9 世界一ささやかな罰ゲーム
それきり3週間。もう秋はかなり濃くなり、太陽の出ていないことをいいことに夜から冬が忍び込もうとしていた。
月曜日の放課後、私はまた一人になった。宮間とは授業で何回かあっているけど、もともと美術が得意な彼は制作中に私に何か聞いてくることはないし、私は私で、人にちょっかいを出したりふざけたり道具で遊んだりしている生徒に振り回されて1時間を浪費していた。つまり私たちは、ありていに言えば、完全にすれ違っていた。
「では、いらないものは机の引き出しの中にしまって。絵の具使う人は新聞紙をしいてね。準備ができた人から、作業を始めてください」
わらわらと子供が動き出す。作品を取りに来る者、新聞紙を貰いに来る者、教室へ忘れ物を取りに行くと申告してくる者。でもその波に紛れて、関係ないのに立ち歩く輩が、どのクラスにも確実に要る。
「…大塚、席に戻りなさい」
「戻る戻る!定規借りにきただけ。この定規長くね?」
そう言いながら一向に席に戻る気配もなく、お調子者たちの中心で大塚は定規を振り回す。
「ほら、危ないから。壊したら弁償だよ」
「いくら?千円?全然いいよ俺の金じゃねーし」
図々しさもここまでくると筋金入りだ。
「うぇーーい!野口うぇーーい!」
そう言いながら、大塚は野口の頭に定規を振るう。野口は両手でその刃を受け止め、大塚に反撃する。
「やめなさいって、ほら、返せ!」
「ちょーっとまーーって、俺まだ使ってなーい!これないと作品つくれないし、いいの先生」
「そうしたら容赦なくあんたの評定1にできるからいいよ。それ返して、何もするな」
「はー?さいってーーーそれでも教師かよーーー!」
宮間ぁ、パス!そういうと、大塚は持っていた定規をすぐ近くの席の宮間に向かって定規を突き出した。
私にとって誤算だったのは、大塚がまさか宮間に定規を渡そうとすることと、大塚への苛立ちのためにあんなに気になっていた宮間がこんなに近くにいることに気付かなかったこと。
大塚にとって誤算だったのは、宮間が集中して作業に取り組んでいたため反応が遅れたことと、予想以上に宮間の席が近すぎたことがある。
勢いをつけた定規の先端直角の部分は、下を向いて作業していた宮間の額にまっすぐ向かっていった。
自分に向けられた騒動に気付いた宮間が顔を上げる瞬間も、大塚の表情が余裕から驚きに、そして少しの焦りから恐怖に変わるまでの瞬間も、今まで傍観を決め込んでいた周囲が一斉にこちらに注目する一人一人の表情さえ、私には止まって見えた。
がっ…
嫌な音がして、宮間のまだ白い画用紙の上に血が飛び散った。教室内に悲鳴が満ちる。大塚は慌てふためいて美術室から逃げ出した。女子たちが私のもとに駆け寄ってくる。先生、先生、大丈夫?
