鳥篭を見る。

 その中で眠っているのは、小さな雀だ。

 私の視線に気づいたように、こちらを見上げて首をかしげる。

 なんだか妙に懐かしいのは、昔よく庭で餌をやった雀たちを思い出すからだ。


「あのね、アヤ。魂を齧る鬼は、ここにはいない。でも、なにかを忘れることはできるかも」

「この森で……?」

「うん。忘れたいことを、忘れられる。それを望むならね」

「そんなことが本当にできるなら……私、忘れたいことがある。……きっと、ハルも忘れたほうがいいと思っていること」


 何かを忘れる森。

 ここに私を導いたのはハルだ。

 ハルも、私に望んでいるのかもしれない。忘れることを。


「私は、ハルが好き。ずっと。幼いころから変わらない。でも、ハルはそれを迷惑だと思っているの。だから、私は忘れたい。ハルを好きって気持ち……」


 私はずっとハルが好き。

 それは、今まで一度も揺らいだことがない気持ち。

 だけど、彼はそれを疎んでいる。厄介で鬱陶しいと感じている。


 私を森へ連れ出したのだって、使用人の立場では私に逆らえなかったからだ。

 家に帰ったら彼は私の父から酷く叱られ、罰を受けるかもしれない。

 いつもそうだ。幼いころから、私の無茶やわがままに付き合って、私の代わりに叱られてきた。それでも彼は、私のそばにいてくれた。


 そこになんの他意もなく、ただ我が家の使用人だから、という理由で行動していただけかもしれない。だとしても、すでに説明も理由も意味を失っていて、私はただ、ハルが好きなのだ。


 彼は自分の仕事をまっとうしているだけ。

 彼は私を面倒な問題だと思っているかもしれない。


「私はもう、あの家の人間ではなくなる。彼はあの家の使用人よ。私とは、関係がなくなる。だから忘れたいの」


 ずっと一緒にいられると信じていたけれど、別れの日は訪れるものだ。

 夫になる男の人を、昔から許嫁だと紹介されていた。

 でもそんな日が来ることを少しも実感を持って信じられなかった。

 彼は親切なお兄さん。優しい人。あの人と一緒に、きっと私は何不自由なく暮らす。

 でも、得られなかったものを忘れる日は訪れないだろう。そう思っていた。


 朗報だ。

 この森で、あらかじめ、それを忘れられるなら。


 ――それなら私は幸せになれる。彼が望むとおりに。

 叶わぬ願望を切除して、正しい部品に生まれ変われる。


 そうなることをハルだって望んでいると分かるのだ。

 それでいいのに、なぜ胸が痛むのか。窒息したように苦しい。


 私は私に抗っている。

 忘れたいと望む理性と、忘れるものかと叫ぶ本能が、拮抗している。


「それを、きみが本当に望むなら、きっと忘れるよ」


 月を背にして、ルクレイは囁いた。


「きみにとって本当に必要なら、忘れられる」

「……それはいつ分かる? 明日の朝、目が覚めたら、私は変わっている?」

「そうかもしれない。そうじゃなかったら、忘れなくてもいいことなんだよ」

「苦しくても? 悲しくても? 忘れたほうがいいことでも……?」

「きみにとっては、必要なんだと思う」


 ふいに、鳥の気配を感じる。

 振り返ると、雀がじっとこちらを見ていた。

 ルクレイが出窓を下りて、雀の鳥篭に手をかけた。覗き込んで語りかける。


「まだ外は暗いから、朝にしたらどう?」


 雀が何を望んでいるのか分かっているような口ぶりでそう言った。

 雀のほうこそ、言葉が通じていると疑わない様子で鳴き声をあげる。


「居ても立っても居られない? 気持ちはわかるよ。だけど心配だ」

「その雀、どうしたの?」

「外へ行きたいって。でもまだ夜明けは遠いから」

「……雀はどこへ行くの?」

「故郷へ帰るんだと思う」


 羨望を抱く。

 雀にはまだ帰りたい場所があるのだ。

 私の求める故郷は、もうどこにもない。

 それは記憶の中にだけ存在する、二度と戻れない場所だ。

 それは私の子供時代だ。何にも邪魔されることなく、自分に正直でいられた、あの頃へ帰れたらいいのに。

 今はただ懐かしむだけ。

 私は鳥篭に腕を伸ばし鉤から外した。ルクレイに預けて、促す。


「今が時機なら、見送りましょう。この子が望んでいるなら、引き留めてはかわいそうよ。大丈夫。行きたい場所があるなら、途中で落ちたりしない。飛んでいけるわ」


 それは、私の願望だ。

 私の願望を小さな鳥に託した言葉だ。


 でもルクレイは嬉しそうに頷いて、鳥篭を窓辺へ運んだ。

 窓を開けると冷たい空気が流れ込む。

 反射的に身体が震えた。

 けれど、新鮮でとても気持ちのいい空気だった。

 胸に吸い込む。引き換えに、白い息吹を吐き出す。


 ルクレイは鳥篭を開けた。


 雀は待ちきれない様子で羽ばたいていたが、夜の冷気に誘われるように、ちっぽけな身を躍らせて、空へと飛び立っていく。


 落ちるように、やがて森に紛れて見えなくなっていった。

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