旅する靴

 少女は椅子に座っていた。

 椅子の周辺には、いくつもの靴が、几帳面に一足ずつ寄り添って並んでいる。

 温室の天井から降り注ぐ光が、ある靴のエナメルを艶めかせ、ある靴のサテンのリボンに輝きを添えている。

 少女の指が、そっと、ひとつの靴を手に取った。


「これは、何? 穴が空いてる。壊れているの?」


 少女の声が弾んでいた。

 何か理由があるはずだ、と確信して興味を抱いたようだ。

 彼女が眺めているのは、古びた、けれど、どこも壊れていない靴だ。

 他のどれとも同じように、手入れの行き届いた靴だ。


「そうじゃない。これはね、裸足で履いて、ここに指を入れるんだ。

 壊れているんじゃないよ。最初から、穴を空けている」


「でも、これじゃあ、靴の役割が果たせない」


「いいんだ。これは、海辺で履くから。濡れてもいい靴なんだ」


「海辺で? ……知ってる。海って、水がたくさんあるところ。

 湖と似ていて、でももっとずっと広いんだって。

 ……どれくらいたくさんの水があるか、見たことある?」


「あるよ、勿論」


 僕は窓の外へ視線を向け、森を眺めた。


「……森の木々が、全て水になってしまった。それくらいたくさんだよ」


「そんなに――?」


 唖然とする少女の声に、はっきりと好奇心が滲んでいる。


「だから、濡れても構わない靴を履くんだ。革の靴はだめになってしまうから。

 長靴でもいいけど、やっぱり、海と砂浜の感触を楽しみたいから」


「それで、穴が空いているの。……へんな靴」


 少女は、サイズの大きいサンダルに靴下を履いたままの爪先をつっこんで、本来の履き方とは異なったままで歩き出す。すぐによろけて、ソファに手をついた。

 シャツにズボン、リブの靴下とベルトの黒い靴下留め。

 その脚の先にサンダルをひっかけているのは、どう考えても滑稽だ。


「ちゃんと履いてごらん。

 サイズが少し大きいけど、ベルトを調整できるから。

 試しに、外へ出て歩いてみよう」


「いいの?」


 少女は一度サンダルを脱ぐ。

 靴下留めを外し、靴下からまっ白い爪先を引き抜いた。

 再びサンダルに足を入れ、僕を見上げる。

 僕は頷いて、彼女の足元に跪く。

 細い足首にあわせてベルトに調節を加える。

 瑞々しい肌に指先が触れると、少女はくすぐったそうに息を漏らした。

 それから、思いついて、


「そうだ。じゃあ、湖に行こうよ。海じゃないけど、似てるんだよね?」


「いいよ。案内してくれる?」


「勿論!」


 喜ぶ声が間近に聞こえる。


「これで、よし」


「ありがとう!」


 少女は立ち上がって、弾むように歩き出す。

 白い足首にぴったりとベルトを締めると、爪先と踵に余分な隙間があっても、歩きやすくなったはずだ。


「空気があたる。くすぐったい。でも、裸足で歩いているのとも違う。不思議だね」


 新鮮な感覚に驚き、楽しんでいる。


「サンダルだと、森の中は歩き難いかもしれないよ。そのままで行くの?」


「うん。せっかくだから」


「じゃあ、僕に掴まって。足元に気をつけて」


 差し出した手を取って、少女が笑う。

 僕の手を引き歩き出す。

 狭い歩幅に合わせて、僕もゆっくり歩み出した。



 湖に着くと、まばゆい午後の陽射しを受けて、水面が輝いていた。

 金色に照り返す光の向こうに、森を映したような深い色が見える。

 岸辺を歩いて、別の角度から見ると、全く別の色を映す。

 対岸をぐるりと木々が囲んでいて、湖はぽっかりと空いた穴のようだった。

 世界から隠された内緒の場所に来たような、静かな高揚感が胸の内に膨らむ。


「海は、ここと似ている?」


 静かに波が打ち寄せる岸辺を歩いて、爪先を水に浸して、少女がはしゃいだように笑う。


「どうかな。昔、その靴を履いた女性と海に行った。

 ……僕の奥さんだ。彼女と行った海は、もっとずっと、果てなく広くて、向こうには空しか見えないんだ」


