ラズベリー・デイ〈2〉

 2.

 

 どうしてこんな場所で、使用人と二人きりで子供が暮らしているのか。

 ルクレイに対しての興味が尽きずにいたけれど、いったい何から質問すべきか、どこまでが失礼にあたらない質問なのか、皆目見当もつかずに結局紅茶で口を塞ぐばかりだ。


 いつのまにか冷えていた体に温かい飲み物が嬉しかった。

 リビングはわたしの家と似たような雰囲気で、でももっとずっと古い印象を受けた。

 古いけれど、丁寧に扱われて長持ちしている、誰かが大事にしてきたのだと窺わせる調度品が並んでいる。

 知らないはずなのにどこか懐かしいような匂いがする。

 カーテンや壁に、ソファにまで、たっぷり吸い込んだ日差しの温もりが残っていた。


 ソファに深く腰掛ける。

 さっきまで妙に落ち着かない気持ちでいたのに、今はもうずっと昔から知っている場所みたいに穏やかでいられた。


「何を忘れようと思って、ここへ来たの?」

「……本のこと。忘れようと思ったの」


 問いかけに、忘れていた憤りがふつふつと再加熱した。


「オリジオラはね、少しの間お休みしていたの」


 カップを持つ手に力がこもる。


「今回の本が復帰作。一年も待ったのよ……。やっと先月、本当に出たの。

 やっと読めたのよ。新しい、オリジオラの物語が」


 あの幸せだった瞬間の、高ぶる気持ちを思い出す。

 大好きな人との再会に他ならない。

 堪えて堪えて、ようやく会えた。

 あんな喜び、人生で経験したのは初めてだった。

 待つことが報われた経験はあれが初めてだ――。

 だからこそ、尚のこと、この失望が辛い。

 深呼吸をして気持ちを抑えて、落ち着いてから再び口を開く。


「わたし、本当に楽しみにしていた。

 ずっと信じていた。必ずまた新しい本が出るって。

 それはきっと素晴らしい物語に違いないわ。

 だって、一年も、辛抱したんだもの……」


 カップをテーブルに置いた。

 ソファの上で代わりになるものを探すと、ルクレイがクッションを手渡してくれた。 それを遠慮なくぎゅーっと抱きしめて、堪えきれずにわたしは叫ぶ。


「なのにどうしてなの! こんなのってないわ、ひどい。

 彼女、一年の間ですっかり変わってしまった。

 わたしの愛したオリジオラはもうこの世にはいないんだっ」


 ぼふっ。

 抱きしめたクッションに顔を埋める。

 家のものとは比べようもなく大きくやわらかなそれは、悲しみごとわたしを受け止めてくれた。


「わたしが読みたいのは、あんな本じゃなかったのよ……」

「それで、忘れるためにここまで来たの?」


 クッションに押し付けたままの頭で頷いた。

 こんなの、他人が聞いたらばかみたいだと思うに違いない。

 ルクレイの呆れ顔が目に浮かぶようだった。だから怖くて、顔をあげられない。

 わたしにだって理解できていた。

 こんな些細なことで思い悩んで、毎日毎日悲嘆に暮れて、馬鹿みたいだってわかっている。そんな虚構の物語なんかに、実際の人生を妨げられるなんて、愚かなことだとわかっている。


