3 人の話を聞かない
まだ半分以上も残っているお弁当箱を、私は閉まった。それを見ている人は誰もいない。もう女の子たちの『心配』という名のダイエット防止合戦に参加しなくていいのだ。お弁当を残そうとも、誰にも何も言われないのだ。少なくとも、面と向かっては。
「ねえ、ちょっと、いい?」
1時間目の授業が終わったあと話しかけてきたのが由香里でなかったら、私の胃も少しは食欲を覚えていたかもしれないのに。
「次の授業、サボろうよ」
真面目で努力家の彼女に授業をさぼらせてしまうほど、教室内の雰囲気は悪化してしまっていた。
「…久しぶりだね。部活じゃないと、全然話す機会がないね」
「…そうだね」
答えながら、私は必死で頭の中のNGワードを整理する。まず彼のこと。彼女の元カレのことは、私からは決して聞いてはならない。それから、映画館のこと。他の男の話を今彼女にするべきではないし、あの映画館を知られたくないという気持ちもある。それから、謝罪。彼女のプライドを、私は守らなければならない。
「最近、どう?部活来ないから…何してるの?」
1階の非常階段の下、という、いかにも映画に出てきそうな(学園祭の準備中、人気アイドル演じる主人公がイケメンにこっそりキスされちゃうような)ロケーションの地に、私と由香里は座り込んだ。
「どうって、何もしてないよ。カフェで暇潰したりして、適当に帰ってるよ」
「そうなんだ…バイトとかは?」
「…してない」
「そっか…じゃあさ、戻ってきなよバスケ部。みんな待ってるよ」
「そんなこと」
あるわけないじゃん。そうは言えない。
「私も、またみんなでバスケしたいし。来年の大会では、一勝はしたいよねえ」
「…私、もう辞めちゃったんだよ、部活。退部届も出したし。もう戻らないよ」
「みんな、心配してるよ。彼のことならもう大丈夫。私、彼が誰の応援しててももう全然気にならないから」
「そういうことじゃなくて、私はもうバスケ部には戻りたくないの。ただでさえ人数少ないところに追い打ちをかけるようで悪いけど、私はもうバスケはしない」
「…ほかに、何か見つけたの?」
「まあ、見つけたと言えば、見つけたかな」
「彼と、会ってるの?」
私はぎょっとした。さっきの由香里の発言もそうだけど、もしかして、私と彼女の元カレは、実際の関係よりだいぶ親密なものとして広まっているんじゃないのか?
「いや、会ってないよ。会う理由もないし」
「なんで?私だったら気にしなくていいよ。もう吹っ切れてるから。私よりも彼の気持ちを考えてあげて。彼は誠実だよ。私にちゃんと別れることを言ってから、あなたに告白したんでしょ。その気持ちを汲んであげてよ。彼は本気であなたが好きなんだから、周りのみんなが言うように、私との三角関係なんてないから。あなたと彼が付き合って、あなたがバスケ部に戻ってきて、来年の引退の時にはみんなで揃って…」
「もう、いいよ」
私がそう言っても、彼女の口は止まらなかった。
「もういいって何よ。私のことなら気にしないでって、私が言ってるんだよ?私の言葉が信用できない?無理してるって思ってる?本当は彼のことがまだ好きであなたに嫉妬してるけど、それを隠すためにわざわざこんなところまで呼び出してあなたを説得してるって?バカじゃん、そんなわけないじゃん。私はあなたにね、私のせいでいつまでも部活に来ないなんて、そんなふうにされるのが困るの。もういいのに、気にしてないのに。彼のことだってそうだよ。私、彼とは友達になったの。もう手を繋いだりキスしたりはしないけど、電話したりラインしたりは普通にするよ、近況報告だって相談事だってするよ。ねえ、彼の何が気に入らないの。あの人、本気であなたのこと」
「由香里、なんで私のこと、あなたって呼ぶの」
彼女は止まった。さっきまでダムの放水のようにしゃべっていた口は、半開き状態のまま静止した。
授業終了のチャイムが鳴る。もうすぐこの辺りにも人が来る。彼女は静止状態の顔のまま、黙って立ち去った。教室に戻ったら、私たちは口をきかない。あの教室内には悪意ある視線と、その倍ほどもいる悪意のない好奇の視線に満ち満ちている。うっかりさっきのような言い争いになったら、たまったものじゃない。
非常階段の下、日常から隠れるように、私が一人。遠くの廊下で誰かと誰かが笑い合う声が、微かに聞こえてくる。
その夜、私はあの人にメールした。
『明日、行こうよ』
返事は1時間後だった。
『いいよ。じゃあまたいつもの時間にね』
私はスマホを閉じて、彼のガラケーとそれを握る彼の手を想った。また、いつもの時間に。心がじんわりと温かくなる。がさがさとささくれ立つ私の中身を、ゆっくり溶かして滑らかにしてくれているみたいだ。
今、あの大きな手に触れられるのは、私。そう思うと、昼間の喧騒など忘れて、青い水に沈み込んでいくみたいに眠ることができた。
眠ったばかりだったのに、ラインの軽快な音が私を起こした。夜の11時、あの少年からだった。
『今日のこと、由香里に聞いたよ。大丈夫?』
目を見開いた。由香里に、聞いた?何を?どこまで?
『別に、大丈夫だけど。何を聞いたの?』
『バスケ部に戻る気がないってこととか、他に何かを見つけた、とか。バスケ部辞めたのって俺のせいだよね。ごめん。新しく見つけたことって何?由香里は俺と付き合うことだと思ったみたいだけど、そうなら嬉しい』
能天気な馬鹿さ加減にくらくらしてきた。もう気にしていないと言いながら少年と連絡を取り、あまつさえこんな勘違いを植えこんでくる由香里にも、こんな勘違いをめでたく受け入れるこの少年にも。
『そうじゃない。新しく見つけたことは、君にも由香里にもバスケにも関係がない。君と私がどうこうなることは決してない』
『どうしても会ってくれないかな。由香里は大丈夫だって言ってるし、もしクラスとか部員の目が気になるっていうなら、俺が絶対に守るから』
『部員もクラスも由香里も関係ないよ。私があなたに恋をしていないだけだよ。そしてそれはこれからも変わらないよ。これで満足?もう連絡してこないで』
あなたに私を守る権利も、ましてや謝る権利も、ありはしない。ラインでの告白、白い吹き出しに縁どられた、薄っぺらい『君を守る』。
連絡してこないでと言ったら、本当に連絡が来なくなった。何て素直な現代っ子。何て便利なSNS。
やっぱだめだ。こんなんじゃ。これは私の目指す人生じゃない。私の見つけた、映画のワンシーンを繋ぐような日々の中に、ラインでの告白はやっぱりふさわしくない。メールくらいが丁度いいんじゃないかな。件名の前の『Re:Re:Re…』ていうのが増えるの、なんとなく嬉しいし、心ときめくものがある。
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