「何も、見えないの? 木も、町も?」


「何も見えない」


「それって、世界の行き止まりみたい。

 もう、そこから先は、海のほかには何もなくなってしまうの?」


「いいや。また別の陸地に繋がっている。終わりはないよ」


「全然、想像がつかない。

 海と、空だけの景色なんて。何にも囲まれていないなんて」


 ちゃぷ、ちゃぷ。

 少女が波打ち際を蹴っとばすように、脚を投げ出して歩く。

 小さく跳ねた飛沫が、陽射しを受けてきらきらと輝く。

 その光を目で追うように、少女が視線を上げた。

 水面を見つめて、ぐるりと取り囲む森を眺める。


「――それって、ちょっと怖いな」


「そうだね。広すぎて、途方もなくて、頼りない気持ちになるよ。

 怖いけど、気が楽になる。日ごろ生きている自分の周りの世界だけが、世界ではないのだと気付かされるんだ」


「自分の周りの世界……」


 ぽつりと、呟く。

 ひどく小さく、心許なさそうな声だった。


「そう。

 僕たちは、忙しくて、毎日同じ仕事を繰り返して、色んなことを忘れてしまう。

 そんなときに、旅行へ出かけて、それまで知らずにいたものや場所を見に行く。

 そうすると、それまでこだわっていた小さな悩みや不安から切り離された。

 だから僕たちは旅行が好きだった。旅行のたびに、僕は彼女に靴を贈った」


「これも、そのひとつ?」


 少女が足元を見下ろす。

 そこにあるのは、いつか僕が作った靴だ。


「そうだよ。海へ出かけた。船に乗って、海と空しか存在しない世界を眺めた。

 砂浜で、地平線に飲まれていく夕日を見送った。満天の星の中を泳いだ。

 勿論、そんな素敵な出来事は、滅多にない。

 忙しい日々の隙間に見つけたほんの僅かな時間だ。

 でも、振り返れば、一瞬のような短い出来事のほうが、強く印象に残っている。

 もっと多くの時間を注いだことよりも、ずっと鮮明だ」


 僕が作ったサンダルを、少女がしげしげと見つめている。

 もっとほかにもたくさんの靴を作って暮らしてきた。それが僕の仕事だったから。

 けれども、強く記憶に残るのは、彼女のためを想って作った靴ばかりだ。

 幸せな時間だった。

 ほかに同じようなことをしていたどの時間よりも、充実していた。


「ねえ、もっと靴を見せて。訪れた場所の話を聞かせて」

「いいよ。帰ろうか」


 それが当たり前のことのように、来たときと同じように、少女の手を引いて帰り道を歩く。



「なぜ、旅を続けているの?」


 手荷物は、大きな旅行鞄。たくさんの靴が詰まっている。

 そのほかには、粗末な革の鞄がひとつ。こっちには大したものは入っていない。

 最低限の着替えと財布と、日記帳と日用品。

 そして、僕はひとりぼっちだ。

 彼女から尋ねる言葉はひとつだったが、それが示す意味はたくさんあった。

 なぜ、靴を運んでいるのか。

 なぜ、今、ひとりぼっちなのか。

 なぜ――靴の持ち主はここにいないのか。


「僕は彼女に会うために、旅を続けている」


 少女は椅子にもたれて、少し眠たげな目をしていた。

 蝋燭の明かりがサンルームを照らす。

 鏡のように反射する窓の向こうに夜の森。

 はしゃぎ疲れた彼女は、それでもまだ好奇心に取り憑かれて、僕を見つめている。


「いなくなってしまった彼女と、もう一度会える気がする。

 一緒に旅した場所へ行って、思い出の風景の中に、当時彼女が履いていた靴を置くんだ。そうすると、過去へ戻って、あの日の彼女の姿が蘇るような心地になる」


 必死に、記憶を手繰り寄せた。

 日常の中で、いつか忘れてしまいそうで、怖かった。

 どうして人は、忘れてしまうのだろう。大事な瞬間を。

 大切な感情を。大きな幸福を感じたあの瞬間から、絶え間なく、僕は遠ざかり続けている。

 時が流れて、記憶は褪せる。

 過去はこの瞬間にも遠ざかっていく。