「ティータにはとても大切なんだね。

 オリジオラの本のこと。その人の書く物語のこと。

 いいな。そんなに大事にするものがあるのって、素敵だ」


 ルクレイの声に呆れや侮りの色は少しも含まれていなかった。

 だからわたしは恐々と顔をあげて、ルクレイを見上げる。

 彼女はわたしの眼差しを受け止めて、どうしたの、と問うように首をかしげた。


「そうなの。わたし、とても大切なの。

 オリジオラの本が、物語が……いつも支えだったから」


 いったい何にそこまで憤っていたのか、やっとわかった。

 自分自身に落胆していた。

 あんなに大好きだったオリジオラの本を好きになれなかった自分に、がっかりしていたのだ。

 気づいた途端に悲しくなった。

 彼女の本を読んでいるあいだに感じた、あんなに素敵な体験をもう二度と味わえないのだろうか。

 喪失を実感して、ぎゅっと胸が締め付けられる。

 鼻がじんと熱くなって、目頭に伝わって――


 涙がこぼれる寸前に、その匂いに気付いた。


 ふんわりと暖かな甘い匂いに鼻腔を刺激され、お腹がぐぅっと鳴る。

 あやうく泣いてしまいそうになった悲しい気持ちが少し薄れた。

 クッションから顔を上げると部屋中がその優しい匂いで満たされていることに気付く。


「タルトが焼けたよ。食べよう」


 食卓に現れた焼き立てのタルトが湯気を立てている。

 悲しみを一時忘れて、もう一度、わたしのお腹がぐぅと鳴った。

 メルグスは円形のタルトを器用に切り分けて、それぞれのお皿に載せる。

 二人の女の子は食卓の椅子に並んで座って、さっき自分たちで採ってきたラズベリーをタルトの上に探した。どれも見分けがつかなくなって、どこから見ても美味しそうだ。

 何日もかけて太陽の光をたっぷり浴びた黄色いラズベリーは、わたしが想像していたよりもずっと甘くて、慰められる心地だった。

 

 3.

 

 案内された客室はわたしの子供部屋よりも広く感じた。

 でも、それは部屋にほとんど物が置いていないからだと思う。

 本棚にだって一冊も本がない。

 今はわたしの僅かな持ち物や、着ていた服が重ねられている。

 わたしの部屋だったら壁は一面本棚で埋もれてしまっていて、実際の面積よりも窮屈だ。


 がらんとした部屋は少しさみしかったが、お風呂で暖まったあとにすぐ毛布にくるまったら、とても心地が良くてすぐに眠ってしまった。


 オリジオラの本に初めて出会ったときのことを夢に見た。


 手持ちの本をちょうど読み終えてしまって、図書館で新しい出会いを求めていたときだ。


 最初に好きになったのは装丁だ。

 一冊目を読んだときは「ふーん」としか思わなかった。

 また次の本を探していたとき、今度はタイトルが目をひいた。

 前にも読んだ作家で、退屈はしなかったから、もう一度買った。

 それが大当たりだったのだ。


「どうしてこのひと、わたしの気持ちがわかるのかしら」


 この世に、わたしの理解者がいる。

 そう思うと嬉しくて励まされて、とても心強かった。

 図書館に並ぶ彼女の本は全部読んだ。

 まだ本にまとめられていない新聞の連載や雑誌掲載の短編も、地道に集めた。

 一年の別離は忍耐力を試される日々だ。

 いくらでも新しい本は読んだけれど、どれも次のオリジオラの本を読むまでの退屈しのぎに感じてしまった。彼女の新作を読むまでは頑張ろうと自分に言い聞かせて、日々に立ち向かうことができたのに。

 

 ――大好きよ、オリジオラ。大好きなのよ。

 

 

 目を覚ますと、枕元にオリジオラの本が添えてあった。

 昨日あのまま裏庭のベンチに置き去りにしてしまった本だ。

 彼女の本をこんなに粗末に扱うなんて初めてだったから、少しだけ胸が痛む。

 表紙を撫でると指先が冷えた。

 紙が裏庭の匂いを吸い込んで、土と日差しの香りがした。

 着替えて食卓へ向かうと、ルクレイはもう起きていて食卓でお茶を飲んでいる。

 彼女が読む書物に興味をひかれたけれど、そんなそぶりはないように振る舞った。

 好奇心をむき出しにするのは子供っぽいことだからだ。


「おはよう、ルクレイ。本、ありがとう」

「おはよ、ティータ。うん、メルグスが今朝見つけて。汚れちゃうといけないから」


 ルクレイは顔を上げた。本を閉じて傍らに置く。

 空になったティーカップを携えて厨房へ向かった。


「タルトが残っているよ。朝食にどうかな。もうすぐお昼だけど」

「女の子は、お菓子をごはんにできるもの。いただくわ」

「だよね。ぼくも同じ意見」


 意気投合して笑いあう。

 ルクレイは食事の準備のために厨房に引っ込んで、その隙はこっそり、彼女の読んでいた本を盗み見た。図鑑みたいだ。物語の書かれた本じゃないから、好奇心が静かにしぼんでいく。