大丈夫よ、と、私は精一杯の大人らしさを演出して答える。子供が怪我するのに比べたら、こんなのなんてことないよ。
宮間の額は強い衝撃を受けたことで、ほんのりと赤くなっていた。私の右手の手のひらには、穴が開いていた。
月曜日の放課後、宮間が美術室にやって来たのがものすごく久しぶりで、なんだか懐かしさすら感じた。
「…やあ」
「…うす」
宮間はこちらを見ない。
「なんだか久しぶりだね。最近どう?私が見てなくても、ちゃんと絵、描いてた?」
「先生」
「…ごめん」
どうやら、またしても私は失言をしてしまったようだ。彼の心は私のせいで、もう傷だらけだろう。本当に申し訳ない。
「あの、退院した日、ていっても1泊だから昨日なんだけどね、看護師さんが『預かりものです』って。とっても上手ですねって、褒めてたよ」
「全然、うまくいかなかった」
「うん、じゃあ、これはやっぱり君に返すべきだな」
私は、折りたたまれた水彩紙を差し出す。宮間は黙って下を向いている。
「これが、うまくいかないと思ったら、もう一度描いてごらん、同じものを。大丈夫、時間ならまだあるし、もっと上手くまるよ」
そのためにも、作品はすべて取っておかなきゃ。観たくなくても、ちゃんと見なきゃ。か彼は今度は素直に受け取った。ざわざわと重たい音を出して、彼は水彩紙を開く。
「…どこが、うまくいかなかったの?」
「…ここ」
彼はやっぱり、梨を指さした。何度も何度も色を重ねてあって、ところどころかすのようなものが浮いて紙が薄くなっている。
「ああ、ここね。梨は色が薄いから、先にデッサンであらかた明暗をつけきってから、全体に同じ色を塗るといいよ。やっぱり指でよく擦ってね」
包帯からはみ出した指先で、私はそっと、紙面の梨を撫でた。宮間の指が、上から重なる。
最初は、これ以上紙が薄くなったら大変だからと止めに入ったのだと思った。でも、彼の手は私の指の上から動かない。私よりあつい体温が、じんわりと右手を温める。
「…あの、宮間?」
宮間は何も言わない。学習しない私は、つい言ってしまう。
「ねえ、まさか罰ゲームって、これ?」
「…はい」
ばつが悪そうに、宮間が笑う。私は久しぶりに、座りながらにして腰が抜けそうになった。
「…なるほど、手に触る、か。まったくどれだけささやかなんだよ、君たちの日常は」
「…ハイ、そうです」
「ばかだねえ、男子って」
宮間は笑った。その笑顔の屈託のなさに、私はなんだか逃げ出したくなる。8歳の年の差。自分が年下だったときは何とも思わなかったのに、この後ろめたさと居心地の悪さは、いったんなんだ。手に触れているだけなのに。
宮間は私と目を合わさないまま
「罰ゲーム、なんで」
といって、両手で私の右手を包んだ。
「先生、ごめんなさい」
「君が悪いことなんて、一つもないよ。バカなのは授業中にふざけて定規をふりまわしてた大塚だし、塚に言うことを聞かせられない駄目教師の私だよ」
「先生は、駄目じゃないっすよ」
「…ありがと」
塩素の匂いがする。彼は部活を引退した後も、週に何回かクラブチームで泳いでいるらしい。勉強と、水泳と、学校生活。そのすべてを同時に回転させるのは、どれほど大変なことだったろう。
鉛筆と歯ブラシで脳内戦争が起こってしまうくらいささやかな彼らの世界で、放課後に絵を習いに自主的に美術室へ来るなど、どれほど勇気の言ったことだろう。
「…先生、俺、前に映画の話をしたじゃないですか」
「ストーリーに絵をつける人になりたいってやつね」
「先生、映画好き?」
「好きだけど、君たちが好きなものはきっと観ないよ」
「じゃあ、何観るんですか」
「…駅前の、ちょっと入り組んだところに、昔の映画を流している映画館があるの、知ってる?」
「…映画館って、イオンの中に入ってるやつじゃなくて?」
「あー…ほんっとに狭いね。そんなとこでやってる映画ばっかり観てたら、トキ美も美大もはいれないよ」
「…そんなん、美大受験と関係あんすか」
「当たり前でしょ。普通の人がしないことして受験するんだから、普通の人が観ないようなものもたくさん観なきゃ」
「じゃあ、今度俺も言ってみますね。ちなみに、次は何を観る予定なんですか」
「…教えない」
最終下校時刻のチャイムが鳴った。
「やべっ」
彼はいとも軽やかに私の手を放して、その手で薄汚れたカバンを掴んだ。
「じゃあ、先生、また明日」
「おう、また明日」
また、明日。その軽やかな約束を、私はあと何回結ぶことができるのだろう。君の足音は軽く、あっという間に遠ざかっていく。
玄関では、先生と生徒の最後の挨拶が交わされる。さよーなら、さよーならあー。
新米教師は下校指導も行かなくちゃならないんだけど、今日はいいか。
とりあえずまた明日、会えるんだし。
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