第3スクリーン 銀河鉄道

1 プライドの流刑地

 ドアが開く。人の川が流れはじめ、意志のない僕の抜け殻みたいな体は自然に、その流れの先まで進んでから、止まった。

 はらはらと散っていく川。僕は小さな河口のようなホームに立ち尽くす。人の少ない売店、せわしなくエスカレーターを登るスーツケース、足元に舞い降りてきたスズメ。

 ああ僕は本当に帰ってきてしまった。


 改札を抜けると、歓迎ムードのゆるキャラのパネルが3つも立ち並んでいた。こんなもの、僕がここを出た頃はこんなものなかったのに。誰にも足を止めてもらえないキャラたちは、ゆるい表情で俺たちを歓迎する。

『ようこそ、常盤へ!!』

キャッチコピーも名物紹介も何もない、ごくシンプルな文字に、僕はなんだか笑ってしまう。

 もし、僕がこの看板を作るなら、なんて書くだろう。


 ぼんやりとした頭のまま、北口に出た。数年前に再開発が始まり、今ではすっかりその面影はなくなったと母は言っていた。確かに面影はないが、何というか…

「えらい、殺風景になっちまったなあ」

 隣を歩き去ったおじさんが、連れの子どもに話しかけた。

 4月の頭にしては暑すぎるくらいいい天気。燦々と太陽の降り注ぐ北口には、かつてのコンビニもむき出しの駐輪場もコインパーキングもきれいさっぱり片付いて、だだっぴろい広場がただぽっかりと広がっていた。

 平日の昼間に道を歩く人も少なく、時折学生風の若者がふらふらと歩いては駅の中に消えていった。ますます、この町は小さくなった。


 級友たちのようにただ都会の独り暮らしに憧れたり田舎コンプレックスを拗らせた衝動で飛びだしたりしたわけではない。僕がこの町を飛び出そうと思ったのは、自分の夢を叶えるためだった。親を説得し、教師を説得し、また自分自身の不安を説得し、東京の街へ旅立ったのだ。あの日の夜のことは、今でも鮮明に思い出せる。家族とのゆるい時間、ぐだぐだとテレビを見たり飯を食ったり時々しゃべったり。そんな時間を捨てることへの寂しさはもちろんあった。でも、夢を叶えるためには今までの日常のすべてを捨てて学ばなければならない。

次に帰ってくるときは、映像作家としてひとかどの人物になっているときだと、そう信じていた。



 地元に帰るとツイートした晩、すぐに秀平からラインがきた。

『たっくん地元帰ってくんの?遊ぼう!』

 まだ高校生の秀平は、母方の遠い親戚だが、血のつながりの薄さの割に俺によく似ている。物を作るのが大好きな秀平は、僕の母校でもある市内の美術を学ぶ高校に通っている。受験の時はよく電話で相談にのったものだが、あいつももう、この春で2年生だ。

『うん、本当はまだ帰るつもりはなかったんだけど、流石に生活が厳しくて、制作の時間が取れなくなってきてね。これじゃ本末転倒だから、実家で暮らしながら金を貯めるんだ。作るのは、どこでもできるからね』


 18歳の春、初めて住む東京に恐れおののいた。何もかもが大きく、早く、せわしなかった。山に囲まれた田舎でのんびり電車通学していた僕には、新宿駅は本気で涙が出るほどわけがわからなかった。

 映像を作る専門学校に通って、あらゆるものに触れて、吸収して、まるで怪獣のように大きくなってやろう。そう思っていた僕はまだ18歳で、春で、この駅から旅立ったのだ。

 今、また春。僕は何者になることもなく、チャンスに恵まれないまま今年26になる。

 でも、決して諦めてなるものか。自意識の沼に沈み込みそうになる胸を無理やり張って、僕は歩き出す。

 いつかここを僕の作品のロケ地の一つにしてやろうと思っていた愛すべきボロアパートを出るとき、ここ数年間貯め込んだ楽観と引っ越し代を一気に払って、僕の口座は空っぽになった。ああ僕には何にもないのだと、その時痛いほど噛みしめた。でもその悔しさや虚しさだって、いつか映像に仕立て直してやろうと思う。最後の晩、何もないベランダに出て箱に残っていた最後の煙草を吸いながら、僕は自分に言い聞かせる。

 諦めてここに逃げ込んできたわけじゃない。僕は、もう一度体勢を立て直すために地元に戻って来たのだ。実家で節約しながら生活しつつ、作品を撮り続ける。今のこの時代、ネット環境さえあればどこでだって発表はできる。専門家に認められなくたって、大勢の素人が称えてくれれば商品価値が出る。そう、別に道が閉ざされたわけじゃない。

