4 旧世代の私と新世代の彼(4つ年上)

「先生、これやばい。マジっすかこれ、ズルくないすか」

 彼は先ほどから、初めて使うDスケールに対しての感動に打ちひしがれている。

「超便利だよねそれ。使わなきゃ損だよね、まあみんな使ってるんだけど」

「やばくないすかこれ。だって、画用紙にひいた線と同じ線でモデルを見られるんですよ?ずれようがなくないですか?」

「同じ線でモデルを見られるって、どんな日本語だよ。面接練習もしないと怪しいな。それから、この場合はモデルではなくモチーフと言いなさい」

「どう違うんですか?」

「モチーフは、描く素材のこと。この瓶やリンゴやテーブルクロス。それだったら何でもいいもの。モデルとは、描く絵のそのもの、名前を持つ対象のことだよ。『妻をモデルに絵を描いた』って言ったらそれは妻の絵だけど、『妻をモチーフに絵を描いた』って言ったら、それは妻から連想される作者の諸々の思考と感情の塊。君の場合、この瓶は何の瓶でも構わないわけで、この林檎のバックグラウンドもどうでもいい。つまり、これらは単に絵を構成する『要素』に過ぎないわけだ」

 彼は思考と動きを停止してしまった。しまった、また難しすぎた。この前も2年生の生徒に『先生の言葉は時々難しくてよくわかんない』と言われて、へこんだばかりなのに。

 言葉を繋げようと私が口を開くのと、彼が言葉を発するのはまた同時だった。つまり、また彼の方が早くしゃべりだした。

「じゃあもし、この林檎が先生の形見で、俺が先生を忘れないようにこの林檎を永遠に腐らせないままとっておくっていう目的で絵を描いたとしたら、それはモデルってことですか?」

 今度は私が停止する番だった。えっと、うん、モデルでいい、のか?

「…君、やっぱりすごいね。とても15歳の少年の思考力とは思えない」

「俺、誕生日3月だから、まだ14だよ」

 彼は得意げに笑った。

 こんなふうにして、第一回の受験対策デッサン講座は終了しようとしていた。宮間の筆(鉛筆)は遅いが、最初はこんなものだろう。何せ、中学1年生の時に授業でやって以来、デッサンというものを全くやってきていないのだ。

「先生、来週もお願いします」

「うむ。頑張れよ。とりあえずデッサンと着彩さえ対策していけば何とかなりそうだからな」

 二人で調べたところによると、常盤付属高校美術コース、通称『トキ美』は、絵が好きな人なら大歓迎というざっくりした門戸の開き具合で、例年の出題傾向も『静物デッサン(着彩あり)』のみ。つまりどのようなレベルの画力を持った生徒を欲しがっているのか、ちっとも見えてこないのだ。ただ学力の高い人も大歓迎しているらしく、毎年国立大学の教育学部美術教育科などに合格者を排出しているらしい。

 勉強も頑張るが、宮間が取り組むべきはやはり『静物デッサン(着彩あり)』の方であると、一週間の間に私たちは同じ結論に達した。学力の高い子たちの公立高校の滑り止めとして人気があるとわかった以上、ただ勉強ができる子よりも美術を学びたいと強く思っている子を欲しがってくれるかもしれない。

 もちろん、宮間が『美術を学びたいと強く思っている子』であると説得力を持って高校側に伝えるには、彼が絵を上手に描けることが大前提である。だから、部活を引退した彼は月曜日は美術室でデッサン、その日以外は自宅で勉強という、部活動現役時代と比べても遜色ないほどハードな日々を過ごすことになった。

「ありあとあした、しつれーしゃす!」

 水泳部仕込みの宮間の挨拶は威勢がいい。美術室には相変わらず似つかわしくない。でも、さっと頭を下げてから颯爽と帰路に就く宮間の背中を見て、私は言い知れぬ高揚感を感じていた。私、なんだかものすごく、今、先生してる。


