2 正しくないけど幸せ
そういえば、一回だけしたあのデートの時も、こんな感じのカフェに入った。窓の近くの席に通されて、外を眺めながら、二人でコーヒーを飲んだ。彼の目は終始まっすぐで、上下左右の死角が多そうだった。
そのとき私が考えていたのは、どうかこの場に由香里が来ませんように、他の女バスのメンバーやクラスメイトが来ませんようにという祈りだった。彼のまっすぐな眼差しを受け止めないように、また彼の分まで周囲に警戒を怠らないように、私は視線を素早く動かす。だから、そのとき一体どんな話をしたのか、私はさっぱり思い出せない。
そんなわけで、たとえ今の張り込みは空振りに終わったとしても、こんなにそわそわしてしまう時間を、私はすごく有意義だと思ってしまう。「誰かが来ませんように」と思うより、「誰かが来ないかな」という期待を抱いて過ごす時間は、不思議な色どりに満たされているような気がした。
カフェを出て、遠巻きに映画館を見上げる。古いんだけど、ただ古いだけじゃない。今まで上映してきた映画の分だけ、様々な物語を抱えてそれでも変わらずに立っている。思わず、私はあの映画の歌を口ずさむ。
この壁は、あの無声映画のワンシーンめいて魅力的だった男女のいさかいのような物語を、何度見つめてきたことだろう。
『もう一度、会えない?どうしてもあなたと話がしたいです。自分のわがままばかり言って申し訳ないです。自分に何かできることであれば、言ってください』
スマホを閉じる。このメールの主に、できること。そんなものはない。積み木のように積み上げてきたものは、壊れてもまた積み上げればいいと、君のためならどんなに大きな積み木も積み上げてみせると、そう言っている彼には、できることなんて何もない。
この日常を壊すことができるのは、彼じゃないことは明確だった。
もっともっと、特別なこと。心の奥がガーッと疼いて、何を犠牲にしてでも手に入れたいもの。
学校の女子の間では、もう噂は広まり始めている。由香里の恋人が私に心変わりしたこと。この彼はとてもまっすぐな目をしていること。由香里は今も、バスケ部キャプテンとして弱小のあの部を引っ張っていること。
部活にもクラスにも着々と居場所を失いつつある私には、もう今まで目指していた普通に充実した高校生活をおくるという道は残されていないように感じた。
部活だの恋愛だの応援だの三角関係だの、そんな陳腐で無粋な言葉の届かないところに、私の日常を置くこと。心の燃える何かを探して、まるで映画のワンシーンを繋いだような日々を送ること。それが、今の私の生きる目標だ。
2回も同じ映画を見ているというのに、彼はまた涙ぐんでいた。彼はこの前と同じあの端っこの席で、私はまた前の方の席。ああ、なんて美しいのだろう。私も涙を拭いた。
もう彼しかいらない。あんな自分のまっすぐさの正義を信じ切っている自信過剰な男より、映画の登場人物のようなこの男が良い。この、男が良い。
でもさすがに、同じ空間で映画を観るだけじゃそろそろ間が持たない。主人公である私の心理描写ももう飽きられてしまうだろう。
その日、私は勝負に出た。こういうさび付きそうな展開を打破するのは、大体陳腐な出来事のはずだ。陳腐な出来事と女の子のほんのちょっとの勇気は、いつだって物語を進めるのに不可欠な要素なのだ。
3回目の映画館、彼はドリンクコーナーに並び、いつものコーヒーを買う。私もその後に付く。特別喉が渇いていたわけでもないのだが、その日はちょっと勇敢な気分だった。
大きめの紙コップを冷たいコーヒーが満たす。その微かな匂いが私の鼻にまで届く。私は自分の注文をするために、彼の左側に立った。彼の肩越しにメニューをのぞき込む。コーヒーを湛えたカップが、氷の音も涼やかに彼の前に運ばれる。彼は左手を伸ばして受け取り、また左手を引っ込めてシアタールームに向かう。そう、彼は左利きなのだ。
ばしゃっ、彼の持つカップはちょうど私の右肩をかすめて落下した。茶色の液体は強い芳香を放ちながら、私の服の肩部分と靴にしみ込んだ。私のちょっとした勇気は、とんでもなく陳腐なハプニングとしてこれ以上ないほど上々の実を結んだ。ああ皆さんお待たせいたしました、やっと二人は出会います。
彼は、こっちが申し訳なくなるほど何度も頭を下げて、謝ってくれた。そのおかげで、私は彼の癖のある髪が頭頂部の根元から続く天然の癖っ毛であることを知った。触りたい。私の胸の高さまで下がって来た彼の髪に思わず手が触れた。触れてから、私は言い訳を考えた。だめだ、思いつかない。
「クリーニング代なんていらないから、私と友達になって。一緒に映画を見てください」
クリーニング代として、今着ている服をすべて新しく買えるくらいのお金を私にくれようとした彼は、私の申し出にきょとんとした。よかった、女子高生が30代の男の人の髪をいきなり触るという言い訳不可能で奇怪な行動を、上書きできたようだ。
私たちの攻防戦は続いた。どうしてもお金を渡したい彼と、お金をもらってこれきりの関係にしてしまいたくない私。でも、主導権は被害者であり仕掛け人の私が握っていた。
