第2スクリーン 君は進むことができる
1 生成り色のキャミソール
誰よりも先に、私を思い出せばいいと思った。
初めて付き合った女より、結婚前に最後に付き合った女より、二股かけられて捨てられて恨んだ女より、童貞捨てた女より、誰よりも先に、今まさに別れようとしている私のこと、思い出して苦しくなればいいと思った。
「ねえ、最近どうよ」
「どうよって、何がよ」
友達と二人、巨大なパンケーキを突きながら語り合う。そんな隣の席の学生らしき女子たちを横目に、詠美はコーヒーを、私は紅茶をすすった。
「なんか、何でもいいよ。面白い話。最近なんか面白いことない?」
「学校のこととか」
「私、そういう『うちのチビたちが傑作でさあ、この前もねぇ、』みたいな親の自虐慢話とか苦手なんだけど」
詠美は、基本的にわがままだ。その分発言も面白い。自虐慢話とな。
「いや、自分ちの子みたいな言い方しないでよ。うちの生徒がバカみたいな話をしてたからさ」
「どんな?」
「何か、『人生で一番恥ずかしかったこと』の話」
はっ、と詠美は顔を背けて笑う。
「たかだか14、5歳の子どもが感じた恥なんて、吹けば飛ぶようなもんじゃないの」
「教室に落ちてた鉛筆を拾って、大声で『この歯ブラシ誰の~?』って聞いちゃったことだって」
詠美は持っていたコーヒーカップをテーブルに置くと、瞼を閉じて深く息をついた。
「いや、それ些細すぎて逆にいいわ。むしろ微笑ましいわ」
「あいつら、生まれてからまだ14年しか経ってないんだもんね。経験の分母が少ない分、一つ一つの出来事が重たいんだ」
詠美と私は、感嘆とも脱力ともつかないため息を発する。
私たちだってまだ23年間しか生きてきていないのに、この日々の軽さはなんなんだ。
「ねえ、彼とはどうなってんのよ」
詠美はまた唐突に話題を変えた。彼女は、今日はあまり自分のことを話したくない日らしい。
「どうもこうも、相変わらずだよ」
「でも、彼ってあんたより4つか5つ年上なんじゃなかったっけ。もう、待ってんじゃないの?」
「待ってるって、何を?」
「あんたが、覚悟を決めるのを」
詠美は、随分と気の早い話をしてる気がする。
「あの、私、今年あんたと一緒に大学を卒業したばっかりなんだけど。卒業式で写真撮ったの、覚えてるよね?」
「だから、そういうことじゃないって!」
詠美は、その鷺のようにすらりとした美しい背中をかがめて、私の顔を覗き込んできた。
「そんな決定的なことを言ってるんじゃないの。何か、将来の話とか、今後どうする、みたいな話よ。あんただって一生今の仕事する気なんかないんでしょう?」
綺麗だなあ、と私は他人ごとのように思う。いや、実際他人ごとなのだが、目の前の美しい顔を今この瞬間は自分一人で占有してしまえているなんて、なんだか信じられない。詠美は、美人だ。
「うん、まあねえ。でも、今の仕事もそれなりに面白いよ。職場の人はみんないい人だし」
「そりゃ、職場の大人は、でしょ。全く、あんたみたいな子ども嫌いの学校嫌いが、まさか非常勤とはいえ先生やってるとはね」
詠美は頬杖をついて、顎を突き出すようにしてため息をついた。
「期間採用職員です」
「どっちでもいいよ、教員採用試験は落っこちたくせに生徒の前で教鞭とってるんでしょ。変わんないじゃない」
詠美は、まるで学生時代からそうしていたかのように、ミニスカートから覗く細い脚を華麗に組み直した。
「詠美、なんか変わったよね。二人でヒッピーみたいな格好してた時代からは想像もつかないや」
私はため息交じりに呟く。学生時代から詠美は細く美しかったが、残念なことに背があまり高くはなかった。大人っぽいファッションは似合わなかったが、かといって高校生が着るような甘ったるい服を選ぶ気にもなれず、したがって選ぶ服は民族衣装のようなものや変わった形のものが多くなった。その結果、大学の学科が一緒で趣味の合う私と二人でアジア雑貨屋をめぐったり古着屋を冷やかしたりすること多くなり、二人の距離は自然に縮まっていった。
「ねえ、私の話はいいの。あんたの話聞かせてよ。彼と、将来の話、してるんでしょ?」
「んー、将来の話ってほどでもないけど、『ずっと一緒にいようね」とか『俺、お前と別れたら駄目になりそう』、とか、言ってるな」
「うわ、もう、言うタイミングによってはプロポーズじゃんか。あんたそれ、なんて返してんの」
「『そうねー』とか『そんなことないと思うよー』とか?」
「うわあ、愛がない。愛がないよ香枝!」
詠美は大げさに顔を歪めた。せっかくの美人が台無しだよ、と口を開きかけるが、歪んだ様もまた美しくてちっとも台無しになんてなっていないから、言うのを止めた。
自分の感情表現の為に、こうして堂々と顔を歪める彼女は、匂い立つような生の気配に包まれている。それは、いつもにこにこしているだけの女より、ずっと美しい。
「あんた、今のまんまはぐらかし続けてたら、いつか後悔するんじゃないの?」
別れ際に、詠美が鋭い声を投げてきた。それは私の心に刺さったような気もするが、いかんせん私の心は水のように変幻自在で、矢が一本刺さったとしてもすぐに飲み込んでしまう。ちゃぷん、と私は答える。
「うーん、そろそろ考えるよ。詠美の言うとおり、いつまでも続けられる仕事じゃないしね。」
「そうだよ。仕事も恋ももたもたしてたら逃げてっちゃうよ!まだまだ、いろいろ不景気なんだから!」
詠美はそう言って、颯爽とスカートを翻して歩き去った。
結局、私のことばかりで詠美の近況をあまり聞けなかったな。恋人とはどうなのだろう。仕事は順調なのだろうか。きっと詠美のことだから、職場の女慣れしてない高給取りな技術屋さんなんかをとっ捕まえて、事務職なんてさっさとやめて結婚するんだろうな。
そのまま当てもなくファッションビルの中をふらふらして、セール品の棚の中から一枚キャミソールを買って帰った。一枚500円の布きれは、いかにも使い勝手のよさそうな色と形をして、でも一枚では着ることのできなさそうな、所詮は「インナー」の枠を出られない、そんなものだった。安っぽいロゴ入りビニール袋に入れられたそれに向かって、私は話しかける。
「あんた、誰にでも愛されようとするから、セール品になんてなっちゃうのよ」
陳腐なセリフに、我ながら苦笑する。スマホを見ると、さっき別れたばかりの詠美からメッセージが来ていた。
「あんたまさか、まだ元彼を引きずってんじゃないでしょうね」
それにしても、大学を出たばかりの23歳が、「仕事も結婚ももたもたするな」とは、なかなかに生き急いでいる。きっと、私のことを心配してくれた友人の本心なのだろうが。私は詠美に返信する。
「死に、照準を当てよ」
焦ることはない。
来る未来のその先は死。ならば、死以外は何も怖くない。
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