第1スクリーン 悲劇の主人公

1 ものともしない少女

 映画館の前でけんかをするなんて、一体どんな人たちなのだろう。観るはずだった映画を棒に振ってまで主張しなければならない大切なことが、よりによって映画館の真ん前で発生したりするものだろうか。

 映画館の向かいのカフェで暇を潰している私の数十メートル向こうで、若い女と彼女より一回りほど年が上に見える男が何やら揉めている。それがいかにも下世話な痴話げんかだったら見ているほうも恥ずかしいのだが、どこか二人は落ち着いて物憂げな雰囲気に包まれていた。無声映画のように美しいかった窓越しのその光景に、私は余計に興味をそそられた。


 そのけんかは、物語の終焉なのだろうか。女が離れていった。それとも、始まりなのだろうか。男は映画館の中に入っていった。


 そう、来なくっちゃ。カップの底に溜まっていたキャラメルラテを飲み干して、私は走り出した。

 彼は何を観るのだろう。女と別れたからって映画まで観るのを止める必要なんてない。一人でだって堂々と観るべきだ。退屈な私は好奇心の赴くままに、男の後ろをついて行った。

 初めて入る小さな映画館は、古くてちょっと色あせていて、まるでその映画館そのものが映画の舞台みたいだ。わくわくする。

 券売機は見当たらなかったが、小さなロビーには受付のカウンターがあり、チケットを手売りしているようだった。彼の後ろにさりげなく並ぶ。彼は、何を観るのだろう。

 そう思って受付前に並ぶ看板を眺めて、私はびっくりした。私の知っている映画が、一つもなかった。立ち並ぶのは本当に色のあせた古いポスターと、観たこともない俳優の写った見たこともないポスターばかり。

なんだこの映画館。今学校で話題の、あの映画もあの映画もやってないのか。話題の、って言っても、私は最近その話題に入れていないから詳しくはわからないけれど。


 彼の順番がまわってきた。彼はずっと下を向いていて、私は彼の顔をまだ見れていない。でもその後ろ姿は、永遠にこのまま並んでいても構わないくらいに魅力的だった。彼は、何を観るのだろう。

「……」

「え?」

 彼がくるりと振り返る。驚きの表情。目が合う。私は慌てて下を向いた。私の目線の高さに、白い喉。一瞬だけ見えた、少し垂れた一重の目。耳が熱い。

 彼が何のチケットを買い求めたのか、聞き取れなかった。それでつい、声が出てしまった。

 こんなに近くにいたのに、こんなに真剣に耳をそばだてていたのに。そんなことってあるんだろうか。だって私の世界は、いつも音に溢れている。こんなに近くで聴いていても聞こえない声なんて、出す価値があるのだろうか。

「…はい、1枚800円。スクリーン1番です」

「…どうも」

 今度は聞き取れた。彼はまた俯いて、私の横を足早に通り過ぎる。

「いらっしゃいませ。どの映画?」

 カウンターに座っていた男は、あの男の人と同じくらいの年齢だったけど、雰囲気はこの映画館の中で一番近代的だった。

「…同じの」

「え?」

「さっきの人と、同じの」

 男は笑った。こんな映画館で働くような男だ、きっと酔狂なものが好きなんだろう。目じりにしわを寄せながら笑う姿を見て、この男もかなりいい感じだと思った。私が思っているより、今の30代は素敵な世代なのかもしれない。

「この廊下まっすぐ行って、右側の前から1番目のシアタールームだよ。早くしたほうが良い。ここ、座席の予約システムないから、いい席は早い者勝ちだよ」

 爽やかな笑顔と長いまつ毛に彩られたウインクに見送られながら、私は走り出した。


 映画は、何とも辛気臭いタイトルで、なんだか今の彼にぴったりで笑った。そんなタイトルからな想像もつかなかったのでびっくりしたが、内容はミュージカルだった。

 無情。無常ではなく、無情。ああ無情、彼は右側の一番後ろの端っこの席に座ってしまった。まったくなんだってそんなところに。これじゃ、後ろにこっそり座ってこっそり後ろから、彼を眺めることはできない。

