太陽と月〈7〉
◆
なんにも忘れられなかった。
私は、まだ覚えている。
だけどそれでいいと思う。
「氷、溶けてるね。でも、きれい」
ルクレイが書き残した地図の通りに行くと、湖に辿り着いた。
屋敷からそう難しい道順ではない。
大きな樹を目印にすれば、屋敷からどれくらいの距離なのかが分かる。
湖面は凪いでいた。
鏡のように森の木々を映している。
そこにさかさまの世界があるみたい。
空は青く、雲一つない。
だからますます湖のなかに森があるように見える。
ハルはどこか上の空だ。
でも、元気がないという様子ではないから安心した。
風邪なんか引いたら大変だ。彼にはいつでも元気でいてほしい。
「ハル。昨日はごめんなさい」
「え? ……えっと」
「私、おとなげないことを言っていた」
「そうでしたっけ……」
「そうじゃないなら、それでいいわ」
湖岸の湿った土を踏むのが楽しい。
踏むたびに新鮮な匂いが立ち込めるようだった。
とても寒いけれど、冷たい空気が気持ちいい。
身体の内側が洗われていくみたい。
ハルは私の足取りを注意深く見ている。
万が一、転んだり、足を踏み外したりして湖に落っこちやしないかと心配している。
その気遣いが伝わってきて、くすぐったくなった。
そうやって私以外にも私を大切に思ってくれている人がいる、ということが嬉しい。それがハルであることが、私には嬉しい。
「あのね、私は……あなたのものにはならない。誰のものにもならない。私は、私自身のものだから。だから、好きにするの」
「――はい。その通りですよ。アヤ様は、アヤ様の心にだけ従って生きるべきです」
ハルが今、自分を律した気配があった。
私の将来の可能性から、自分自身を外して考えてしまう癖は、いつからついたものだったのか。
私が思うほどには、彼は彼自身を大切にしていないようだ。
それが悔しい。
それなら、と思う。
彼以上に、私が彼を大切にできればいいんじゃないだろうか?
それって素敵な思いつきだ。
これが私の心。
「昨日はとても懐かしかった。覚えてる? 森のなかで、二人きりで式を挙げた。私の結婚式はもう済んでしまっているの。あれが一番最初の、本当の結婚式だった。あなたは、忘れてしまったようだけど――」
ハルは私を見つめる。
なんの話をしているんだ、という顔をしている。
いいえ、今、動揺している。
……思い出してくれたのだろうか。
「あの日に私は決めていたの。忘れないでいよう。絶対に。私がハルを好きってことは、変わらないと思ったから」
こんなことを言ったら、あなたは困るかもしれない。
構うものか、と私は思う。
困ればいいのよ。
そうしてずっと、私のことを考えていてくれたら、それはなんて嬉しいだろう。
独占欲を自覚して、私は少し楽しくなる。
「どこへ行っても、変わらないわ。私はあなたを好きでいる」
きっと、彼は笑ってたしなめる。
私に言われたことを、子供のわがままだと思って受け流す。
少しくらい困ってくれたら嬉しい。
でもそうはならないだろうと思っていた。
私の予想を裏切って、振り返ったそこには逡巡の気配があった。
なぜ、すぐに言えないの?
そんなこと許されないって、前みたいに口うるさく言ってくれればいいのに。
私は嫁ぐのだから、滅多なこと言うもんじゃないって、たしなめてくれるはずなのに。
「ハル? ねえ」
一歩、歩み寄る。
彼は身を引いた。
勢い余って、もう一歩。
ぬかるんだ土に足をとられて、私は体勢を崩す。
このまま湿った土の上に倒れても怪我はしないだろうけど、服は汚れてしまうだろう。
「――アヤ様っ」
大袈裟な声で、ハルが呼ぶ。
私の腕を強く引いて、抱き留める。
勢いを受け止めた彼が、そのまま足を滑らせて、柔らかい地べたに背中を打つ。私を腕に抱えたまま。
知らぬ間にたくましくなった胸板の向こうから、思いのほか早鐘をうつ鼓動が伝わってきた。
ハルの腕のなかは温かくて、それが心地よくて、私は目を閉じる。
多分、脚が泥まみれになっているはずだ。
冷たい土の感触がある。冷えた身体に、彼の温度がとても強く感じられる。
「うわ……やってしまいました」
ハルが自分の失敗に気づいて呻いた。
一人きりで転んだほうが、どれだけ被害が少なかったかと思う。
それがおかしくなって、こらえきれずに笑った。
くすくす、空気が沸騰するような、なかなか収まらない笑いの発作に襲われて、私はハルの胸にしがみついて肩を震わせる。
