7 死に、照準を当てよ

 毎週月曜日、全校一斉部休日の日。恐らく校舎内に残っている生徒は、本当にごくわずかだろう。宮間は毎週、欠かさずやって来た。

「もう少し、薄い鉛筆ではっきり描きな。瓶の透明感は明暗の強弱によって描きだされる。あんまり濃い鉛筆で描くと真っ黒になっちゃうから、そう、2Hくらいがいいね。映ってる光も、窓の光が反射してるものだから。よく見て、窓の形をしているはずだよ。ぼかして書いちゃダメ。瓶の光ははっきり描いて」

 宮間は一生懸命に話を聞いて、精一杯改善しようと試みていた。私は、やはり言いようのない気持ちが内側に湧き上がっていくのを感じた。初めて、教えることが楽しいと思った。そうか、私に足りないのは、この感情だったのか。

 子供と接するのは楽しい。同僚は皆いい人。絵を描くのはもちろん好き。それら一つ一つは確かにあるのに、互いにリンクすることはなく、あくまで単体での感情であった。でも、今初めて、『教えるのが楽しい』と感じている。子どもに、絵を。教師として。

 私に足りない情熱は、彼が教えてくれた。子どもに教わることばかりだとベテランの先生は行っていたけど、これだったんだ。

 私は、宮間によって初めて、本当の美術教師になろうとしていた。


「…先生」

「何?」

 宮間は手を止めて、私の方を向いた。彼の筆(今回は着彩なので、本当に筆)の進みは早くなっていた。

「俺、受かりますかね」

「ああ、トキ美?私には何とも言えないけど、可能性は高いと思うよ。勉強も運動もできるし、絵だって今こんなに」

「俺、トキ美受かったら、そのあとどうなりますかね」

「え?」

 いつもよく話を聞く彼は、ほとんど初めて、私の回答に被せて自分の質問を重ねた。

「俺、トキ美受かったら、そのあと美大受かりますかね。美大受かったら、そのあとどうなりますかね。絵を描く人って、どうなったらなれるんですかね」

「将来のことが、不安になったの?」

「や、なんていうか、俺自身は今まで考えたことなかったんですけど…父さんに、なんか昨日言われて。それって稼ぎになるのかって。お前ひとりじゃいいけど、もし、家族を持ったりしたときに、それでみんなで生きていけるのか、みたいなこと聞かれて。確かに俺、トキ美に受かりたいって気持ちばっかりで、その後のこと具体的に考えたことなんて、全然なくって」

「…高校受験の、その先の未来だね」

「はい。先生にたくさん絵を教わって、絵以外のことも教わって、俺なんていうか、具体的に考えることができたっていうか。今まで知らなかったことを知ったから、悩むことができるっていうか。」

「…今まで鉛筆しか知らなかったけど、水彩絵の具やアクリルガッシュや木炭を知ったから、さてこのモチーフを何で描こうか、みたいな」

「そうです。先生、俺だけですか?トキ美受けるの。他に誰もいないんですか。みんな普通高校受けるんですか?」

「宮間、君の照準は近すぎる」

「え?」

「君は、よく見ようとするばかりに、一番近くにある林檎しか見えていない。その後ろには瓶も、花も、牛骨も、その背景も、たくさん広がっているのに。でもね」

 私は精いっぱい考える。何か、どんな言葉を選べば、この子供の不安に届く?

「周りには、たくさんのものがある。大きさを比べて、色を比べて、光の当たり方を比べて、やっと一枚の絵になる。同級生の中には、林檎すら見ようとせずに流れのまま志望校を決めている人も少なくないでしょう。でも、君には林檎が見えてるんだから、目をそらすことはできない。林檎ばっかり見過ぎてしんどくなってしまったときは、ちょっと遠くを見て。視点を、モチーフの向こう側に立っている私くらいのところにまで、引き上げてみてごらん」

 そういうと、素直な彼は筆をおき、私の方に向き直る。その瞳は、揺れていた。

「未来をみることはできないけど、想像して、ちょっと考え方を変えてみることはできる。絵を描く上で視点を変えるのはたやすいことだけど、自分の未来予想図だとそう簡単にはいかないよね。そこで私がお勧めするのは、人生の照準を死にあてる、ということだ」


