6 正義に味方した少年
「なあ、西尾さあ、何で柔道やろうと思ったんだよ?」
一瞬、吉田に心を読まれているのかと思った。だってあまりにも、西尾が考えていた内容そのものを聞いて来るものだから。
自分の記憶や思考が漏れ出ているような錯覚がして、西尾は歩きながら後頭部をぽりぽりと掻いて、答えた。
「いや、小学校のころチビで無口だった俺を両親が心配して、じいちゃんのやってる道場に預けたんだよ」
「まじかよ、小学校のころからあんな痛い目に遭ってきたわけ?カワイソー。俺、中学の時はじめて授業でやったけど、背負い投げとかマジ痛くねえ?」
「いや、上手な人が投げればあんまり痛くないんだよ。受け身もちゃんととればね」
「そうはいってもなあ、途中で止めたくなったりしなかった?『なんでこんなことやってんだろう』みたいな」
「…いや、なかったな。じいちゃんは多分、俺の発達課題に合わせてクリアできる課題を選んでくれたみたいだし。それに、俺が柔道をやってた理由は、自分を鍛えるためだから」
「ふーん、自分を、ねえ」
「そう、中1の時に一回だけ試合に出てさあ、まあ勝ったんだけど、その時戦った相手がまたチビで真面目なやつでさあ、こいつを倒す理由なんてどこにもねえなって思ったんだよね」
「ほお、倒す理由ねえ」
「そう。だって別に悪い奴じゃないし、俺に何かしたわけでもないし。ただクジで俺と当たったってだけ。だから、俺は試合の実績とかは気にしないで、自分を鍛えるためだけに柔道を極めようって、思ったわけ」
「ふーん、自分のため、ねえ」
吉田は感慨深げのように見えた。明かりの消えた民家の続く道を、街灯が健気に照らしている。それでも、道の端っこには濃い闇が溜まり始めていた。午後11時。星が良く見える。
「なんだよ。自己中なやつだって、そう思ってるのか?」
「いや、そんなわけないじゃん。すげえなって思ってさ」
「吉田は、なんでテニス始めたんだよ。中学の時からだろ?」
「だって、中学の部活ってろくに選択肢なかったじゃないか。運動部って言ったって、サッカーかバスケか陸上か、卓球かテニス。俺運動ってそこまで得意じゃなかったから団体競技は嫌だったし、でもモテたかったから文化部に入る気なかったし、だから、テニス部」
「ああ、うちの中学、何故か男テニと女テニって仲良かったよな。しかも、なんか他校のテニス部とも交流あったろ。中学にして大学のインカレサークルみたいだったよな」
西尾は笑って、吉田は驚いた。西尾は、そんなこと気づいていないと思っていた。気にしていないと思っていた。
どこまで、見ていたのだろうか。あの独特な視点で、独自の価値観で、彼はあの日々の、何を見て過ごしていたのだろうか。
「あ、ここの三叉路って、どっちだっけ」
西尾の質問に、吉田は甘く苦い懐かしさから現在に引き戻された。
「あ、ああ、えっと、右だよ」
「次のチェックポイントまで、あとどれくらいだ?」
「えっと、あと5キロ。第2から第3のチェックポイントまでは結構短いんだ。そのかわり、第3を過ぎたらしばらく街灯もないぞ」
「そうか、あの山に差し掛かるわけだな」
「ああ、ちなみに次のチェックポイントは無人駅だ。ベンチと自販機はあるが、便所はないぞ。あんまり長く留まりたくはないな」
全く、その通りだった。駅には長くはとどまりたくはない。吉田の足は次第に早まる。
「おい、はえーよ。よくそんなに歩けるな」
額に滲んだ汗を拭きながら、西尾は後ろから呼びかけた。9月とはいえここまで歩くと、流石に暑くなってくる。そういえばいつかも、こんな蒸し暑い夜だった。
西尾が初めて他人を助けたのは、中学1年の秋のことだ。時々思い出してびっくりするのだが、その時まだ西尾は吉田と出会っていなかった。吉田と出会う前、特に親しい友達もいなかった自分はあの狭い教室の中でどう過ごしていたのか、今はもう思い出せない。
部活の居残り練の帰り、ちょっと離れたCD屋に行きたくて、西尾は普段はのらない電車に乗った。電車の中は人でごった返していて、すぐに乗ったことを後悔した。夜とはいえ9月の電車は蒸し暑くて、少し臭う。汗のにおい、香水のにおい、パーマ液のにおい、誰かの体臭。それはまるで個人の存在そのもののように、狭い電車の中でそれぞれが対立し、混ざり合っていた。
押し流されて出入り口付近までやって来た西尾は、仕方なく少し汗ばんだ吊革につかまり、これから聞く音楽について考えを巡らせていた。
初めての試合に勝って以来、西尾は試合には出ず、練習だけを黙々とこなしていた。誰かのためじゃない、自分のために自分を鍛える。それは、西尾にとってとてもシンプルでクールな答えで、しかし一人ぼっちの西尾を十分に支えるだけの強度を持っていた。
「お前は、何のために柔道を極めるんだ?」
西尾にそう聞いてきたじいちゃんは、実は西尾だけでなく家族や親せきのすべての人にそう聞いて回っていて、最近は道行く知らない人にも聞きまくっていた。ばあちゃんは心を大層痛めたが、父さんと相談して道場を閉め、じいちゃんを施設に入れた。今でも勝手に施設から出ようとして、それを止める職員に「お前は何のために柔道を極めるんだ?」と聞いているらしい。