「ねえ。庭で食べよう」

「わ、素敵ね。是非そうしましょう」


 厨房から聞こえた素敵な提案に一も二もなく賛同して、素敵なお茶会の予感に胸が躍った。

 午前から日差しは強く、森も空もまぶしく照らされている。

 森の中では見かけなかったような華やかな色合いの植物が庭を彩っていた。

 胸に吸い込む風が澄んでいる。

 風にはささやかな紅茶の香りが混ざっている。

 一晩寝かせたタルトは昨日よりもしっとりした口当たりで、果実の甘みがよく染みている。

 紅茶を少し苦めに淹れると丁度良い。

 体が紅茶の温かさを受け入れて、じんわりとした心地よさに身をゆだねて目を閉じる。

 どこかで鳥が鳴いた。


「あ――鳥」


 すぐに姿を見つける。

 ベンチの足元まで飛んできて、こちらを見上げて小首をかしげた。

「何のお話をしているの?」と問いかけているみたいだ。

 ルクレイがくすっと笑って「こんにちは」と挨拶をする。

 それを理解したように小鳥は羽ばたいて、少女の頭にとまった。


「ティータ。お客さんが来た。そうだ、一緒においで」

「えっ。どこへ?」

「この子を案内してあげるんだ」


 ルクレイはベンチを立って、食事のあとを残したまま屋敷へ戻った。

 

 