 私は黒板に向かう。背中に宮間の視線を感じて、内心ドキドキ落ち着かない。さあこんな授業、今までしたことないぞ。

 私は白いチョークを持って、黒板に小さく丸を書く。

「ここが、今の14歳の君。そして少し進んだここが、受験。トキ美に受かる。高校3年間を経て、東京の美大に合格。4年間学んで、大学院で専門を磨いて、その後小さなデザイン会社に就職。そこで修行して、3年後独立。ここらへんで結婚かな?グラフィックデザインやイラストレーションを手掛けながら、作品が評価されて大きな仕事が舞い込む。2年がかりで仕事をして、それが成功して、ここらへんで子供が生まれて。こんな感じかしら、君の理想の人生」

 長細い黒板いっぱいに、チョークで時間軸を描いてみる。

「この一番端っこにいる君は、この先の未来が確かじゃないから不安なんだ。いついつまでに就職して、いついつまでに独立して、いついつまでに結婚して。そんなふうに、自分の人生に機嫌を設けて。でもそれは当然だけど、それが君を苦しくしてる。だからね、ちょっとここらで、取っ払ってみなよ」

 黒板消しで雑な年表を一気に消した。

「ここが、今の君。確かなのはここだけ。不安がる君が照準を当てるべき未来は、大学でも結婚でも就職でもない、ここ」

 一番端っこに大きく、赤い丸を書く。

「…それは、なんですか?」

「これは、死」


 一瞬、なんとなく時が止まった。

「君にとって確かなものは、いつか死ぬことと、今この瞬間に生きているということ。将来のことを考えるのは大事だけど、もし不安で嫌になるようだったら、一回、自分の最初にして最後の期限が死であるということを考えてみて」

「死が期限なんですか?」

「そう。いついつまでの卒業も、就職も、独立も結婚も、みんな取っ払ってしまえば、あと60年以上も時間が残っていることに、気が付くはず」

「60年?」

「そう。あと60年も時間があると思えば、何だってできる気がしない?」

 大丈夫。別に予定が1年や2年や5年遅れたところで、君は大丈夫。14歳の今、こうして筆を握って、将来の不安を抱えて、それと闘えている君は、大丈夫。

「死に、照準を当てよ」

 私たちを待ち構える締め切りは、人生の節目節目にたくさんあるようで、実は命の終わる瞬間だけ。きちんと考えがあるなら、自分があるなら、社会が勝手に作り出した期限など何も恐れることはない。

 宮間は暫く黙っていたが、もう一度画面に向き合って筆を動かし始めた。

「先生、そういうこと、もっといろんなときに言ったほうが良いよ」

 ぽつりと背中がそう言った。


 帰り道、笹本から連絡があった。続く振動は暫く私を落ち着かなくさせたが、ようやく慣れてきた辺りでやっと切れた。何だか後ろめたいような気がして、私はスマホを取り出し、着信履歴を見つめ、またカバンに戻した。信号が青に変わって、連なる真っ赤なブレークランプが前の方から徐々に消えていく。

 笹本は、私の知りうる限りもっとも死に照準の当たっていない男だ。ブレーキランプ消灯の波が私の車まで到達し、私は素直に前に進んだ。

 やけ酒中の居酒屋で出会ったこの男に、私は今まで一度も恋をしたことがなかった。なのに、彼は私のスマホを震わせ、私のスマホは彼の意志によって震える。

 昨日の詠美との会話が頭を回った。

 おごられるの、ちょっと苦手だよ。私がいないみたい。あなたのことを好きじゃない彼女と一緒にいて、あなたは幸せ?彼女はあなたのこと愛してくれないのに?それに気付いてる?それとも、そんな私はあなたの中には存在しない?いちゃいけない?

 そのことだけ、私は無性に聞いてみたくなって、次の信号でもう一度スマホを手にしようとした。着信履歴を眺めるうちに信号が変わり、それに気づかなかった私は後続のトラックにクラクションを鳴らされた。

 愛してくれない彼女と一緒にいて、幸せ?愛していない彼氏と一緒にいて、幸せ?


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