「唯一の救いは、じいちゃんが乱暴なやつじゃなかったってことさね」
ばあちゃんは寂しそうに笑う。ボケたじいちゃんは、今のところ誰にも技をかけたり投げ飛ばしたりはしていないらしい。
自分と反対側の出入り口が開いて、また大勢の人が入って来た。ますますいっぱいになった車内に、ふと優しい香りが一筋流れる。それは、西尾の少し先の方にいる少女のものらしい。そのまた先に、同い年くらいの男の姿も見える。今以上に他人に興味のなかった西尾はその二人の顔などもちろん見覚えがなかったが、男の方はどうやら自分と同じ中学校の生徒で、部活の帰りらしい。学校から一駅離れた商業施設で遊んできたのだろう。
西尾は首をひねって、窓の外を眺めた。そうすることで涼しくなったり臭いが紛れたりすることはなかったが、それでも車内のひしめき合いから目をそらしたかった。
最初に異変を感じたのは、西尾の左耳だった。不規則で少し荒い、しかし無理に抑え込んでいるような呼吸音が耳をついた。
気持ち悪いが、もしかして隣のサラリーマンは体調不良なのだろうか。そうだったら隣に立っていた者として、見殺しにするわけにもいくまい。そう思って振り向いた。男は西尾の視線に気づいていない。少し視線の下がったただ1点を凝視している。視線を辿ると、すぐにあの少女の頭にぶつかった。
西尾には少女の後頭部が良く見えた。つまり、彼女はうつむいていた。さっきまで一緒に乗って来た男子生徒と仲良さげに話していたような気がするのだが…
周りを見回すと、あれからさらに人の波にもまれた彼氏は、彼女からもっと遠ざかってしまっていた。
俯いた少女は、小刻みに震えている。男の呼吸は荒い。嫌な予感が西尾の全身を粟立たせた。まさか。
電車が大きく揺れた。西尾をはじめ少女も男も、みんな左側に傾いて、反動で右側に少し傾いて、やがてまたさっきの姿勢に戻った。
『失礼いたしました。えー次はー、常盤上坂―、常盤上坂―。中央線は、お乗り換えです…』
ただ周囲の人間が動いたことで、少女の体の周りにほんの少し隙間ができた。西尾は恐る恐る、その隙間をのぞき込んでみた。男は気づいていない。
最初、思わず目をそらしてしまった。少女のスカートは満員電車の人の壁の中でめくれ上がり、水玉模様の下着がむき出しになっていた。同級生の下着なんて見たことがなかったから、西尾は一瞬、本来の目的を忘れて瞑想し、じいちゃんに教わった心の落ち着かせ方(目を閉じて大きく息鵜を吸い、ゆっくり3つ数えながら吐ききる)を実践してしまった。
息を吐ききって本来の目的を思い出した西尾は、気持ち目を細めて再び少女を見た。やはりスカートはめくれあがっていたが、男が触れている様子などない。やはり自分の勘違いで、サラリーマンは本当に具合が悪くて、彼女はスカートを直せなくて恥ずかしくて震えているだけなのかもしれない。この場合、自分は見て見ぬふりをしなければ。
瞬間、今度は西尾の左目が違和感を捕えた。
『次はー、常盤上坂―、常盤上坂―。まもなく、到着します。右側のドアが開きます。電車とホームの間が広く開いている場合がありますのでご注意ください…』
動いている。均等に印された水玉模様は、少女の尻の丸みとは明らかに違う形に歪んでいた。そしてその歪みは波打つように形を変えながら、少女の尻を這いまわっている。
電車が静止し、ドアが開いた。また先ほどの駅よりは少ないが、何人かの人間が乗ってくる。出入り口付近に陣取る男は、動かない。少女も動かない。
西尾は迷わず、男の手を取った。びくっ、と男の腕がこわばり、体が硬直する。そのまま腕を引っ張り上げると、ぱさっという音がして少女のスカートが彼女の下着を覆った。『ひゅっ』というような呼吸音が少女の口から洩れる。めくれたスカートに隠れて少女の下着の中に突っ込んでいた男の左手に直接触れないようにしながら、西尾は男をひねり上げた。
「いだっ、いあたたた、やめろっ…」
男は抵抗したが、西尾はそのまま男をドアの向こうに投げ飛ばした。じいちゃん直伝の、西尾が一番得意な、自慢の背負い投げだった。
ホームと電車の隙間もなんのその、男の体は吹っ飛び、そこを通った駅員にぶつかった。
その後のことは、西尾は知らない。本当は自分も降りて警察に通報するなり駅員に突き出すなりすればよかったのだろうが、あいにく当時13歳だった西尾はそこまでの機転はきかなかった。
ドアが閉まり、電車が動き出す。車内に自然に拍手が巻き起こった。周囲の人の中には、気づいていた人もいたらしい。あの荒く湿った息に、気づくなというほうが無理だろうが。
少女は何か言いたげで、でも西尾が着ているのが彼氏の着ているのと同じ制服だとわかると、恥ずかしそうにうつむいてしまった。西尾は少女にも拍手にも耐えられなくなって、慌てて車両を変えた。
3つ車両を移ったところで、西尾は改めて自分の手を見る。
やった。やったよじいちゃん。他人を助けたよ、あの電車の中で、俺だけだよ。
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