5 昨日のことのように私を思い出せばいい

 家に帰ってから、とりあえずお風呂にお湯を入れた。心地の良い酔いはすっかり消えていて、重い頭の痛みのみが脈を打つ。

 今の恋人と出会う理由を作ったのも、間接的にはまた彼であった。映画が好きで、お酒が好きで、私が学生時代にバイトしていた同じカフェバーで働いていた。頼りなさげだけど実はしっかり自分を持っていて、でもそれを他人に見せようとはしない。私は二十歳の誕生日を迎えた次の日、昼間のカフェだけでなく夜のバーにも立たせてもらえることになった。そのとき、隣に立っていたのが、彼だった。

「私、これから夜も出られるんです。これで、一緒に過ごせる時間が増えますね」

 私の思い切った発言にも彼は動揺を見せず、それが悔しかった。でも実は結構動揺していたらしい。


 去年の夏が来る少し前、あの小さな映画館の前で、私たちは些細なけんかをした。原因は、今となってはよくわからない。私には彼のほかに一緒にご飯を食べに行く程度の先輩がいて、彼には彼に言い寄る27歳の女の客がいた。それでも、年の離れた私たちにとってはそれくらいの自由さがちょうどいいんじゃないかと思っていたし、彼もそう思っていた。ただ、その『自由』の幅が広がれば広がるほど、私たちの距離も広がっていったし、私たちの互いの必要さも薄まっていった。 

 でも、けんか別れを選んだわけじゃない。その場の激情で離れ合ってしまうほど、私はばかではないし、彼は若くなかった。でも、ちょうど10歳年の離れた恋人と、私はその日初めて心が離れたのを感じた。もう、一緒にはいられないのだと。そう思った。

 コップに水を注いで、私は椅子に深く腰掛けた。ぐーっと一気に飲み干すと、頭の痛みもすぅっと引いていく気がした。

 あの日、もしけんかをしなければ、私たちは何の映画を観る予定だったのだろう。バーに務める傍らネットにサブカル記事を描いているコラムニストだった彼は、あの映画館によく通っていた、私がまたあの映画館に行ってしまうと、そこで鉢合わせてしまうと、優しくて気を遣うあの人はもう、あの映画館に来なくなってしまうかもしれない。映画の専門コラムニストになりたいと照れながら語ってくれた彼の夢は、遠のいてしまうかもしれない。

 軽快な電子音が響いて、お風呂が沸いたことを私に伝えた。いやいや、そんなわけないだろ、と私は頭を振って、お風呂場へ向かう。彼は確かにやさしかったけど、結構さばけたところもあったのだ。私があの映画館にいたとして、気づかないふりをするか会釈をするか、少なくとも私が気をもむよりもずっと大人な対応をしてくれることだろう。だって、何せ彼は私より10歳も年上なのだから。



 誰よりも先に、私のことを思い出せばいいと思った。その日私は、確かに呪いを込めて、言った。

「…あのね」

「うん」

 涙というのは、人を落ち着かせる効果があるのだ。「男だから」「振った側だから」という理由で泣けない時点で、彼は私に勝ち目などない。嗚咽を一つもらす度、私の頭は澄んでいく。

 これは不思議な感覚だった。まだ私のことが好きで、でもあの人との関係を解消できないあなたは、自分が選んだ別れを私が受け入れる、という最悪の形で私と離れていくのだ。あんな人が、あなたとずっと一緒にいてくれるはずはないのに。それもすべてわかったうえで、あなたは今、私と離れようとしている

 鼻水をすする度、私は頭をフル回転して別れの言葉を考えた。彼が思い出して、その度にまるで昨日のことのように苦しくなるような言葉。私じゃなくてあの人を選んだことを、そのせいでこれから一人ぼっちになることを、後悔するような言葉。もともと就活が忙しかった私が1週間後にバイトを辞めて会えなくなっても、距離を超えて耳から離れない言葉。何を見ても何を聞いても思い出させるように、普遍的なものでなければ。衝撃を持って心に刺さるように、特別なものではければ。まだこの人が、私のことを好きなうちに。この人の心に一番働きかける存在が、私であるうちに。

 車内は暖房と二人の熱でむせ返りそうで、私は額にひそかに汗をかいた。窓は曇って、フロントガラスは何も写さない。上々だ。これで彼は、私が帰ってからもしばらくはここから動けない。ガラスの曇りをとる間、一人になったことを噛みしめる時間ができた。

