EP06:おとぎ話の森で

おとぎ話の森で〈1〉

 まるで孫に読み聞かせた物語のはじまりみたい。

 なにかに導かれるように、自然と、足が道を選んでいた。

 予感を抱いて森の奥へと歩む。

 思いつきの散歩が、思いがけない冒険になってしまった。


 ――その森で、人はひとつ記憶を失う。


 ふと思い出したおとぎ話をなぞるように森へやって来た。

 微笑みが肌を引きつらせる。でも、笑わずにはいられない。

 こんなにわくわくした気持ちを味わうのは、一体いつ以来かしら。

 期待に胸をときめかせた私を迎えたのは、一軒のお屋敷だった。

 随分と歳を取った佇まいに、あなたも私と同じね、と親しみを覚えた。

 色とりどりの花が咲く、綺麗なドレスの裾を広げたお屋敷。

 放ったらかしのまま伸びやかに咲く花たち。健気な姿に、微笑んでしまう。

 一体どんな人が住んでいるのかしら。

 ノッカーを叩く?

 それとも、もう踵を返して後戻りをする?

 二度とないこの機会に、勿体ないことはできないわ。

 私はしわくちゃの手を伸ばし、素っ気無い意匠のノッカーを叩いた。

 

 1.


「ごめんください」


 弾む胸を押さえ、呼びかける。

 ほどなく扉を開けたのは、黒髪の青年だった。

 顔立ちにあどけなさが残っていて、年頃が分からない。

 案外、まだ十代のようにも思えた。


「よかった。人が住んでいたのね」

「あの。ご用でしょうか。家主に?」

「いえ、存じ上げないわ。森を歩いてきたら、噂の通りにお屋敷が見えたものだから。年甲斐もなく好奇心が抑えられなくて」


 怪訝そうに首を傾げ、彼は奥の部屋のほうを窺い見た。

 もしかしたら、彼も客人なのかもしれない。家主の代わりに来客の相手を引き受けて、戸惑っているんだわ。


「歩いて来たんですか? 森を?」


 ふと目線が下がって、私の足元を確かめた。


「ええ。少しのあいだ歩いたけれど――」


 森を歩くには不適切な、ちょっと近所へ行くつもりの軽装だ。

 ぺたんこの靴に、手荷物も何もない。

 対照的なのは少年の靴だ。しっかりと作られた安全靴。

 雨にも負けるつもりはない、どこまでも歩くつもりだ、と確固たる目的のために生まれた靴。


「お客さん? いらっしゃい」


 やがて姿を見せたのは、少年よりも頭二つ分も背の低い女の子だった。

 私の四番目の孫と似ているかしら。

 やんちゃな、まだ落ち着きのない、遊びたい盛りの年頃に見える。


「ぼくはルクレイ。あなたは?」

「はじめまして、ルクレイ。リラよ、よろしく」

「リラだね。歓迎するよ。今お湯を沸かしているから、じきにお茶が入る。中へどうぞ」


 ルクレイは嬉しそうに笑っている。

 素敵な笑顔を見せてもらったから、ここへ来てよかったと思った。

 こんな風に歓迎されて、嫌な気持ちになる人がいるかしら。

 少女は突然訪れた見知らぬ相手を旧来の友人のように迎え入れて、用件も聞かずに部屋へと案内した。

 昔、こうやって彼女と過ごしたことがあったような……。

 そう錯覚させる自然さで、ルクレイは私へ微笑みかける。

 四番目の孫だったら、見知らぬ相手には気恥ずかしくなって唇を結んでしまっているでしょうに、彼女は物怖じしないのね。

 そう考えると、孫に似ているのはどちらかと言えば黒髪の少年のほうかもしれない。

 

 

 茶葉を練りこんだクッキーが皿の上に並んでいる。

 焼きたてで、豊かな紅茶の香りが部屋いっぱいに漂っていた。

 それを作った若いお手伝いさんは、人数分のお茶を配ると再び厨房へ姿を消してしまう。


「素敵なおもてなし、嬉しいわ。悪いわね、急に訪ねたのに」

「ううん。ぼくはあなたみたいな人を迎えるために、ここで暮らしているの」

「今度、ぜひ私の家へもいらして。お礼をしたいから」

「うん。ありがとう、リラ」


 ルクレイは彼女の隣に座る少年を目で示した。


「彼はネイン。昨日からここに泊まってる、ぼくの友人だ。それで、クッキーを焼いたのはメルグス。屋敷の仕事をしてくれている」

「ネイン。メルグス。はじめまして。よろしくね」


 正面で少し人見知りをしている少年と、姿の見えないお手伝いさんにも声をかける。

 ネインは会釈をして、「こちらこそ」と答えてくれた。

 お手伝いさんの反応は窺えないけれど、厨房のほうで一礼する姿が想像できる。


「ここは、あなたのおうちなのね。おとぎ話を思い浮かべて散歩をしていたら、お話の通りにお屋敷があったから、まるで空想の中に迷い込んでしまったみたいだったわ。楽しい体験だった」


