4 戦いの歌が聞こえた気がした

 あのミュージカル映画の最終上映日、もう3回目だけど私たちは見に行った。私は彼の手を握った。彼も、握り返した。何度見ても私は同じ場面で涙する。戦いのために、正しさのために、命を犠牲にしてでも胸を張る青年たちと、愛する男のために陰になり、その男の恋を叶えるための手助けをし、最後には命を張って彼を守る少女。どれだけ報われなくたって、正しくなくたって、命を懸けられる正しいもの。私は、部活を辞めても友達がいなくなっても、怖くない。唯一の正しさが、私の手を握っている。

「…終わったね」

 そう言う彼は、泣いていなかった。彼がこの映画で泣かなかったのを見たのは、初めてだった。

「…うん。あなたは、泣かなかったね」

 鼻をすすりながら私は外へ出ようと彼の手を引いた。その手は、するりと抜け落ちて、私だけが立ち上がってしまった。

「…どうしたの?」

「どうもしないよ。映画の上映は終わったんだ。」

 何を言っているのか、1回ではわからなかった。でも、聞き返して2回目を聞くことはできない。そんなこと、できない。

「もう、終わっちゃったんだ?」

 私はやっとそれだけ聞いた。油断していた。あのお金がなくなるまで、まだ何回も映画が観られると思っていた。暇な私は何度も彼にメールして、一緒に映画を観た。最後の映画が終わるまでに次の一手を決めないと、と思っていたのに、私の日常はあまりにも忙しくて、この空間と彼の隣はあまりにも居心地が良くて、すっかり考えることを放棄してしまった。彼が隣にいるのが、当たり前だと思ってしまった。主人公が思考を辞めた映画なんて、そんなの退屈極まりない、まるでただの日常のワンシーンだ。

 でも彼が終わったというのなら、私もそれに合わせないと。だって、私たちはこの星で唯一の共犯者なのだから。

 だから、嫌と言ってはいけない。自分に酔わなければならない。この小さな映画館でつかの間の逢瀬を楽しんだ幻として、特別な存在のまま終わらなければならない。私は、彼のけんか別れした恋人みたいに『特別な日常』になるわけにはいかない。

 映画館を出たあと、彼は歩き出した。いつも、歩き出すのは私が先だった。だから、私は彼の帰り道が映画館を出て左の方なのだということを、初めて知った。

 

 学校へ行くと、視線はますます冷たくなっていた。もうクラスで私の名前を呼ぶ人はいない。プライドにかけて由香里は私につらく当たったりしないけど、他の女バスのメンバーはそれを許さなかった。健気な彼女の周りを騎士みたいに囲って、正義感たっぷりの眼差しで私を射抜く。

 鳴らないケータイ。結局彼は、別れ際にクリーニング代をくれた。もうあの服はとっくにクリーニングが済んで私のクローゼットの中で待機しているのだけれど、私は袖を通す気にはなれなかった。

 もうバックに音楽はならない。私も歌を口ずさんだりしない。思考を止めて、友人との関係を修復しようとすらしない一人ぼっちの主人公なんて、どんな物語にもなりはしない。きっとここがエピローグ。この物語は悲劇なんだ。私の強気も彼のほほ笑みも特別探しも最初からすべてがミスリード。この顛末のために用意された、日常の中にしては上出来のエンド。

 クローゼットの中にはあの服。結局コーヒーのシミは落ちなかった。別に構わない。服なんてどうでもいい。

 服なんてどうでもいい。クラスでの人間関係もどうでもいい。でも由香里、どうして私の名前を呼ばなかったの。


 あなたは、私の名前を知りたいと、そう思わなかったの。私の胸はあなたへの質問で破裂しそうだったと言うのに。年は幾つなの、どこに住んでるの、家族は、友達は、好きな食べ物は、好きな映画は何?



 会えたら何を言うかなんて決まっていた。

「えっと…君は…」

 バスケ部上がりの足で猛然と走って来た私を前に、彼は面食らっていた。そりゃそうだ、数週間前に別れたはず、というか付き合ってすらいない女の子が、制服姿で飛び込んできたのだから。私が制服を着てこの映画館に入るのは、全く初めてのことだった。


『迷惑をかけてごめん。もう連絡しないでって言われたのに、未練がましくて情けないんだけど、最後にこれだけ言わせてください』


 だめだ。このまま素敵な物語になんてさせちゃだめだ。私は映画館に通った。彼にもらったクリーニング代があったから、頻繁に通えた。


『俺は、あなたの迷いなくゴールを見つめる眼差しが好きです。』


 だめだ、だめだ、だめだ。きれいな思い出になんてさせない。美しい映画の終わりみたいに、幕引きと同時に終了だなんて、そんなことさせない。ハッピーエンドもこない。だって私の命は、正しくても正しくなくても、これからもずっと続くのだ。


『迷いなくボールに伸びる手も、まっすぐにコートを駆け抜ける自由な足も、好きです』


 あなたに会えたら、何を言うかなんて決まっていた。言えなかったことを、私が必要以上にかっこつけて、あなたの特別な特別になりたくて、ずっとずっと知ることも知らせることも恐れていた、たくさんのこと。