はやくどいてあげなくちゃ。土は冷たいはずだから。私も、昔みたいに軽くはない。
でも、楽しくなってしまって、だめだ。
この時間も過去になってしまう。すぐにでも。
そう思うと、離れがたくて仕方がない。
泥だらけになって帰ると、ルクレイは目を大きく瞬かせて、びっくりした様子だった。
「怪我はなかった? 湖に落ちなくてよかった」
私たちの無事を喜んで、笑う。
「服、ごめんなさい。泥が落ちるといいのだけど……」
「大丈夫。メルグスが上手だから、すぐ落ちるよ。早く着替えて、暖炉に当たるといい。冷えたでしょう?」
私たちは玄関先で汚れた上着を脱いだ。
私は替えのワンピースをもらい、ハルは清潔なシャツを受け取る。いずれも着古した肌馴染みのよいものだった。
それぞれの部屋で着替えて、リビングで合流する。
彼は先に待っていた。桶とお湯を用意している。
それはいつもの習慣で、長く外を歩いたあとには、彼は私の足を洗ってくれた。
「アヤ様、どうぞ」
「ええ。ありがとう」
暖炉のそばの椅子に腰かけて、素足を彼に差し出した。
彼は床に膝をついて、私の脚を受け止める。お湯を含ませて固く絞った手ぬぐいで、足の指をそっと覆う。
ハルの手が触れると、心地よくて、つい目を閉じてしまう。
身を任せて、温かさを楽しむ。
ほっとする。でも、ちょっとだけ落ち着かない。
◆
それが普段の習慣だから、オレの身体は半ば自動的に動いて、桶にお湯を用意した。
沸かしたお湯を水で薄めて、適温をつくる。
手ぬぐいを固く絞って、アヤ様の脚に触れる。
アヤ様は当たり前にオレの手を受け入れて、身を任せている。
無防備だ。それが、オレを余計に緊張させる。
強く圧迫しないよう、気を遣って足を拭う。一筋だけの挙動を終えて息をつく。
いつもより重労働に感じたのは何故だろう。
アヤ様に触れることに躊躇いがあって、それをねじ伏せるために精神力を使う。
昨日まではこんなふうじゃなかったのに、へんだ。
平気で触れていたのが、おかしな話だったんだ。
触れがたい。アヤ様に気安く触れるなど。オレの手で汚してしまいそうで怖くなる。
何も干渉したくない。オレの不用意な行動で汚したり傷ついたりしたら、いやだ。自分を許せなくなるから。
大切にしたい。
でも、どうすれば適切にそれを叶えられるのか、分からない。
ほとんど途方に暮れている。
己の無力さに打ちのめされて、腕が重たくなる。
「……ハル?」
「アヤ様」
見上げる。
そこに、こちらを気遣う眼差しがある。
アヤ様が、今、オレを見ている。
オレはアヤ様と同じ世界に生まれ、同じ時間を生きている、ということがものすごい幸運のように感じられて、ひそかにため息をつく。
ずっと続けばいい。でも、きっとそうならない。
それでもオレは、アヤ様の幸せを願っている。いつも、いつでも。
白い脚に触れる。
そうすることを、オレは許されている。
ならば今は仕事をしよう。
彼女に仕えること。それが、オレの仕事だ。
無心で、ただ彼女のために手を動かそう。
この肌から一切の汚れを拭い去って、清めよう。
指先から体温が伝わる。
アヤ様はオレの手に任せて、仕事が終わるのを待っている。
◆
ハルは私を見上げた。
そこに、いつもと違う感情が渦巻いている。
普段の事務的な所作ではなくて、なにか確かめるような手つきで私に触れる。
指先から体温が伝わって、その温もりにほっとした。
彼は俯いて仕事を続ける。
でも、一瞬その瞳によぎった感情がなんだったのか、知りたくなって、もう一度顔が見たくなる。――違う。
見てほしくなる。
私を見て、その目に映してほしい。
そうして胸に溢れる想いを、私に伝えてほしい。
指先がこんなに熱い。そのわけを教えてほしい。
ハルの頬に手を添える。彼は弾かれたように私を見上げる。
見たことのない顔。人相の話ではない。そこに宿る感情の話。
彼は恥じるように俯く。
耳まで赤くしている。
凍りついた心が溶けて、氷の中に隠していた本心が滴り落ちる、その瞬間が待ち遠しい。
あなたの恋する目に、私は喜びと励ましを感じる。
私は今、自由で、行く先を選ぶ権利があると知る。
それは一方で誰かを裏切り傷付けるのかもしれない。
だけどその誰かが、私の人生のすべてを保障してくれるとは限らない。
私は、私の望みを自覚して、それを得られる道を選ばなければ。
それが叶うのならば。
4.
