8 空気の読めない赤べこ
「先生、これ、誰のですかあ?」
明らかに男物のペンケースを、2年生の美術部員が持ってきた。男だらけだった3年生が引退してから、2年生の男子部員は来なくなった。1年生の男子部員はもともといない。結局、美術部に最もありがちな女子中学状態になってしまっている。
「ああ、生徒の忘れ物かな。今日授業があったクラスの先生に、当たってみるよ」
「でも、昨日からありましたよ?」
「…昨日言いなさいよ」
私はペンケースを受け取った。持ち主にもちろん心当たりはあったわけだが、中学生男子が放課後に一人で残って部活でもないのに絵を描いているなんて、彼が進んで触れ回りたいような内容ではないだろう。
嘘は一つもついていない。純粋な2年生をだましたことになるかもしれないにが、これくらい神様も多めに見てほしい。
そんなことをぼんやりと思っていた私は、今からちょうど10分後に、神様なんてこの世に存在しないことを思い出す。
「しっつれーしやーーす」
必要以上に大きい声が響いてきたので、私も部員も思わずビビッて振り向いてしまった。
「せんせー、俺、先週の課題終わってないんで、今日やってってもいいっすかあ?」
3年生がこんな時期にやってくるなんて、内申点稼ぎか受験勉強への逃避か、はたまた真剣にこいつは染物職人を目指していて、だから今授業でやっている手ぬぐい制作をここでも…
「せんせー、俺放課後まで来てやってて偉いから、美術5にしてよ」
呆れるほど予想通りな思考回路に、私はなんだかほっとした。
「授業中に散々さぼってて、今ちょっとやったからってそう簡単に挽回できるわけないでしょ。5が欲しいなら今から死ぬ気で頑張んな」
「はあー?マジやる気なくしたわー」
もういいやー。宮間と同じクラスの大塚は、手に持っていた手ぬぐいを丸めて床にポイっとやった。
「せんせー、なんで教員になんかなったあー?」
「…こっちが聞きたいよ。大塚、あんた、今日この後何があんの?」
「なんもねえし」
「嘘こけ。なんかあるんでしょ。進路指導とか?」
「はあ?なんでわかったあ?マジうぜーんだけど進路指導とか。まだ10月じゃんねえ?」
大塚は、声もデカけりゃ体もデカく、その上態度まで尊大な男だった。受験まで半年を切っているこの時期、ほとんどの問題児が落ち着き始めているというのに、こいつだけは1学期からそのままだ。
「10月を笑うものは、3月に泣くよ。ほらこれは持って帰って、さっさと担任の先生んとこ行きな。部活の迷惑だよ」
「美術部って活動してんの?何してんの?」
「デッサンとか、いろいろだよ。お前も1年生の時授業でやったでしょう」
「覚えてないし。皆めっちゃうまいじゃん」
そう言いながら、大塚は勝手に部員の作品棚をあさり始めた。
「こら、やめなさい。人のものを勝手に観るんじゃない」
「うまいしいいじゃん。あ、これ色ついてる」
それは、駄目だ。先週宮間が完成させた、緑の瓶と青い陶器と赤い布の絵。勝手に見せてはだめだ。勝手に教えてはだめだ。だって、宮間はこいつと同じクラスで、男子で、まだ中学生なんだ。
「こら、返しなさい!」
「えーなんで色ついてんの?てかうまくね?誰のこれ?中村?」
そう言って、大塚は裏を見た。美術の時間にいつも『作品の裏に名前を書け』と言い続けていたことを、私は激しく後悔した。
「え、MIYA…ミヤマ?」
えーーーマジでーーー!また必要以上の大声に、私は頭を抱えたくなる。
「え、ミヤマってうちのクラスの宮間?なんで?あいつ水泳部じゃん。なんでこんなところに絵があんの?描いてるの?」
矢継ぎ早の質問の後、奴は私の握りしめているペンケースに目を付けた。
「あれ、先生、それ宮間のじゃね?俺同じクラスだから知ってるよ。明日渡しておいてあげよっか」
「いい、いいから、いらんことをするな。余計なことを言わなくていいから、早く進路指導に行きなさい」
誰にも何も言うな。喉まで出かかった言葉だけれど、私は必死で飲み込んだ。ここで私が口止めなんてすると、懸けてもいいけど、この男は必要以上に言いふらす。私が口止めをしなければ、うまくいけば宮間本人を質問攻めにするくらいで済むかもしれない。