「私、映画が好きなの。でも友達はこんな映画館でやるやつより、イオンの中の映画館でやる、漫画が原作で人気アイドルが主演の映画を見たがるんです。だから、その、私、一緒に観てくれる人がいたらいいなって、いつもいつも思ってて。だから、アドレス教えて。それで私とこれから、この服のクリーニング代の分だけ一緒に映画を観て」
私はお札を何枚も握る彼の手を、お札ごと両手で握った。胸が高鳴る。そう、これだ。これこそが私の求めていたもの。デートの前の口喧嘩とか、友達の彼氏とか、部活のメンバーだとか、学校だとかカフェだとか、そういう陳腐で名前のあるものじゃない。
このお札の分だけ、800円の映画を二人で観る。名前も知らない私たちの逢瀬。陳腐じゃなくて普通じゃなくて、まるで映画のワンシーンのような美しいカット。今、スクリーンは私の顔のアップでいっぱい。カメラが切り替わる。映るのは彼の顔。垂れ目な目が困ったように笑う。華やかなオーケストラ。天井から光が差す。
そう、私はきっと、こんな瞬間を生きることを、待ちわびていた。
友達として、私たちは映画館に何度も足を運んだ。彼は少しびくびくしていて、ちょっとかわいそうで可愛かった。暗闇の中で、二人。今日もお客はほとんどいない。静かなシーン。彼の息遣いが聞こえる。触れたい、触れたい、触れたい。そっと手を伸ばし、ひっこめる。こんなことを私にさせた男は、今までいなかったというのに。
『今日何してた?仕事はなに?どこに住んでるの?今幾つ?名前、なんていうの?』
聞きたいことは私の内側にばかり溜まっていく。お互いに一度も口を開かないまま、無情にも部屋は明るくなって、色あせたイスとシミのついたスクリーンが世界を覆った。彼は、席を立つ。
待って。私はとっさに手を伸ばした。でも彼はそれを払いのける。私だって特に意味があって彼に手を伸ばしたわけじゃない。ちょっと待ってほしかったのだ。まだ飲み物が少しだけ残っていたから、せめてそれを飲み終わるまで、私の隣にいてほしかっただけだ。でも彼は、私の手を、払った。途端に申し訳なさそうな泣きそうな顔になったのは、私が泣いたからだろうか。
彼は本当に困ったように、叱られた子供みたいな顔をしていた。大人の男の人のこんな表情を私は見たことがなかったから、泣きながらすごく興奮していた。ねえ、どういうこと?なんて聞けない。その質問の答えを、聞くことなんてできない。
二人でしばらく、ロビーの椅子に座っていた。
「私ね、部活を辞めたの」
バックには静謐なピアノの音楽が流れる。
「私、バスケ部だったの。決して強いチームではなかったけど、レギュラーだったの。でも、辞めた。キャプテンの彼氏が、私のこと好きになったんだって。彼女の応援しているうちに、私のことが気になって仕方なくなったんだって。でも、私は知っている。彼は少年なんだ。何かを目指して、追いかけて、走り続けるのが仕事みたいなものなんだ。清く、正しく、美しく、誠実なんだ。だから、気になった人ができたら隠さずに彼女に言う。そして、その人にまっすぐ向かっていく。彼は善人で、彼女は被害者。じゃあ、加害者は私?彼女は決して、彼も私も責めなかった。彼の幸せを心から願うと言った。じゃあ私は?彼と恋人になればハッピーエンド?そんなの、彼と彼女以外誰も許さない」
一息にそこまで言った。いつの間にかレイトショーの時間になっていて、ロビーには誰もいなくなっていた。寂しい。寂しい。悲しい。友達も居場所もすべて失って、それでもあの少年と一緒にいられるほど、私は少年を好きじゃない。
「僕は、君は正しい人だと思う。」
彼は両手を握りしめたまま言った。
「君は正しく誠実で、でも窮屈で、少し頑固なだけだ。彼は自分に対して誠実だったかもしれないが、君に対してはそうじゃなかったかもしれない。君は君自身を苦しめて、ちっとも自分に対して誠実じゃない。でも、彼に対しては、とても誠実だったんじゃないかな」
絞り出すようにそう言った。
「私、正しい?そういうあなたは、正しい?」
彼は困ったように笑った。
「さあ、君のことを正しいという僕は、正しくないかもしれないね」
「それでもいい」
正しくなくていい。でたらめでいい。私と一緒に、駄目になって。
私はもう一度手を伸ばした。あなたが、まだ前の恋人のことを引きずっているのも知っている。女の子はそういうものを、匂いや空気みたいなもので察することができる。
でも、正しくないから。私のことを正しいという正しくないあなたは、他の人を好きでも私に触れていいの。だって、正しくないから。
一瞬置いて、じんわりと右手が温かくなる。ああ、幸せだ。真実の愛だ。
年のことも、住んでいる場所のことも、仕事のことも、名前のことも、何も知らなくていい。何も知らなくても何にも繋がれていなくても、自分の意志でしっかり繋がっている。それでいい。そんなありきたりな関係じゃない、私たちの映画館での逢瀬。
「でもね、私ちっとも不幸せじゃないの」
「うん」
「みんなの思うような充実した高校生活が送れなくてもいいの。みんななんてどうでもいい。私は私の、幸せを生きる」
それはある種の誓いのようで、私と彼以外に誰もいないホールの中に静かに響いた。
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