「それは、すごいね。毎日充実してるんだ」

 笹本さんは笑顔で私の話を聞いてくれる。

「ごめんなさい、私の話ばっかりだったね。笹本さんの話もしてよ、最近仕事はどうなの?」

「えー、いいよ、俺の話なんてつまんないよ。おっさん上司の愚痴とうまくいかない歯がゆさみたいな物しかないし。君がする子供の話の方が、面白いな」

 そう言って彼はウーロン茶を飲んだ。彼はいつも私を車でどこへでも連れていってくれるから、居酒屋にいても決してお酒は口にしない。優しい人だ。

「あーお腹いっぱい。ごちそうさまでした。でも、本当にいいの?」

 私はおごられるという感覚があまり得意ではない。

「いいのいいの、年下ちゃんは黙っておごられなさい」

「年下ちゃん、なんて言ってもらえるような年じゃないと思うんだけど」

「いいのいいの。まったく、香枝は酔っ払いのくせに妙に理屈っぽいね」

 私たちはそんなことを言い合いながら、車に乗り込んだ。

「でも香枝ちゃんはアルコール強いよね、全然変わらない」

「そうかな、顔に出ないだけだよ」

「そういえばこの前、香枝ちゃんの中学で流行ってるって言ってた映画、観てきたよ。香枝ちゃんみたいにビールをおいしそうに飲む女の上司が出てた」

「え、観てきたの?一人で?」

 そう聞いたとき、笹本さんは心底嬉しそうな顔をして、私はしまった、内心舌打ちをする。

「いや、二人でだけどね。二人でって言ってもあれだよ?香枝ちゃんはこの映画興味ないと思ったし、趣味の合う人と二人。どうせ行くなら楽しめる人と行った方がいいからね。だから、そんなに特別な意味はないんだ」

 私が聞いた真意は、『え、笹本さんって一人で映画行けるの?』とかそういうニュアンスのものだったのだけれど、彼は盛大に勘違いしたらしい。恐らく同世代で同性の友人である『趣味の合う人』の素性を、彼は頑なにはぐらかしている。

「ああ、そうなんだ、で、どうだった?」

「すごく面白かったよ、映像がきれいだったしね」

 そりゃそうだ、今から20年近く前の原作の映像と比べたら、きれいに決まっている。

「俺も、旧劇場版を見てみたくなっちゃったなー」

 私はそこで、ずっこけそうになった。

「え、旧劇、観てないの?」

「うん、アニメ放送だけは見たけどね、ユーチューブで」

「ああ、そう」

「うん、でもさ、新しいの見たら面白かったから、やっぱり古い映画もみたい。ねえ、今度俺のうちに来ない?DVD借りてきて一緒に観ようよ。新しい方の映画の感想も、もっと聞かせてあげるし」

 なるほど、この話の着地点はここなのか。


「…その映画なら、ひょっとしてスクリーンで見れるかもよ」

 私はふと、あの小さな映画館を思い出した。収益の多くないであろうあの映画館は、リメイク映画やシリーズ最新作を全国の大型映画館が公開しているとき、便乗して前作や旧作を上映することがある。どうせだったら、映画館で観たい。私は、あれがリアルタイムで上映されていた時、まだ小学2年生だった。

「…それって、あの駅前の小っちゃい映画館?」

 彼の声が露骨に不機嫌になって、私はまたしまった、と思う。彼にとって映画を見ることなんて、本当はどうでもいいことなのだ。

「あー、そう、なんだけど…」

「まだ、通ってんの?」

「いや、もう通ってないよ、あれから一回も行ってないし」

「あれからって?」

「……」

 具体的にいつからと、口に出してしまってもいいものだろうか。知ってるくせに。

 あなたと付き合う前に付き合っていた男が、そこの常連だったんだよ。その男に教わって、私はその映画館を知ったんだよ。悪いか。

「…ま、いいや。今日は遅いし、そろそろ帰ろうか」

 行く当てもなく続いたドライブとおしゃべりは、明確な着地点を見つけられないまま、でも完全に迷子になることもなく終了した。いっそ本当の迷子になってしまいたい。


 私はすっかり酔いのさめた頭で、窓から空を眺めた。そういえば驚くことに、私より4つ年上のこの人も、新世代だった。主人公と同じ年齢の宮間と同じ、新劇場版からの新世代。

 星は見えない。誰にも脅かされることのない平和な暗闇が、この小さな青い車を包み込むようにどこまでも続いていた。


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