7 メインイベント開始

「ああー、つっかれたあー!」

 西尾は足を投げ出した。夜が深くなるほどに、自分の感情の幅が広くなっていることを、西尾は自分でも感じていた。吉田が変な話をしたせいだろうか。急に昔のことを思い出した。その時の西尾はじいちゃんの言う通り初めて人を助けて、まるで世界の中心に立っているような気分だった。自分で考えた『自分を鍛えるために柔道を頑張る』という決意がその時は簡単に吹き飛んだ。

「ああ、足いてえな。パンパンだ」

 靴と靴下を脱いで、吉田は足のリンパをマッサージする。

「ああ、認めたくないけど、背中もちょっと痛くなってきたな」

「言うなよ、足の裏の痛みに紛れて気付かないふりができそうだったのに」

 あーくそ、こんなんで学校までなんて、戻れるのかなあ。吉田の明るい弱音に、西尾はつい口を挟む。

「体中が痛くなって動けなくなってからが、本番だってよ」

「は?誰がそんなこと言ったんだよ」

 しまった、と西尾は口元に手を当てる。油断するとすぐ、あの映画が顔を出してくる。

「いや、じいちゃんが言ってた。今までの自分じゃ超えられなかった限界を超えたときこそ、真の成長なんだって」

 西尾は勝手にじいちゃんの名言をこしらえて、その場をごまかした。

「くそー、じゃあ何か、この先にはもっともっと辛くて痛いことが待ってんのかよ…」

 ちょっと弱気になっているらしい吉田の背中を強く叩いて、西尾は立ち上がった。

「行くぞ!現在11時30分、予定より10分も遅れてる」

「ほんとだ、コンビニで時間食いすぎたな」

「だってあいつら、ちっとも菓子コーナーから退かねえんだもん!」

 笑いながら、二人はベンチから腰を上げた。足の裏にびりびりと痺れるような痛みが広がる。ここから約4キロ、時間にして1時間ちょっと(もう普通に歩いた時と同じ速度では歩くことはできない)、明かりのない山道が続く。今回の旅の、最大の難所だ。

 行くぞ行くぞ。気合を入れ合いながら、二人は進む。目の前の山は、黒くて大きくてまるで空に開いた巨大なトンネルのようだった。ここを抜けたら、どこに繋がっているのだろうか。


「なあ、おい」

 闇の入り口に立った時、荒くなった息を抑え込むように、吉田は話しかけた。

「なんか、楽しい話しようぜ」

「…何だよ、楽しい話って」

「この、街灯どころか星すら見えない坂道の雰囲気に、少しでも抵抗できるような話だよ」

 ネットの画像で見たとき、そこまで深い山ではないと感じていた。でも真夜中の山はうっそうとしていて、覆いかぶさるように道に伸びた枝葉のせいで星も見えない。

「…今、11時58分だな」

 西尾は腕時計の中で明滅する数字を見た。父さんがくれたデジタル時計は、スイッチ一つで暗闇で光る。こんな機能が必要な場所に来ることなんてないと思っていた。

「そうだよ、もうすぐ、日が変わる。予定より、遅れてるな」

 吉田の息は今にも飛び出しそうに荒ぶっている。言葉と言葉の隙間から、すでに溢れかけているようだ。

「じゃあ、なに話せばいいんだよ。一つアドバイスするなら、黙って歩くことが一番体力の温存にはなるぞ」

「うるせえ、この期に及んで、何が温存だよ。じゃあ質問な。西尾、お前、今まで一度も彼女がいたことなかったのかよ」

「…またその話かよ」

「いいじゃんか、高校生の、話題としては、最も盛り上がるだろ。お前、普段そんな話、しないしさ」

「…付き合ったことはない。一緒に飯行ったり夜電話してきたりした子はいたけどな」

「マジか、今まで何人いたんだよ」

「3人。最後にいたのは高1の時。でも、彼女らしいことは何もなくすぐに別れた」

「…どんな子だったんだよ」

「…いい匂いがしたな」

「そんだけかよ。おまえ、匂いフェチ?」

「…かもね。その子、他校生だったからさ、俺が部活で試合に出ないの知らなくて。応援行きたいってうるさくて。取り合わなかったら、連絡来なくなった」

「…その子のこと、好きだったのか?」

「…さあな、よくわからん。でも、後悔はしていないよ」

「西尾の方が、人間関係的には俺よりよっぽどクールだな」

「…お前とは、5年も続いてんのにな」

「やめろや、その言い方」

 森は続く。足元の道路も、だんだんと枝や小石、ひび割れが目立ってきて、歩きにくくなってきた。こりゃ、予定よりだいぶ遅れるな。西尾は小石を蹴って、そう思った。


「じゃあ、最初に彼女できた年、教えあおーぜ」

 俺の場合は『彼女っぽい人ができた年』ではあるが、と思いながらも西尾は吉田の話題に乗って自分からネタを振ってみた。

「あー…初めての彼女、ねえ」

「何だよ、思い出せないくらい昔なのか?」

 そう聞きながら振り返って、西尾は驚いた。真後ろにいるはずの吉田の表情が、全く分からない。こんなにもこの道は暗いのか。夜は暗いものと理解していながら、夜は明るいのが当たり前に生きてきた自分たちにとって、それは未知なる暗さだった。

「…なんだよ、変な顔して」

 吉田からは、西尾の顔は見えているらしい。

「いや、別に」

「じゃあ、俺、お前に初めて彼女ができた年、当ててやるよ」

 吉田は西尾からの質問に答えずに、勝手にクイズ形式にして話を進めた。

「中1だろ」

「…なんでわかったんだよ」

「…勘だよ。当たった?」

 吉田の表情は見えない。道は暗く、足元は悪い。

「お前、まさかそいつの名前まで知ってたり、しないよな」

 西尾の背中に、今までとは温度の違う汗が流れ、鳥肌が立った。標高が上がり、気温が下がっている。寒い。暗い。

「勘でいいなら答えるけど」

 吉田は息を吐いて、また吸った。空気の動く気配が、辺りに広がる濃い闇を少しだけ動かす。


「美月、だろ」


 吉田は、いつかこのことを聞かなければならないと思っていた。そして、それは今日で、今だと思っていた。

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