 まるで蝋燭だ。火をつけたその瞬間から、その姿を失い続けることになる。

 こんなにも熱く明るいのに、いずれは消えてなくなってしまう。

 目蓋に焼き付いた明かりさえ、いずれ瞬きを繰り返すうちに失われていくだろう。


「……この靴は、彼女に初めて作ったブーツだ。僕はあの頃まだ見習いだった。

 彼女はきみくらいの年頃で、ショーケースに飾られたブーツを見つめて、目を輝かせていた。その靴をプレゼントできたらよかったけど、とても買えるような値段じゃなかったんだ。僕にも、彼女にも」


 ショーケースに入っていたあの靴とは、やっぱり出来が違う。

 けれど、中々、見劣りはしない出来栄えだ。

 柔らかな子羊の革が足首を覆い、真鍮製のボタンを留める。

 足の甲から爪先まで、繊細な曲線を描いたエナメルは今も艶を持っている。


「見よう見まねで作ったけれど、今見ても大したものだと思う。

 初めて心から、誰かのために、真剣に何かをした。

 あのときが、生まれて初めてだ。恋をしたんだ。彼女の、憧れる眼差し。

 ああいう眼差しを受けるような靴をたくさん作ろうって、思ったんだ。

 僕は夢を叶えた。彼女がそうさせてくれた」


 ボタンブーツだ。

 少女は白い裸足を僕へ伸ばして、控え目に催促する。

 僕は恭しく跪いて彼女に靴を履かせた。

 あの日も、こうして、僕はあの子に靴を履かせたんだ。

 舞い上がって喜んでくれた、微笑んだ顔にえくぼが浮かんだ。

 彼女の足にぴったりだった。椅子を立って、試しに歩く。

 彼女はよろけて僕に抱きついた。ずっとあとになって、それがわざとだったと教えてもらえたとき、僕はほっとした。

 靴が合わなかったわけじゃないって分かったから。

 あのときの偶然のキスも、わざとだったと打ち明けてくれた。

 彼女のことが好きだった。

 今も。


「――少し、大きいかな」


 彼女――彼女ではない少女は、そう言って困ったように笑った。


「ぴったりなら、きみにあげようかと思った」


「もらえないよ。まだ、行かなきゃいけない場所があるでしょ? この靴と一緒に」


「……そうだった。そうだね」


 僕は少女から脱がせた靴を鞄へしまう。

 明日はこの屋敷を出発しよう。

 そうして、生まれ育った町へ帰る。

 彼女と出会ったあの町へ。

 思い出を追いかけて僕は旅を続ける。


「もしも――ああ、いい、なんでもない」


「なあに?」


「いや。へんな思いつきをしたんだ。

 思い出を僕の中から取り出して、ずっと保管してくれる場所があればいいのにな、って。僕の中にあったら、思い出はどんどん曖昧になっていくから」


 僕の頭がもっとよく出来ていれば、違うのかもしれないけれど。

 古びてくすんでしまう前に、僕から取り出して、鮮明なまま保っていてほしい。

 そんなふうに願ってしまう。無理な望みに決まっているのに。


「ああ……誰かに預けられたらいい。

 その人が、ずっと大事にしまって、いつか僕がほんとうに必要にしたときに、僕に記憶を返してくれるんだ。そうなったら、どんなにいいだろう」


「それじゃあ、ここに置いていく? 

 ぼく、預かるよ。きみが必要になるまで、ずっと持ってる」


 ばかげた話だと笑いもせずに、少女は尋ねた。

 気遣って調子を合わせたふうではなくて、それが当然、当たり前に出来ることだと考えているようだった。

 何が出来て、何が出来ないか、まだ区別がつく前の子供の万能感が、今の僕には優しさに感じられた。

 だから僕も、ばかげたことだと笑わない。


「ありがとう。そうするよ」


 当たり前に出来ることだと、今だけは、そう信じた。

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Innocent Forest 詠野万知子 @liculuco

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