中学生。男子。美術室で放課後一人絵を描く。輝かしい夢を叶えるために、努力を惜しまない。これだけ聞けば美しい小説のようだが、実際はそんなわけにはいかない。
だって、宮間も大塚も、現役の男子中学生なのだから。照れくさいという感情は、時に炎よりも熱くなって周囲を盛り上げ、ナイフよりも鋭く本人をえぐる。
宮間のおかげで最近は日曜日の夜もそれほど憂鬱ではなくなっていたけれど、今週末はいつも以上に、重たい石が1時間ごとに胃に落ちていくみたいだった。ごめん、宮間。私は、君との言葉のない約束を守れなかった。
よほど、美術室に鍵をかけて職員室に引きこもってしまおうかと思った。本来なら部休日なのでそれでもかまわないのだが、でも、それじゃああまりにも情けなさすぎる。放課後の練習のことを級友(しかもかなり厄介な)にばらし、わざと出ないにせよ彼の教室での居心地を悪いものにしてしまった。それなのに美術室を閉めて逃げ帰ってしまうなんて、教師として、いや大人として、むしろ人間として、酷すぎる。
彼は、いつも通りの時間にちゃんと来た。それは私の胃と胸を一層縮めさせた。
「…うす」
「…今日も、頑張ろうね」
「はい」
宮間はもくもくと、新しい課題に取り組んだ。簡単なモチーフのデッサンなのだが、彼の筆(鉛筆)はあまり進まないようだった。Dスケールをのぞき込み、描いては消し、消しては描き。なんてわかりやすく動揺しているのだろう。それでも変わらずここに来て作業をしようという彼の心の強さに、私は今更ながら『ああ彼は水泳部でエースだったよな』と思い出し、一人納得してうなずいていた。
「…先生」
赤べこのように無心で頷いていた私は、はっとして前を向いた。宮間が見ている。
「えっと、どうしたの?なにに躓いてる?」
「あの、花びらって、どうやって描けばいいんですか」
私の想定しうる限り最高の普通な質問に、私は答えた。
「…先生、」
「何?」
そう言ったきり、彼はまた黙ってしまった。さっきまでと違うのは、完全に彼の筆(鉛筆)が止まってしまって、彼の膝の上に握りしめられているということだ。
遂に来たか。たぶん今の私なら、一撃でマグマの底まで沈められるくらいの重量級のが。
先に耐えられなくなったのは、私の方だった。
「あの、本当にごめん。寄りによって大塚にばらしちゃうなんて。私がもっと管理をちゃんとしておくべきだった。嫌なこと言われたり、してない?」
この質問はきっと非常に答えづらいものであったに違いないのに、私は聞いてしまったし、彼は答えてくれた。
「いえ、別に何も。そのことはいいんです」
全く、どっちが大人何だかわかったもんじゃない。私は彼の気遣いに感謝し、同じ人間としてその心の広さに感服した。中学生の頃の私が同じ目に遭ったら、そんなふうに言えない。
「てか、そうじゃなくて、あの、ここの…」
彼の指がゆっくりと、紙面の洋梨をなぞる。
「梨の色って、ぼけてて、どう表現すればいいのかなって…」
彼の指に合わせて、私も指を這わせた。
「それはね、こう、指の腹を使って…」
擦りすぎないように。そう言おうとして、やめた。あまりにも彼の様子がおかしかったからだ。彼は紙面を凝視していて、私の指と自分の指との隙間を念力で焼き尽くそうとしているみたいだった。
「ねえ、やっぱり、何か言われたんじゃないの?」
「……」
「いや、本当に申し訳なかったよ、私の不注意だった。どうぞ非難してくれて構わないよ」
「……」
「ねえ、もしかして」
彼の指が、体の筋肉が、時間が、止まったかのように見えた。
「罰ゲームでも、言われた?」
どうやら図星だったようだ。私を一時でも本当の美術の先生にしてくれたこの少年と、私はとことん相性が良くないらしい。なんで、私が言ってしまったんだろう。気付かないふりしてその何らかの罰ゲームを遂行させて、大掛かりな冗談の仕掛け人として彼に教室内の立場を作ってやること。それこそ、私が彼にできる唯一のことだと、時間が経てばたつほどそうとしか思えなくなっていった。
彼は何も言わずに支度をして、モチーフもをのままに美術室を飛び出した。片付けろと大声で呼び戻すことは、どう転んでも私にはできなかった。
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