6 性癖ではなく、少年に憧れる
「はい、じゃあ今日の作業はここまで。次の時間は鑑賞会だから、終わってない人は放課後に残るなり持って帰ってやってくるなりしてください」
ざわざわとした教室の中で、私は精一杯声を張る。聞こえたんだか聞こえてないんだか、聞いてないんだか聞かなかったことにしてるんだか、定かではないが室内にはいくつかの未完成のままの作品が取り残されていた。私は、ため息をついた。 美術に意味を見いだせない子は、途方もないくらいにたくさんいる。
だから私は、貴重なサンプルである『美術の得意な男子中学生』である彼についてもう少し詳しく観察してみることにした。もしかしたら、男子中学生の美術好き嫌い切り替えスイッチが見つかるかもしれない。
「ねえ、なんで絵を学びたいと思ったの?」
「え?なんすか急に」
「いや、面接練習だと思って。きっと聞かれるよ、このテの質問」
「んー、物を作ることに興味があったから、ですかね。俺、美術好きだけど、他にも漫画も本も映画もアニメもみんな好きだし、でもそれって、みんな誰かがゼロから作り出したものだよなあって、ふと思ったんですよね。デッサンとか模写とかじゃなくて、全部自分で。
で、俺最近イオンで映画見てきたんですけど、アニメの。アニメってそれこそ、ワンシーンずつ全部手作りじゃないですか。それが2時間。もうすげーってなっちゃって。で、あとから調べたんですけど、そのアニメの監督も大阪の芸大出てるんですけど、作画の、なんかキャラクターの顔とかメカのデザインとか考えてる人が別にいて、その人は東京の美大出てて。俺、国語とか苦手だし、そんなに頭使って何かをゼロから生み出すってできる気しないけど、誰かの作ったものに、例えばストーリーに、イメージに合うようなビジュアルをつけていくのって、やってみたいなあって思って。俺水泳部だし、体使うのは得意だから、絵の練習をとにかくたくさんして、めちゃめちゃうまくなって。そしたらこういう仕事もできるかもしれないし、仕事が来たら俺、徹夜でも何でもしてめっちゃ描くし。体力あるし、根性あるし、絵を描く力と知識が増えたら、俺、いけんじゃないかなって…
あれ、質問なんでしたっけ」
私の頭にはくるくると言葉が飛び交っていた。彼の拙い説明は、まるで彼の思考がダイレクトに私の耳に注がれたみたいで、ちょっとめまいがしてしまった。
「…それ、すごくいい答えだと思うから、来週までに簡潔にまとめてきな」
彼はデッサンの手を止めて、えーっ、と言った、ここに来てから初めて見せた、ちょっと反抗的な態度だった。
「でも、決して国語の成績だって悪いわけじゃないでしょう?数学に比べたらちょっと低いってだけでさ」
「うーん、そうなんですけど、なんか国語って言っちゃいましたけど、国語だけじゃなくてなんて言うんだろ、作り出す力、みたいなものが俺には足りないんすよ。あの映画、マジですごかったんすよ、先生見ました?」
「見てない。リメイク前の古いのなら、一回見たことある」
「リメイクじゃなくてリビルドですけど、先生見たほうが良いっすよ、主人公とか普通の少年なのに、途中からマジ格好いいんですよ」
「…それが、私はちょっとヤダ」
「え?」
「大体に置いて物語の主人公は少年なのよね。世界を変えるのも、地球を救うのも、みんな少年。美しい少女は、少年に世界は守る価値があると気付かせるための要素に過ぎない」
「あー…確かに。先生は、少年が主人公のものとか嫌いなんすか?」
「いや、嫌いじゃないよ。むしろ少年には憧れている。ただ今までで一回も私は少年にはなれなくて、これから先はますます遠のいていくだけって思ったら、ちょっと空しくなっちゃって」
「へー、めっちゃ考えて観てるんすね。俺だめだな、額面通りのことしか受け取れないし、そこから新たに何か考えようっていうのが苦手で。最初からあるものをその矢印に従って伸ばしていくことは多分得意だけど、新しく何かを生み出すっていう能力が少ないんすよね、多分」
「発想構想の能力?」
「俺、1年の時に一回だけ、その項目でB取ったことあります」
後にも先にも、美術で評定『4』をとったのはその1年生2学期の時だけだったと、彼は悔しそうに言った。
「明日、飲まない?6時半北口集合」
詠美からのラインに気が付いたのは、金曜日の夜だった。詠美はいつも、基本的には自分の意志に忠実である。誰かに話を聴いて欲しい日や誰かの話をひたすら聞きたい日、詠美は何も迷いなくラインを送ってくる。こんなに突然私を呼び出すということは、きっと緊急で話を聴いて欲しい案件ができたのだろう。