「あのね」

「うん」

「私、今こんなに泣いてて、説得力ないかもしれないけど」

「うん」

「本当に幸せだったの、本当に」

「うん」

 息を吸う。しゃくりあげてしまって長くは喋れないから、言葉を選んで。

「初めて付き合った人があなたで、本当に、」

…幸せだった。だめだこの言葉じゃ。重すぎるし陳腐だ。何より普遍的過ぎて響かない。ここはもっと、身近な言葉で。

「…運が良かったな」

 へへ、ここで少し笑う。自嘲気味に、照れたように。

「私、今までの人生で一番のラッキーが、あなただったよ」

 決まった。声にならない呼吸音が、隣から漏れ聞こえる。

 最後は言葉にならないみたいに、小さくなっていく演出。この小さな告白は彼の一番やわらかい部分に、後悔の棘として今、刺さった。これからゆっくり化膿していけばいい。そんな期待を込めて、会心の一撃。

今まで俯いていた彼は、涙をこぼさないように顔を上に向けている。まるでおでこに鉛筆を立てて落とさないように遊ぶ小学生みたい。滑稽だね。

「ね、今だけ、手を繋いでもいい?」

 断られないことはわかっている。

 黙って差し出された手を、彼は遠慮がちにゆっくり触る。

「ありがとう」

「…こちらこそ」

 訳の分からない回答をしている彼を横目で見る。だいぶ心は壊れてきたみたい。

「初めての恋人が、あなたでよかった!」

 ここは明るく、無理してるように。そう、私は潔い年下の恋人。

 握った手を軽くくい、と引っ張る。彼が顔をこちらに向ける。

 涙の後のついた顔で微笑む。決してベストコンディションとは言えない顔面だが、こういうのが今は一番こたえるだろう、と私は知っている。

「ごめん、見れないよ」

 彼も照れ隠しにおどけて笑ってるけど、泣きそうなのを私に見られたくないから顔をそむけている。

「見てよ」

 さっきまでの消え入りそうな儚い口調とは打って変わって、語気を強める。

「見てよ、もう、最後なんだよ」

 彼がおそるおそるこっちを見る。その眼は涙で揺れていて、限界は近い。せっかくだから泣き顔を拝んでやろうかと思ったけど、きっと「自分の泣き顔を見られた女」と「最後まで泣かずに別れた女」では男のプライド的に後者の方が美化しやすい思い出になるだろう。

 では、泣かれないうちに、ここは手短に。

「今まで、本当にありがとう」

 彼の中に私を残す最後のチャンスに

「さようなら」

 今まで、人々のあらゆる別れに寄り添ってきた、この言葉を。


 それきり私は、パッと彼の手を離し、鞄を持って外に出た。外気が火照った頬に心地いい。

「気を付けて、お元気で」

 顔を見ずにそう言って、ドアを閉める。

 道路を渡って角を曲がり、建物の陰から様子を覗う。彼は予想通り、窓の曇りがとれるまで動けないみたいだ。駐車場から動かない車を私は見ることができるけど、彼は私の様子を見ることはできない。しばらくして車はゆっくりと動き出し、道路に出て反対側へ走っていった。


 完璧だ。

 私は言いようのない達成感に包まれていた。別れという最悪の結果にはなってしまったが、私は私にできる完璧な別れを演出して見せた。あと数時間したら、部屋に置いてある私の物は全て捨てるよう連絡しよう。返信が来ても、返さない。送り返してもらうのは簡単だが、そうしたら荷物は全て私のところに戻ってきて、彼のもとに私の気配は残らない。懸けてもいいが、捨ててと言っても彼は私の荷物を全て捨てたりしないだろう。手元に少し残しておいて、酒に酔った夜に引っ張り出してきては一人で自分を慰めるの。そのことを思えば、たかが数千円分の荷物なんて全然惜しくない。

 不在は、存在よりも色濃くその人を残す。ラブストーリーの世界では常識。


 相手が寂しいとき、虚無を埋めてあげる為にぬるい温度で傍にいる。そう決めた時から負け戦な時もあるのだ。別れの決まっている、曖昧でぬるいひとときは、強烈な一瞬の別れには勝てないの。

 いつか彼が結婚して子供ができて、子育てがひと段落して落ち着いて、ふと昔の元カノのことを考えたとき、誰よりも先に、私を思い出せばいいと思った。

 初めて付き合った女より、結婚前に最後に付き合った女より、二股かけられて捨てられて恨んだ女より、童貞捨てた女より、今彼に依存しているあの女より、

 誰よりも先に、たった今別れた私のこと、思い出して苦しくなればいいと思った。

 私に、一生淡い恋心を抱き続ければいいと思った

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