 仕方なく、私は真ん中なら少し下がったあたりの席に腰を下ろした。イオンの中に入っている映画館に比べて椅子は堅いし、足元は狭いし、お客は圧倒的に少ない。こんなんで大丈夫なのだろうか。

 

 映画が終わったあと、泣いていたのは私と彼だけだった。もともと観客は少なかったけど、どう考えても泣いている人間の方が少数派で、私は恥ずかしくなった。ああもう、なんでみんな泣いてないの。こんなにも魂を揺さぶる映画なのに、何故泣かないの。むしろ、泣かないなら何でこんなところまでこの古い映画を見に来たの。安いから?

 こっそり後ろをうかがうと、彼は鼻をすすりながら、今まさに立ち上がろうと前の席の背もたれに左手をかけたところだった。

 私は慌てて向き直る。チケットを購入した時に奇声を発した女の子がここにいると、彼は気づいただろうか。

 周囲のまばらな客たちは、それぞれにかったるそうにしながら腰を上げて去っていく。私が最後、一人残された。彼は、彼女とこの映画を見るつもりだったのだろうか。それとも、一人だからこの映画を観ることにしたんだろうか。この、寂しい映画を。



 なんとなく異変を感じたのは、5月の終わりころだった。他校との練習試合の時に、いつも応援に来ているうちの制服を、私は知っていた。

 女子バスケットボールチームの強豪校など、聞いたことがない。部活動の実績なんて大体は野球で甲子園常連校とか、サッカー全国大会出場校とか、駅伝県代表校とかそういうので、よく他所の高校のホームぺージにでかでかと掲載されている。

 でも、野球部やサッカー部や陸上部と同じくらい。女バスだって活躍の場があるはずなのに。市の大会で勝てば県大会に行けるし、県大会に勝てば関東大会に行ける。それは絶対なはずなのに、どうしてか私の身近な学校には、女バスの強豪校はいない。

 私たちのチームも通例にもれず、ばっちり弱小部だった。人数が少ない上に、去年の冬に最後の先輩が退部(引退ではなく、退部)したため、今年度4月の時点で3年生は一人もいなかった。

 いつも応援に来ているうちの制服は、1年生の冬から部長として皆をまとめてきた苦労人キャプテンの恋人だった。

 キャプテンが今どうしているのか、部活を逃げ出してきた私にはわからない。でももう、彼は彼女の応援には来ない。

 だって、あくまで結果的にだけど、私がキャプテンから彼を奪ってしまったんだから。



 映画館を出る。あの人の姿はどこにも見えない。でも、私は確信する。彼はここの常連だ。カウンターでチケットを買っただけで何も聞かずに目的地のシアタールームまで来られたし、何より、彼もこの映画を見て泣いたのだ。暇つぶしや興味本位で入ったのではなく、こういう映画が好きで、DVDを借りるよりかはもう一度、スクリーンで見たいと思っているクチなのだろう。

 でもひょっとしたら、彼の涙は他の要素も絡まって流れたものかもしれない。彼とあの女の人がこの映画を見に来る日は、永遠に来ないのだろうか。

 だったら、私が一緒に観ようかな。部活を辞めたことは、理由が理由なだけに友達にもなんとなく言いづらく、学校が終わってから私はさっさと家に帰って制服から着替え、部活終了時刻までふらふらするという無為な日々を送っていた。要するに、私は放課後にぽっかり空いてしまった空白の時間を、もうだいぶ持て余していた。

 だから今日は、こんなにわくわくしてドキドキするような有意義な暇つぶしができたことが、ものすごく嬉しかった。また彼と同じ映画のチケットを買って、彼から少し離れた場所に座って、一緒に泣いて。考えただけで素敵。高校生の陳腐な恋物語よりも、ずっと映画みたい。

 私は足取りも軽く家路についた。明日学校に行くのが、ちょっと嫌じゃなくなった。

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