3 あまりにも意外な少年
纏わりつくように暑苦しい日々がやっと落ち着き始めたのは、学園祭の終わった9月の下旬だった。3年生は部活を引退し、クラス対抗の体育大会や合唱コンクールの練習もなくなり、残すイベントは卒業式のみ。なんとなく、学校中が気怠いような緩いような、焦れた雰囲気に包まれる。
その日は月曜日で、この学校では月曜日は全校一斉部休日だった。私は一人で美術室に籠り、生徒の作りかけの作品を整理し、画用紙を補充し、座ってスマホを眺め、床の掃除をしていた。校舎内には誰もいないはずで、だから私は突然のノックの音に、必要以上にビビってしまった。
「…すいません、そんなにビビりますか」
入って来たのは3年生で、男子で、しかも水泳部の元エースだった。どれをとっても、今この場所に似つかわしくない。似つかわしくない少年は、校舎中の違和感を一身に集めたような無表情で、入口に立っていた。
「ああ、宮間か。ごめんごめん、誰かが来るなんて思わなかったものだから」
この時期に3年生がやってくるなんて、忘れ物を取りに来たか、なくし物の相談か、はたまた受験で推薦を貰うための内心点でもねだりに来たか。遠慮がちに中に入ってきて私を驚かせたことを詫びる少年の目的は、そのどれとも違っていた。
「…あの、俺、美術の勉強する高校に行きたいんです」
「…へ?」
「俺、美術の高校行って、美大に行きたいんです」
鮮やかなほど予想外だった。確かに彼は男子には珍しく、美術の授業に積極的に取り組む生徒だった。そして、その能力も非常に高く、作品もペーパーテストも美術部員の成績の比ではないくらいよくできる。この上運動までできるのだから、私はてっきり彼はそつなくすべてをこなし上げる秀才なのだと思っていた。
「あんた、美術すきなの?」
「え、俺、授業中めっちゃ頑張ってるつもりなんすけど」
「いやいや、確かにめっちゃ頑張ってるとは思うんだけど、なんていうか、美術…得意じゃなくて、好きなんだ?」
彼は暫く、私の言葉の意味を探っているようだった。14、5歳の少年には、ちょっと難しい質問だったかもしれない。大体の生徒は、自分のやってみて褒められたことを得意だと信じて、それが好きなんだと信じて疑わない。言葉を重ねようと私が口を開くのと、彼が言葉を発するのがほぼ同時だった。
「いや、わかんないですけど、美術得意だし好きです。絵の勉強、したいです」
先生、俺に絵を教えてください。部活ない日だけでいいから、高校受験用の対策、してください。危うく、涙ぐむところだった。
「うん、もちろん。頑張ろうね」
部活動の指導では決して味わうことのできなかった、子どもの情熱。私はそれに初めて触れた。夕日は真っ赤で、美術室は少し暑かった。情けないくらい泣きそうだった。
結果的に、今日彼は一度も鉛筆を握ることなく美術室を出ていった。それほどに、彼の情熱は饒舌だった。
「俺、常盤付属の美術コースを受験したいんです。あそこって普通の授業は午前中だけで、午後はずっと美術だって、調べたら書いてありました」
「ホームページ見たの?それとも学校に届いたパンフレット?」
「両方です。俺、将来絵で飯を食える人になりたいっす。先生、俺、トキ美に受かりますかね」
残念ながら、教員を始めて1年もたっていない私にはこんな急な進路指導はできない。
「それを判断するには、材料が少なすぎるな。何か、最近描いた作品を持ってない?そういうのがあれば、少しは何かアドバイスできるかも。来週持ってきてよ」
来週の月曜日までに、進路指導主事の先生に話を聞いておかなくっちゃ。私の高校受験の頃の評判と、どのくらい変わってきているのか。8年前の記憶を使って、彼の背中を押すことはできない。こんなにも真剣に夢を語り、努力を惜しまない彼を。
「…ないです」
「…は?」
「俺、デッサンとか静物画とか?そういうの、一枚も描いてないです。ついでに言うと、美術の授業で習ったこと意外に何の知識もないです。すみません」
「…全く君って人は、夕日が目に染みるくらいに予想外なことばかりだよ」
「え?」
「いや、何でもない。そうか、何もないか。じゃあ、しょうがないね」
そこで私は抜けかけた腰に力を入れて立ち上がり、彼を美術準備室に案内した。
「いい?これ全部、一般的に言う『画用紙』。でも、どれも微妙に違うの。厳密にいうと、『画用紙』とはこれのこと。工作とかにも向いてるし、厚さも強度もちょうど良くて扱いやすいから初心者はこれから始める。授業で使ってるスケッチブックもこの紙よ。これは水彩紙。触ってみて、凹凸があるでしょ。水彩絵の具とよく馴染んで、様々な表現ができるし、ぶ厚くて丈夫」
「水彩絵の具って、俺たちが授業で使ってるやつですか?」
「それはアクリルガッシュ。乾いたら耐水性になるから、間違えて塗っても重ね塗りでごまかせる。でも、君が受ける学校の試験案内にもし『静物画(着彩あり)』って書いてあったら、君はこの水彩絵の具を持っていくべき」
私は手のひらに収まるくらいの小さな水彩絵の具セットを彼に見せた。
「え、こんなちょっとなんですか?」
「そう。この絵の具をちょっと出して、薄めて、混ぜたり重ねたりして無限に色を作るの。その練習もしたほうが良いね」
「試験が『静物画(着彩あり)』だったら、このセット貸してもらえますか?」
「もちろんいいよ。でも、『画面構成(着彩あり)』だったら、ポスターカラー持っていきな」
「…なんすか、その画面何とかって」
ふと気づいてみれば私はしゃべり過ぎで喉が痛いし、思い返してみれば饒舌なのは彼の方ではなかったかもしれない。でも、彼は美術室での態度を見る限り熱心そのものだった。
「じゃあ、ありがとうございました。メモ。うちに帰ってから復習します」
「ごほっ…はいよ。遅くまでご苦労様」
「また来週、来ていいっすか」
「いいから、来週までに志望校の出題傾向、調べときな」
「はい、ありあとざいました」
「さよーなら」
「さよーなら」
宮間はわら半紙にびっしりと『画用紙』『水彩紙』『木炭紙』『ケント紙』『水彩絵の具』『ポスターカラー』『アクリルガッシュ』『デッサン』『画面構成』『着色あり』『練消しゴム』『Dスケール』などについての情報を書き込んでから、下校時刻ギリギリに立ち去った。
私はぐったりと椅子に座った。今になって今度こそ、本格的に腰が抜けてきた。
やばい、彼は本気で受験をしようとしている。新米ぺーぺーの私に、彼を合格に導くだけの技術指導ができるだろうか。
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