 線路も道路も、東京まで繋がっている。僕の過去や未来だって、きっと繋がっている。僕がぶった切らない限り、まだ絶対に繋がっているはずなんだ。


 今また、僕のスマホには秀平からのラインが届いていた。うちへ帰る時間を教えてくれれば、母さんが迎えに来てくれるという。『今日午後7時半につく電車で行くよ』と送った。了解!と、可愛らしいキャラクターが踊りながら秀平の意志を伝えてくれた。

 僕は秀平が死ぬほど羨ましくなっていて、本当に死にたくなってくる前に、時間の猶予を確保することにした。未来に対して光を抱いているあいつに、これ以上触れ合っていると心が潰れるかもしれない。だからこれは正当防衛だ。これくらいの繊細さがなければ、映像作家の末席に尻をねじ込むなんてことはできない。

 7時半まで家に帰れない僕は、仕方なく駅周りをうろうろすることにした。まだ、あるだろうか。足は自然と、高校時代によく通った懐かしい道を選びだす。高架下を通り、さびれた商店街の本屋の路地を抜け、帽子屋の前を通って、カフェの真正面。よかった、まだあった。高校生の頃によく通っていた、小さくて古い映画館。

 今度、秀平にも教えてやろう。流行りの映画ばっかり見てたら駄目だぞって、言ってやろう。

 

 何かやっていないだろうか。ポスターを見ようと映画館に近づくと、耳元で急に声がした。

「こんにちは!よろしくおねがいしまーす!」

 びっくりして振返ると、薄紫のTシャツを着た見知らぬ女性が一人、自分に向かって何か差し出していた。

「良かったら、ぜひ。明日夜7時45分、初日です!」

 それは、一枚のチケットだった。場所はこの映画館第1シアタールーム、演目は『銀河鉄道の、線路』とあった。この『、』の意味について女に尋ねようかと思ったが、観ると彼女はあっという間に他のターゲットにすり寄り、ビビらせ、その隙をついてチケットを押し付けていた。手慣れておる、そう思った。

 この映画館では、演劇までやるようになったのか。自分が高校生の頃、この小さくて古い映画館には随分と世話になった。古くて良質な映画をスクリーンで見られるとあって、僕はほとんど毎週通っていた。一回800円という破格のチケット代も、制服を着た僕が毎週通っているのを見て、カウンターにいた当時の店長は

『映像の専門学校目指すのか。だったらもっと映画を見なくちゃだめだ。500円にしてやるから、暇なときは何回でも来い』

と言って、本当に自分が何回来ても1本500円で映画を見せてくれた。

 観客が僕一人の時もあった。それでも、僕一人のために500円もらって映画を流してくれた。あの親父は、文化にかかわろうとする若者が、きっととても好きなのだろう。


 チケットをポケットに入れて、僕は映画館に入った。受付では眠そうな若者が、「…ども。第3スクリーンです」

と言った。そうか、ここももう、シアタールームのことをスクリーンと呼ぶのか。自宅の地下に作った秘密基地みたいで、シアタールームという響きが気に入っていた僕は、少しだけがっかりした。

 中に入って周りを見渡して、僕は大きく息を吸い込み、しばらく止めてからゆっくりと吐き出した。ああ、ここは変わっていない。変わった駅前も、駅ナカも、戻ってきた僕をひたすら焦らせる存在ではあった。でも、ここは。

 古びたポスター。マイナーなミニシアター。埃と建物の匂い。手売りのチケットカウンター。

 ああ、ここは、変わっていない。さて、このシアタールームでやるのはどんな映画なのだろうか。帰ったら、秀平に明日の夜やる演劇の話をしてやろうか。一緒に、連れてきてやってもいい。


 次の日の夜、結局僕は一人でまたあの映画館の前に立っていた。ここまで足を動かすことは、至難の業であった。

 素人の演劇を見るためにわざわざ外出なんてしたくないという僕の本心と、東京のように見ようと思えばどの地下劇場でも演劇が見られる環境にはいないのだからいけるときに行っておけとのたまう高い意識の狭間でしばらく揺れて、結局本心の意見に従うことにした。

 しかしその決断を下した直後、秀平からの『うわーやべえ、超行きたい!でも今日クラブチームの日だから、学校終わったら直でプールに泳ぎに行かなくちゃならん。あとでたっくんの感想を聞かせてください』というラインを貰ってしまった。昨日、東京帰りの変なプライドと高揚感を発揮してこの演劇のことを秀平に教えたのを、僕は後悔した。

 メッセージに気づかないふりをしてしまおうかと思ったが、こんな日に限って何でもない公式アカウントのメッセージを開いて、つられて秀平からのメッセージも読んでしまった。既読が付いてしまった以上、仕方ない。

『了解。感想ならいくらでも聞かせてやるから、お前は水泳頑張れ。体力ちからのない奴には力のある絵なんて描けないぞ』

 こうして、座布団に沈み込みそうな程思い腰を上げて、僕はあの映画館に向かったのだ。


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