 階段を上がっていくと、甘い緑色をした扉が見える。

 ルクレイはブラウスの下に隠れたひも付きの鍵を首から外して、錠を開けた。

 ドアノブをひねり、そっと扉を開く。

 途端に真昼の明るい日差しがわたしの目をくらませた。

 部屋の奥に大きな窓があるようだ。何度か瞬きをする。

 ルクレイに誘われるまま部屋に踏み入った。


「ここがこの子の客室だ」


 見渡す限りに鳥篭がある。

 異国を感じさせる形のものも、ごくありふれた形状のものも。

 それぞれに鳥を抱えて、部屋中を埋め尽くさんばかりに並んでいる。


「すごい。鳥が、いっぱい……すごいわ。こんなに沢山の鳥を見るのは、はじめてよ」


 純粋な驚きと感動が胸をついて、深く息を吐く。

 鳥は来客に気付いてまんまるの目を興味深そうにこちらへ向けていた。


「ぜんぶ、森で捕まえたの?」

「捕まえないよ。ここを訪れて、しばらく羽を休める。この鳥がそう望むから」

「鳥の言葉が分かるの?」

「ううん。でも、ちゃんと鳴いて教えてくれるから」

「それっぽっちじゃ、何を伝えたいか全然分からないじゃない」


 そう疑問を口にしながらも、実際の光景を目にして漠然と納得する。

 彼女と鳥は、なんだか通じ合っているように見えるのだ。

 ルクレイは部屋を見渡しで空の鳥篭を探し出す。

 選び出すと、頭に乗っていたその鳥に指を差し出して、篭の中まで案内する。

 鳥はなにもかもを理解しているような様子でルクレイの案内に任せて鳥篭に落ち着いた。

 何度か羽ばたきをして居心地を確かめて、やがて安心したように止まり木に深く体を沈める。

 鳥のエスコートを終えて、ルクレイは奥の窓を開いて部屋に風を入れた。

 彼女は窓辺の脚立に跨ったままこちらへ手招きをする。わたしは誘いに応じて出窓に腰かけた。

 ここから眺める森はとても広くて、いまさらながらに、無事に到着したことを奇跡のように感じた。町はどこだろう。

 ふいに、森がどこまでも続き、終わりなどないような気がして心細くなった。

 家に帰らなくちゃ。ちゃんと帰れるだろうか。焦りがじりじりと胸を焼く。

 でも、まだ、望みは叶っていない。


「今日、もう帰るでしょ。暗くなるまえに出発しないと危ないよ」

「うん……そのつもり。だけど……」


 何かを忘れたようには思えない。

 オリジオラも、自分をがっかりさせた本の内容も、全部鮮明に思い浮かぶ。


「やっぱり、忘れたい? 本のこと」


 少し考えて、頷く。澄んだ冷たい風が頬を撫でる。


「オリジオラを嫌いにならないために、わたしは、あの本のことを忘れたいの」


 風に揺らめく森の木々を眺めた。

 視線を落として庭先を眺める。

 色とりどりの花がおもちゃみたいに小さく見える。


「がっかりなんかしたくなかったの……ぜんぶ、好きでいたかった。

 この人を嫌いになったら、わたし、どんなに退屈な思いをするかしら。

 彼女を嫌いになりたくない」


 抱えた膝に頬を押し付ける。

 ルクレイはまぶしそうな目でこちらを見ていて、それに気づいてちょっと恥ずかしくなった。

 照れ隠しに、出窓から部屋に飛び降りて、鳥篭を眺めて回る。


「鳥の見本市みたいね。どこから来たのかしら、この子たち」

「みんな、森の向こうから来る。ティータと同じ」

「ふぅん? 町って意外に鳥がたくさんいるのね」


 帰ったら街道の並木をもっと注意深く見てみようと思う。

 気持ちは森から帰ることへ移っていた。

 もうそろそろ限界だ。

 今日まで用事で出かけている両親が、今晩には帰ってきてしまう。

 彼らが帰って来るまでに、家で留守番をしていたふりをしなければ、きっと大きな雷が落ちるだろう。


「……わたし、帰らなくちゃ。オリジオラの本のこと、忘れられなかったけど……」

「うん。ティータはきっと忘れなくてもいいんだよ。その理由が、何かあるはずだよ」


 そうかしら。疑問に思って振り返る。

 と、ルクレイが窓の下を覗き込んだ。

 気になって、同じように庭を見下ろす。

 メルグスがこちらを見上げていて、また収穫したらしいラズベリーを掲げて見せた。


「採れたて? つまみに行こう」


 鳥の部屋を後にして、再び庭へと向かう。

 去り際、わたしは改めて静かな鳥たちを見渡し、圧倒される気持ちを記憶した。

 はじめて経験した驚きは、新しい本を開く前の興奮と、少し似ていた。

 

 4.

 

 採れたての果実を、ルクレイといっしょにつまんで「せーの」で口に放り込む。

 噛み潰した途端に、「すっぱい!」と叫んだ。

 昨日の黄色いラズベリーの甘みの印象が新しかったから、思わぬ酸味に口が窄まる。


「少し時期が早かったみたいです。ジャムにしようかと」

「びっくりした~……」


 ルクレイも目を白黒させて息を吐く。


「じゃあ、もうちょっと時間を置いたら、甘くなるの」

「おそらく、そうでしょう」


 今日も魔女みたいに黒尽くめのメルグスが涼しい顔で頷いた。

 先に言ってよ、と文句をつけるルクレイに何も答えずさっさと屋敷に入ってしまう。

 果実の後味は口の中にまだ残っている。


「時間が経てば甘くなるのね。こんなに酸っぱいのに」

「ごめんね、ティータ。メルグスって、時々ああいういたずらをするんだ」

「いいえ。いいの。ルクレイ」


 屋敷を見上げる。昨日泊まった部屋の窓を探す。

 あの部屋に、オリジオラの本を置き去りにしていた。


「わたし、うちへ帰るわ」


 わたしの突然の申し出を受け止めて、ルクレイは微笑みで別れを惜しんでくれた。

 居心地のよい場所にもっと長く留まりたい、そんな気持ちを味わうのは初めてだ。

 名残惜しくて、だからこそきっぱりと決断して発たなくてはならないと思った。

 それを、ルクレイも理解してくれていた。


「本、置いていく。いつかまた読みたくなったら、新しく買うわ」

「取っておくよ。いつか取りにきて。気が向いたらぼくも読んでみる」

「うん。ありがとう、ルクレイ。そうする」


 曖昧な再会の約束に励まされて、ティータは森へ歩み出す。

 結局、憤りと落胆も、苛立ちと焦りも、忘れることはできなかった。

 でも、多分。きっと。

 もっと時間が経ったら、もう一度あの本を読もう。

 そのときには、今とは別の感情が動くかもしれないから。

 そうなったときに、ひょっとしたら、あの本を好きだと感じるかもしれない。

 実が甘くなるまで日をあてて、ふさわしいときに収穫するように。

 今より大人になった時に、もう一度出会いたいと思った。

 

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