9 夜の逃避行

 中学2年に上がった新学期、俺はすぐに西尾を見つけた。同じクラスで、通路を挟んで隣の席だったのだ。見るからに寡黙なその男は、桜色に染まる浮足立った教室の空気の中で、一人真っ黒な石のようだった。

 でも、真っ黒な西尾の雰囲気の中でただ一か所、色彩を放っているものがあった。彼の武骨なペンケースに、水色の缶バッチが留まっていたのだ。それは、あるインディーズバンドのライブグッズだった。

「なあ、それのライブ、行ったの?」

 西尾は最初、それが自分に向けられて掛けられた言葉だとは思わなかったらしい。でも柔道家の勘のようなもので、相手の気配がこちらを向いているのに反射的に気付いたのだと、あとから教えてくれた。

「…いや、これは貰いものだけど、ここに穴が開いちまったから丁度いいと思ってつけてる。これは、芸能人のグッズか何かなのか」

 ふふ、と、吉田は思い出し笑いをした。芸能人って。やっぱりあいつは最初からちょっと可笑しかった。


 西尾に話しかける理由は、なんだって良かった。ただ、そのバンドは美月が好きなものだった。



 さっきまでの疲労が嘘のように、吉田はぐんぐんと坂を登る。街灯も星明りもない、真暗な道。でも人の気配もしないから、恐ろしくはなった。本当に恐ろしいのは、今この場に美月が現れて、西尾と再会してしまうことだった。

 不思議と足の痛みは気にならなくなっていた。ランナーズハイだろうか。もうどうでもよかった。

 西尾はやっぱり、美月とのことを忘れていた。付き合っていたという感覚すら、あいつの中ではなかった。美月と別れた原因も、今日俺に言われるまで、気まぐれに思い出したりもしなかったんだろう。

 でも、そんなこともうどうだっていい。5年間、ずっと聞きたかったのだ。西尾は美月のことをどう思っていたのか。美月を助けなかった俺を、どう思っていたのか。考えてみれば容易に予想できることだった。西尾は、人の顔をしっかり覚えているような奴じゃない。俺のことなんて、きっとハナから気にしてなんていなかったのだ。

 あの日の帰り道、美月を送って歩きながら、二人とも無言だった。本当は駅員に痴漢のことを伝えたほうが良かったんだろうけど、自分も美月もとてもそんな気にはなれなかった。

 限界ギリギリの細さで浮かぶ三日月を眺めて、美月の方を振り返る。美月は下を向いていた。もうきっと、二度と美月と言葉を交わすことはないのだろう。涙目で自分を見た美月の顔を思い出して、吉田はまた俯いた。気付いていたのに、助けなかった。美月も、そのことに気づいていた。最後に交わした会話は何だったか、駅から美月の家までの数分間、吉田は必死で思い出そうとしていた。

 美月と連絡を交わさなくなって3か月、1年4組の変わり者柔道部員に彼女ができたと噂が流れた。美月だと思った。彼女は部活を辞めていた。


 びゅうっと風が強く吹いて、吉田の髪を乱した。寒くはなかった。体の内側から熱が沸いてくる。吉田は歩調を緩めない。風はどんどん吹いて来る。天気が崩れるのだろうか。

 瞬間、吉田の耳は違和感を捕らえた。風の音に紛れて、不穏な音が聞こえてくる。ざっざっざっ…。何かが後ろから追ってくる。

 吉田は走った。途端に足に痺れるような痛みが襲ってきた。足だけじゃない、肩も、腰も、背中も痛い。息も荒くなってきた。苦しい。痛い。冷たい空気が直接流れ込んできた肺は、破けそうに痺れている。酸素をうまく取り込めていないみたいだ。

 暗闇の中、二人の少年は必死で走る。ここまでの歩行距離、35km。時間にして7時間弱。もう限界だ。でも、二人とも止まらない。

 吉田の足がもつれた。体制を立て直そうにも、体が満足に動かない。横向きに地面に倒れる。衝撃に備えて目をつむったが、いつまでたっても痛みは襲ってこなかった。


「…西尾」

 吉田が倒れ込む一歩手前で西尾は追いつき、吉田のリュックの肩ひもを掴んで間一髪のところで吉田を支えていた。

 また、助けてくれた。そう思った瞬間、吉田の体はふわっと宙に浮いた。状況がよくわからないまま吉田はその力に抗うことなく身を任せた結果、どすんっと重い音をたてて、地面に仰向けになった。

 西尾の得意な、じいちゃん直伝の、自慢の背負い投げが炸裂した。


「…どうだ。上手い奴が投げると、あんまり痛くないだろ」

「…このリュックのおかげも、かなりあるけどな」


 仰向けに寝転んだまま、吉田は西尾を見上げた。西尾は相変わらずの無表情で、肩で息をしながら吉田を見下ろしていた。

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