明るい陽射しに目を覚ます。
瞼を開けた途端に、まぶしすぎる光に反射的に目をつむった。
朝が、きた。
私はゆっくりと身を起こす。ベッドの上で伸びをする。
冷たい空気が心地よい。
皮膚の全てが真新しく生まれ変わったような、不思議な感覚にしばらく浸った。
陽の光にかざした手のひらは、昨日とも、一昨日とも変わったところがない。
でも、昨日とは決定的に違うものにも感じられる。
昨日まで偽物の血で満たされていた血管が、今日は本物で満たされているような――すべては錯覚かもしれない。
要するに、今、私は、とても気分がいい。
窓辺には寒白菊で作った指輪がふたつ、寄り添うように並んでいた。
一昨日摘んだ花はもう枯れ始めている。
花は朽ちるけれど、目を閉じれば、まだ記憶の中で咲いている。
彼の薬指に。私の指にも。
ハルはもう起きているみたいだ。足音が聞こえている。
忙しそうな足取りは、何か手伝いを申し出て働いている様子がうかがえた。
着替えて部屋の外へ出る。
ちょうどハルが階段を上ろうとしていた。腕に抱えているのは洗濯物みたいだ。
「あ――アヤ様。おはようございます。よく眠れましたか?」
いつもと同じ調子にほっとした。頷いて応えると、ハルは笑顔になる。
「今、洗濯を手伝っていて。これが終わったら、支度をしましょう」
「支度……?」
「帰る支度ですよ。もう、刻限です」
そうだった。
私には、帰るべき場所と、限られた期日がある。
ずっとここにはいられない。
「私は、帰ったほうがいい?」
「朝食ができてます。ルクレイが待ってるから、行ってあげてください」
ハルは問いかけには答えずに階段を上っていく。
声が届かなかったのかもしれない。
私は食卓に入る。
ルクレイが気づいてキッチンから出てきて「おはよう」と元気よく挨拶をくれた。
「今日、帰っちゃうんだよね。ハルから聞いた。朝ごはんいっぱい作ったから、遠慮しないで食べて。今ね、帰り道で食べられるようにサンドイッチを包んでるの。よかったら持っていって」
「ありがとう、ルクレイ。ここでの親切、忘れないわ。とても良い時間を過ごせて……感謝してるの」
「うん、ぼくも忘れない」
ルクレイは私を見上げる。
それから何か気づいたように瞬きをして、また笑う。
「今朝のアヤは、とてもきれい。最初に見たときよりもずっと」
「……そう?」
「うん。さあ、まずは朝ごはんを食べて」
ルクレイは椅子を引いて私を案内する。
すぐにメルグスさんがスープを運んで、ルクレイもキッチンへ引っ込んでいった。
焼いたパンと、その上でとろけるチーズが湯気を上らせている。淹れたての紅茶が添えられて、カップの中でミルクが渦を描く。
「いただきます」
新しい一日。
なぜか、強くそう思う。
私は食事をして、ひとつひとつに新鮮味を覚える。
昨日と今日で、明らかに何かが違う。
私はきっと生まれ変わった。今日の朝日と共に。
森の中は明るい。今日は雲一つない快晴だ。
自分の服に袖を通すのは数日ぶりだった。
それなのに、もう何か月も経っているような感覚がある。
それはハルも同じようで、元々自分たちが着ていた服なのに、少し落ち着かなくて笑いあった。
「昔話にあるじゃないですか。オレたち、町に戻ったら、もう何十年も経った後だったりして……」
「なに、それ? 面白そうなお話」
見送りの付き添いで来てくれたルクレイは、片手に鳥篭を下げている。
ハルの何気ない呟きに気を引かれ、話をねだる。
古いおとぎ話を一通り話し終えるころ、大きな樹のそばに来た。
「見送りは、ここまで。……気をつけてね」
「ルクレイも気をつけて帰って。今日まで本当にお世話になりました。ありがとう」
「ぼくのほうこそ。アヤも、ハルも、一緒にいて楽しかった。元気でね」
ルクレイは手を振って、見送ってくれるつもりでいたらしい。
でも、どこからともなく聞こえた鳥の声に誘われて、鳥篭を弾ませながら駆けて行った。
私たちは顔を見合わせて笑う。
「思いがけず、長居をしてしまいましたね」
ハルが囁いた。
そこに罪悪感が滲んでいる。でも私はちっとも後悔していない。
「今から引き返しても、構わないわ。ここで、ずっと一緒に暮らすのよ」
「アヤ様……」
咎めるような声。だけど、彼も同じ気持ちだと分かる。
そうなればいい、と願っている。
ハルは私の手を取った。
踵を返して、もう、すぐにでも歩き出そうとする。
彼が向かうのは、屋敷に引き返す道ではない。
「行きましょう」
「……どこへ?」
聞くまでもない。
でも、聞かずにはいられなかった。
答える前から、ハルの唇がもう笑っている。
つられて私の頬も緩んだ。
「アヤ様が。……あなたが幸せになれる場所へ」
一歩踏み出す先は明るい。
光に満ちて、まばゆいほどだ。
私は彼の手をしっかりと握り返す。
そうして、湿った土を踏みしめて、前へ進んだ。
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