 ルクレイはにこにこして私の話に耳を傾けている。


「どんなおとぎ話ですか?」


 ネインの問いに頷いて、話を続けた。


「その森では、思い出を忘れることができる。忘れたことを、思い出すことができる。人の思い出を自由に触れる魔女が森の奥の屋敷に住んでいて、困っている人を助けてくれるの」

「僕も、似たような話を聞いてここへ来ました」


 少年は、ルクレイに説明を求めるように視線を向ける。


「ここに魔女はいないよ。でも、思い出を忘れることはできるかも」

「本当? すごいわ」


 ルクレイは何気ない様子で言う。

 子供らしい素直さで、物語が本当なのだと思い込んでいるのかもしれない。

 もし本当だとしたら……そういうことが、あってもいいかもしれない。

 私には必要のないものだけれど。

 私には、忘れたいことなんてない。

 年々忘れっぽくなってしまって、些細なことも覚えていられず困っているくらいだから。


「……思い出すこともできるかしら」

「あなたが本当に望むなら、きっと」


 何故だろう。少女の言葉が、子供じみた意地や思い込みのようには聞こえない。

 事実はどうあれ、彼女の中では、それは当たり前に起こることなのだ。

 だから、かしら。

 ずっと気がかりだったことが、口をついていた。


「私、うんと昔に恋人がいたの。まだ、あなたより少しだけお姉さんだった頃に。……今ではもう、顔も覚えていないの。恋人でいた間も、ほんの瞬きの間みたいに短かった。でも、確かに、私はあの人の恋人だった」


 今でも、思い出そうとすると、微笑みが浮かぶ。

 同時に、ほんのちょっぴり心をつねったみたいに胸の奥が痛んだ。

 思い出が確かなものだったら、もっと酷く痛むのだろうか。それとも、もっと温かく懐かしむことができただろうか。


「恥ずかしいわね、私ったら。おばあちゃんのくせに」

「ううん。その人、素敵な人なんだね」


 ルクレイまで微笑みを浮かべて、私を見上げていた。

 私は頷きを返す。


「だから、私、森へ来たのかしら。作り話でも構わないから、散歩になればいいかと思って来たはずなのに。どちらにしても、こうしてかわいらしいお嬢さんにも出会えて、楽しいお散歩になったわ」


 少女は終始にこにこしながら話を聞いてくれる。

 いつも、お客さんとこうして過ごしているのかしら。

 こんなに聴き上手な子が相手なら、お客さんも退屈しないに違いない。


「リラに会えてよかった。見せたいものがある」


 少女は席を立った。


「来て。あなたを案内するよ」


 何が待ち受けているのか、分からないままついて行く。

 これ以上驚くことなんてあるかしら。

 森で彼女と出会えたことに、何より驚いたというのに。

 

      ◆

 

「これは……」


 息を飲み、立ち尽くす。

 この光景を目に焼き付けるように、ゆっくりと部屋を眺めた。

 屋敷の二階、階段を上がってすぐに緑色の扉が見える。

 その扉を開けると、こうして鳥篭の部屋が広がっている。

 隅から隅まで、空間を余すことなく、鳥篭が並んでいた。

 中には規則性をもって、あるいは無造作に。

 床の上にそのまま、あるいは台座を敷いて安置されている。

 天井の梁から下がり、あるいは柱で吊られている。

 色も形も材質も、どれ一つとして同じものはないような、多種多様な鳥篭の中に様々な鳥が棲んでいる。


「この森で、記憶は鳥の姿になるんだって。鳥たちは、羽を休めるためにここへ来る」

「こんなに……」


 言葉を続けられず、深く息を吐いた。


「こんなに沢山の鳥を見たのは、生まれてはじめてよ」


 自分の言葉にくすくすと笑ってしまう。


「生まれてはじめて、だなんて。この歳になってもまだそんなことが言えるのね。嬉しいわ」


 自分が驚いたことが楽しかった。新鮮な光景が嬉しかった。

 私にも、まだ知らないことがある。

 そんな当たり前の事実に励まされた気がする。


「入って。この部屋に、あなたの鳥がいるかもしれない」

「私の鳥?」

「そう。きっと再会すればわかる。そうしたら、忘れていたことも思い出せるはずだよ」

「不思議ね。いいわ、見てみましょう」


 深く追求はせず、素直に従って部屋へ足を踏み入れた。

 遠慮がちに、少年も部屋の隅で様子を窺っている。


「すごいわ……いろんな鳥がいるのね。ああ素敵、あら可愛い」


 ひとつひとつ、鳥篭を覗きこんで部屋を歩く。

 どれもすべてが違う鳥。一羽一羽、それぞれに、人見知りだったり、好奇心旺盛だったり、引っ込み思案だったり、自信家だったり、個性があるみたい。眺めているだけで、あっというまに時間が過ぎてしまいそう。