私の都合を一切無視したメッセージをやはり私も無視し、車に乗り込む。何かにつけて私が返信を面倒くさがるから、業を煮やした詠美が作ったルールに『既読がついてから3時間以内に断りの連絡がなければ、この誘いは承諾されたものとみなす』というものだった。本当に用事があるなら読んだ時点で断りを入れるはずである、というのが詠美の理屈だった。
返信をめんどくさがる私は、このルールを悪用していた。つまり、参加しない飲み会の時は連絡を入れて、参加するときは連絡をしない。結構便利で気に入っているルールだ。
「ねえ、カマンベール揚げも頼んでいい?」
「もち。一緒にオリーブの塩漬けとプロシュート頼んで」
「うわ、なんかその言い方、鼻につくな」
「さっきの餃子のニンニクの匂いじゃん?」
「うるせーよ。あ、すいませーーーん!!」
大声を出して、傍を通った店員を呼び止めた。威勢のいい掛け声とともに、彼は小走りでやってくる。
「カマンベール揚げと、オリーブと、生ハムください。あと生チューのレモン追加で」
店員は大声で注文を確認し、さっきくれた伝票に何やらチェックをして去っていった。
「今、いくらくらいになってる?」
「え、聞いちゃう?」
「…やっぱいいや。誰のおごりでもなし、自分の稼いだ金だもの。好きに食って飲めばいっか」
詠美は足を組み直して、再びさっきの話題を呼び戻した。
「でさ、この期に及んで『俺としてはいつでもいいけど…笑』とか言い出すんだよ。笑い話にもなんねーわ」
2杯目の生ビールをあおって、詠美はまくしたてる。
「そりゃ、好きって言ったよ?10年くらい前にね。あの時、私まだ中学生だったんだよ?それから高校行って、大学行って、就職して、山ほど出会いがあって、それで10年前の告白、蒸し返す?どんだけなんもない10年間だったんだよお前は!」
中学の頃好きだった人とこの前たまたま再会して、連絡先を交換して、何回か飲みに行ったらしい。そして、当時の告白を蒸し返され、無性に腹が立つ、と、事の顛末はこういうことだった。
今日は良くしゃべりたい日らしい。私も追加のレモンチューハイを飲みながら、赤べこのようにひたすら頷き続ける。
「むっかつくわー、しかも最後は『いいよ、ここは俺が出すから』ってさも当然のようにさ。『おごってもらうのは特別な相手だけですから、遠慮します』って言って、払ってきたけどね」
「払ったんだ」
「もちろん。なんか気分良くないじゃん、進展がないに決まってる人におごられるのって。あんたもおごられるの苦手って言ってなかったっけ」
「うん、何かさ、自分がいないみたいなんだよね」
「は?」
「例えばさ、このテーブルにはエビと明太子のパスタととあさりバターと大根サラダがあるじゃん?」
「しつれーしゃす、オリーブとプロシュートお待たせいたしましたー!」
「…今、オリーブと生ハムも追加されたわけだけど、この5品をさ、二人で食べるじゃん?」
「あと一品来るけどね」
「それはおいといて。で、二人で食べて、お会計するじゃん。私が半分、詠美が半分出すわけじゃん」
「そりゃそうだ。だって半分は食べたんだから」
そう言いながら詠美はパスタを皿によそる。パスタに関しては確実に半分以上は彼女が食べているが、まあそこは置いといて。
「そう、半分食べたから、その対価として半分払う。私が食べたものに食べた分だけお金を払うのって、ある意味では当然のことじゃん?」
「そのとおりね」
「じゃあさ、これを全部詠美におごってもらったとしたら?私、存在する?」
「ちょっと待って、最後の質問がよくわかんなくなってきた。でも、なんとなくわかる気もしてるけど」
「詠美が二人分払う時って、単純に考えたら詠美が二人前食べたってことだよね。二人分の栄養が、詠美に吸収されて、その対価としてお金を払う。そこに私の存在なんて関係ない。つまりなんていうんだろ、お金を払わないと、なんだかちゃんと存在している気がしない。食べたものの分お金だけが減らないなんて、私、本当に食べたの?私、参加できてたの?私、そこにいたの?」
「…前半はわからなくもなかったけど、後半は14歳の少年も真っ青なモラトリアムが飛び出して来たね」
「モラトリアムとはまたちょっと違う気もするけど、とにかくそういうことよ。だから私も、おごられるのは苦手」
詠美の理由とは恐らく大きく異なるだろうが、共通の認識を持つ私たちは、証拠として二人で写真を取り合い、デザートのアイスクリーム代まできっちり分割してから支払った。
財布は厳しくなったが、心は晴れやかである。私、いま生きている。
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