8 正義に味方されてしまった少年
「美月と付き合って、どこまで行った?彼女じゃないなんて嘘だろ、あいつ絶対にお前のこと大好きだったよ。告白されたんだろ?いいよって言ったんだろ?」
西尾は黙っている。この体の芯を差すような緊張を、西尾は久しぶりに思い出していた。これを味わうのは、中1の時の大会以来だ。
「どこまで、って聞くのは変だな。まだ中学生だもんな。いつまで付き合ってたんだ?中2の、俺と知り合った頃にはもう別れてたのか?」
「…ああ」
「なんで」
初めて、吉田の表情がわかった。わずかな光を反射して、目に溜まった涙が光っていたからだ。
「なんで、別れたんだよ。あいつ、お前のこと絶対に大好きだったじゃんか」
「…そう、だった。俺のこと、本当に好いてくれていた。でも、あいつも、やっぱり柔道の応援に来たがって、それで」
「まさかそんなことで、別れたのか」
「違う」
違う、とは言ってみたものの、正確な理由が西尾には思い出せなかった。美月は初めてまともに手を繋いだ女の子ではあったけど、もう5年も前のことで、特別な感情を抱いていたわけではなかったからだ。だって、彼女を助けたのはたまたま同じ車両に居合わせただけで、じいちゃんが他人を助けろって、そう言っただけで。
「…あの時、美月と同じ車両に乗ってたのは、お前だったのか?」
人の顔をなかなか思い出せない西尾は、美月から『あの時はありがとうございました』と言われたときでさえ、何のことかすぐにはわからなかった。ましてやあの時、彼女と一緒に乗って来た男が、5年間一緒にい続けた親友だった、なんて。
「覚えてないだろ。良かった、お前が腹の中でどう思いながら俺と一緒にいたか、そう考えると時々ちょっと怖かったんだ」
吉田の声は笑っていた。
「…お前は、知ってたのか。知ってて、俺と友達になったのか」
膝が痛い。足の裏が痛い。肩が痛い。寒い。風の音がする。
「西尾、美月のこと、本当はどう思っていた?」
ざわ、と木々が鳴いて、風が吉田の髪をかき上げた。素直でクールで、俺の親友。何故、そんな目ができるんだ。それは、試合で投げられる直前まで俺から目をそらさなかった、あの腕の短い少年と同じ色の目だ。戦うことを、迷わない目だ。
地球の一番隅に立っている今の西尾には、まるで刺青のようにその決意がこびりついている。俺が柔道を極めるのは、自分のためだ。誰かを、美月を助けるためなんかじゃない。
「…西尾、お前が美月とのことを忘れても、俺はお前に感謝しているよ。あの時、美月を守ってくれたのはお前だ。お前は気づかなかったかもしれないけど、俺はあの後、すぐにお前を見つけたよ。1年4組の柔道部員で、かなり強いのに試合には出ない。皆はお前のことを変わり者だとか実は弱いんだとか噂していたけど、俺は知っていた。お前は試合に出なくても、ものすごく勇敢で強い。でも、それをひけらかすような安っぽい真似もしない。あれから、お前は俺のヒーローだったよ」
「…じゃあ、中2の時に話しかけてきたのは、それが理由か?」
吉田は歩き出した。今までにないくらい、西尾の体がこわばる。吉田は西尾を追い越して、どんどん上に行ってしまう。
「…ま、待ってくれ」
西尾の声はかすれていた。
「吉田、お前、なんで第一志望を地元にしたんだ?地元で就職しようとは考えてないって、前に言ってたよな。都会に出たいとさえ、言ってたよな?」
吉田は答えない。星も見えない真暗な道を、闇にのまれるようにどんどん昇っていく。
「お前、なんでテニス部を続けているんだ?中学の時は確かに選択肢は少なかったけど、高校にはいろいろあるじゃんか。軽音部でもヒップホップダンス部でも。なんで、まだテニスを続けようと思ったんだ?」
まるで疲れを忘れたかのように、吉田は山道を登っていく。西尾は、足に根が生えてしまったかのようにその場から動けない。ただかすれた声だけが、風の音を縫って闇に響く。
「なあ、この旅にお前が乗ったのは、美月のためなのか?この話をするために、お前はここまで、俺と歩いてきたのか?」