『クールに見えて、実は誰より周りのことを考えていることもです。そのせいで自分の気持ちをなかなか言えないでいるのも、気づいています。俺はそこに付け込んで、自分の気持ちを押し付けました。ごめんなさい』


 私のためにこんなにも勇気を出してくれた人がいる。気持ちを押し付けるなんて言ってるけど、気持ちを口に出す勇気すらなかった私の背中を、君の勇気がしっかりと押してくれたよ。


『俺は、あなたが好きです。本気で好きです。いっぱい迷惑かけて、気持ちを押し付けて、由香里に怒られました。‘どうやらあなたは随分と都合のいいように状況を解釈しているみたいだけど、本当に好きなら、ごり推すんじゃなくてアッキーの意志を尊重してあげて’と。その通りでした。』



「常盤第一高等学校2年、秋山香月」



『あなたが何か新しいことを見つけたのなら、陰ながら応援してます。でも俺は今でもあなたが好きなので、たまには思いだしてくれると嬉しいです。読んでくれてありがとう』



「元バスケ部で、ここから自転車で20分くらいのマンションに、お父さんとお母さんと弟と金魚のベニと住んでる。文系で、とりあえず進学希望で、将来は地元で就職したい。好きな食べ物はパンと桃。嫌いなものはレバーとコーヒー。でも、あなたを待っている間なら、いくらでも飲めた」

 映画館のシアタールームじゃ、映画が始まったら外の様子がわからない。でも、何時間もロビーにい続けるのは変だ。ただでさえ少ない私のような若い女がずっときょろきょろと挙動不審になりながらロビーをうろつくなんて、そんなのばれたらきっとあなたは逃げてしまう。


「向かいのカフェで、一番安いコーヒーを飲んで、ずっとあなたが来るの待ってた。本当はココアやカフェオレが好きだけど、安くてお代わり1杯無料で、ずっといるには普通のコーヒーが一番だって思って。お砂糖とミルクで、あなたに会うまでに太ったら嫌だし」

 私はおなかを少し抑えた。良かった、大丈夫。太る前に、あなたに会えた。

「あなたを待っている間なら、いくらでもコーヒーなんて飲めるよ。あなたと一緒なら、同じ映画を、何回見ても泣けちゃうよ。あなたを、初めてあのカフェであなたを見た日から、ずっとずっと、だいすきよ」

 全部全部、全部教えてあげる。だって、やっと会えたんだから。


 彼は何も言わず、私に背を向けた。彼の声がもう少し小さくて、完全に私に聞き取れない音量のものだったなら、きっと膝から崩れ落ちていただろう。

「すみません、これと同じチケット、もう1枚。席は続きで。」

 私は、もう一度招かれた。彼は私の手を取った。


「じゃあ聞くけど、君はどうなんだ。僕は君を信じていいのか」

 彼は泣きそうだった。目は乾いていても、声が湿っていた。あろうことか、これはモノクロのサイレント映画だった。字幕の文字が涙でぶれて酔いそうになる。

「君たちは、すぐに心を変えるだろう。君が今、どんな風に僕のことを考えていたとしても、思っていたと、しても。それは君たちにとって真実だ。だって、本当にそう思っているのだから」

 彼は問い続ける。誰もいない映画館に、彼の湿った声だけが響く。

「僕はいいのか。君を信じても。この年になって、君みたいな少女と出会って。僕は君が思っているような大人じゃない。大人は、君が思っているようないきものじゃない。大人だって傷つくし、情けなくて泣く日もある。日々生まれ変わっていくように新しい姿の君を見て、僕が何とも思わないとでも?ある日いきなり、僕のこともこの映画館のことも忘れて、ふと飛び去ってしまったって、君は許されてしまうんだ」

 彼は、少し震えていた。私より十も二十も年上そうなこの人のことさえ、震わせることができるんだ。恋の力とは。かくも偉大なものなんだ。

「僕は、秋山さん、君を好きになるのが、本当は怖い」

 私たちのほかに誰もいない、小さな小さなシアタールーム。暗くて無音。スクリーンの上で、女優と男優が手を取り合う。ミュージカルとは真逆の、静かな喧騒。


「私の映画。私が生きていく限り続く、私が主人公の映画。どうでもいい日常もつまんない心理描写もあるけれど、時々本当にドラマチックなことも起こるの」

 私は彼の手を握る。

「今、とてもすきだよ。これ以上、生きているのを証明できないくらい、私、あなたが好きだよ」

「…名前も、知らないのに?」

「知っても好きだよ。全部知っても、全部好きだよ」

「…はは、その言葉の迷いのなさが、いっそすがすがしいよ」

 スクリーンの中で、男女が大勢の目の前で絡み合ってキスをする。私たちは、誰にも見られることのないまま、肘置きの下でこっそりと手を繋ぐ。


 きっと、この震えと熱だけは、私たちの命の証。

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