 黄色い綺麗な翼、ふわふわと温かそうな羽毛、貝のような優しいピンク色のくちばし。青い瞳、赤い瞳、琥珀色の瞳。

 目的も忘れて、全ての鳥を知りたくなってしまう。


「私の鳥は、見ればわかるのね?」

「うん」

「どんな鳥なのかしら……」


 のんびりと部屋を回る私に付き添って、ルクレイものんびりと鳥たちの様子を眺めていた。

 ネインが退屈して鳥篭を数え始めた様子が分かる。

 彼が百を数える前に全ての鳥を見て回り、結論を出した。


「――いないわ。みんな、私の鳥じゃないみたい」


 意外にも、私の言葉に落胆したのはネインだった。

 自分のことのようにがっかりしている。


「そっか。じゃあ、まだ森に居るかもしれない。今日はもう森へ行くには遅いから、明日、一緒に探してみよう。今夜は泊まっていってよ」

「いいの? ありがとう、ルクレイ。お言葉に甘えちゃうわ。お礼になにか作りましょう。キッチンを借りるわね」

「ほんと? 嬉しい」


 ルクレイはすぐに部屋を出て行く。

 けれど、施錠の役目を思い出してドアの前で立ち止まった。

 部屋に最後まで残ったのはネインで、彼は部屋を端から端まで見渡している。何か、探し物をするように。

 彼もまた鳥を探しにここに来たのだろう。私と同じように、見つけ出せずにいるみたい。


「ネイン。行こう」


 少女の呼びかけに答え、彼も部屋を出る。

 窓の向こうに夕日が覗いている。

 ドアを閉めると、その隙間から、橙色の光が廊下にこぼれた。

 

      ◆

 

 ありものの食材を使ってポトフを作った。

 大ぶりのじゃがいもがよく煮えて、スプーンでつくと柔らかくほぐれる。割れたじゃがいもの合間から白い湯気が立ち上ると、ルクレイが嬉しそうに声を上げた。


「お口に合うと良いけど」

「おいしいよ」


 問われるより先に、ルクレイの表情が答えを伝えてくれた。

 嘘じゃないのは、見ればわかる


「本当に。美味しいです」


 ネインも同意してくれる。

 こうして誰かのために腕を振るうのは久しぶりだ。

 美味しいと言ってくれる人がいる食卓は、なんて暖かいのだろう。昔はそれが当たり前だったのに、今では特別なことになってしまった。


「ここに、ほかに家族は住んでいないのね?」


 薄々感じていたことを問いかける。

 夕食時になっても、母親や父親の姿は見えない。


「うん。ここにはぼくとメルグスだけ。ネインは時々泊まりに来てくれるの」

「それじゃあ、普段は二人きりなのね。寂しくない?」

「たまにお客さんが来るから。今日なんてこんなに賑やかだ」


 三人だけで囲む食卓をルクレイは満足そうに眺める。


「リラはいいの? 家で、誰かを待たせているんじゃない?」

「いいえ。家にはもう、私一人きりなの。夫には先立たれて、子供はそれぞれの家庭を持っているから。だから、私も今日は久しぶりに賑やかな食卓で嬉しいわ」


 たった三人だ。それだけでも、今は賑やかに感じる。

 昔、一番忙しかったのはいつだろう。

 あれは――誰かの誕生日の集まりかしら。

 それぞれの子が孫を連れてきて、大きな食卓をみんなで囲んでも足りなくて。

 台所でぎゅうぎゅう詰めになって料理をしても、元気のいい男の子たちがきれいに平らげてしまう。

 笑い声が絶えず、人手も食材も足りなくて、最後にはただ蒸した芋を皿に積み上げて並べた。それでも、みんなおいしいと言いながら食べてくれたんだわ。

 お祭りのようだった。賑やかな日々だった。


「ねえ、森のおとぎ話って、どんなお話? もっと聞かせて」


 物思いに耽る私を、少女の声が呼び戻してくれた。


「ええ、そうね……魔女の森のお話よ。その森ではね、樹木は魔女のお墓なの。死んだ魔女が樹になるから――」

「……不気味な話ですね」


 ネインが呟いてから『しまった』という顔をする。話の腰を折ってしまったことに慌てて、「続けてください」と言った。

 頷いて、私は話を続ける。


「魔女はみんな、幸福になるための研究をして暮らしているの。その成果を、ちょっとだけ人間にも分けてくれる。でも、あんまり頼られてはいけないから、普段は姿を隠しているの。だから、会おうと思って会えるわけじゃないのですって」


 ――それは、いつか読んだ本の、おとぎ話だ。

 魔女の、恋の物語だった。

 

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