もう、吉田の背中は闇に塗りこめられて消えてしまった。真っ黒い空白に向かって、西尾は叫ぶ。
「なあ、俺が美月と付き合ってたから、俺があの時美月を助けたから、お前はあの日、俺に話しかけたのか?俺に美月がいたから、お前は5年間も、俺の親友だったのか?」
あの日、俺は何もできなかった。吉田は今でもその棘を抜けないでいる。
隣の中学の女子テニス部員で、夏の試合の頃から仲良くなった。お互いまだ補欠にもなれてなくて、先輩のための水くみや氷の補充などに忙しく駆け回っている中で、自然と距離が縮まった。
告白したのは、吉田からだった。好きとは言えなかったけど、精一杯付き合ってほしい旨を伝えた。
部活の隙間の短い夏休みに何回か会って、学校が始まってからは放課後デートと言う奴もやってみた。吉田が電車で一駅離れた彼女の中学の近くまで行って彼女と待ち合わせて、近くの商業施設のゲーセンで少し遊んで、彼女の家の近くまで送っていく。手を繋ぐことすらままならなかったが、初めての彼女に吉田はすっかり舞い上がっていた。
その日、いつも以上に電車内は混雑していた。乗った直後から彼女と少し離れてしまって、こういう時に自然に手を繋げばよかったのにと、吉田は呑気な後悔をしていた。
彼女の異変に、気がつかないわけではなかった。こちらを向いていた彼女の顔は次第に俯き、何かに耐えているようだった。しばらくしてから彼女の斜め後ろに立っているサラリーマンの様子がおかしいことに気付いた。
ガタン、と電車が軽く揺れ、彼女とサラリーマンの様子に気を取られていた吉田はバランスを崩し、さっきよりももっと彼女から遠い場所に来てしまった。
男はうつむき気味で、彼女の右耳のあたりを凝視している。彼女はもじもじと動きながら、小刻みに震えているようにも見えた。
ガタンっと大きく電車が揺れて、吉田を含めた電車全体が左に傾いた。その瞬間、彼女と目が合った。涙ぐんでいて、頬は真っ赤に染まっていた。
彼女が痴漢にあっているのは、誰の目にも明らかだった。でもその時、吉田はある一つの感情によって完全に支配されていた。
『失礼いたしました。えー次はー、常盤上坂―、常盤上坂―。中央線は、お乗り換えです…』
可愛い。可哀そうで、可愛い。赤くなって涙目になって耐えている彼女が、恥ずかしそうに身じろぎをしながらそれでも逃げられなくて必死に我慢している彼女が、とてつもなく可愛かった。
男は30代くらいで、身長は吉田よりもずっと大きく見える。彼女が可愛い。すでに彼女との距離は、吉田が腕を伸ばしても届かないくらいまで離れていて、しかも電車の混雑具合は相変わらずで、吉田は動けなかった。彼女が可愛い。
可愛い。自分には見えないところで、彼女の体は何をされているんだろうか。彼女の体はどうなっているんだろうか。体が疼くのを感じる。汗が出てくる。彼女が、可愛い。
それは、一瞬だった。それまで全く視界に入ってこなかった少年が、男の手を掴んで投げ飛ばした。ドアが閉まり彼女は解放された。
電車中の拍手を一身に受けて、少年は走り去った。あとに残された自分は、動けなかった。もう、彼女の手を握る機会は永遠に失われたのだと悟って、さっきまでの疼きが嘘みたいに、髪の毛の1本まですべて萎れてしまったような感覚がした。
美月。俺は君を、助けてやることができなかった。帰り道、それすら口に出せなかった。吉田も彼女も、黙って歩いた。彼女は一回も吉田の顔を見ない。車両から走り去る少年を見送る彼女の視線。少年の姿がドアの向こうに消えて、彼女は視線を落とした。それから一度も顔を上げない。
美月、助けてあげられなくてごめん。それどころか、俺はもっと情けなくてどうしようもない感情に支配されていた。自分は、あのサラリーマンと同じだ。嫌がる君を、可愛いと思った。あの少年は勇敢で高潔で、拍手すら受け入れない。きっと君の心を捕らえて離さない。それを嘆く権利は、俺にはない。ましてやあの少年に、嫉妬する権利なんて。
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