5 じいちゃんの思い出

 何故この話題を振ったのか、吉田は自分でもわからなかった。ただ、いつか絶対、あの事だけは聞こうと思っていたし、それは今日だとも思っていた。さっきの話題は、考えてみればあの事を聞くため無意識にした土壌作りだったのかもしれない。本当は、もっと疲れて疲れて、うっかりぽろっと本音が出てしまうような深夜に聞こうと思っていたのだけれど。

 落ち着いて、と自分に言い聞かせる。焦っちゃいけない、まだ夜は長い。

「あったぞ、第二チェックポイント」

 吉田は地図を広げて、丸を付ける。そこだけ昼を囲み取ったように、コンビニは明るかった。

「ふう、流石に疲れが出てきたな。おれ小便してくるわ」

 そういう西尾には、あまり疲れが見えない。

「おう、俺も次行く。なんかチョコかリポDでも買っとくか」

 吉田はそう言って店内に入り、窓ガラスと西尾から顔をそらせた。自分の顔こそ、さっきから余計なことを言ったり考えたりしたせいで必要以上に疲れているに違いない。それを、西尾に見破られたくはなかった。

「そうだな。駐車場に座って休もう」

 そう言って西尾は店内奥のトイレに入っていった。彼が出るまで、吉田は菓子コーナーをぼんやりと眺める。

 軽快な音楽が流れて、店内に誰か入って来た。声を聴くに、数人の若い男女らしい。こんな時間に来るなんて、ただの夜遊びじゃいいけど、不良でからまれたりしたら嫌だな。今は西尾もいないのに。

 そう思って少し身を固くして、吉田はこっそり菓子コーナーを離れた。さっきまで吉田がいたまさにその場所に、男女は次々と群がる。女の子たちがチョコレートを選びながらきゃあきゃあと盛り上がっている。

 瞬間、その中に美月の姿を見た。吉田の体から体温が流れ落ちる。美月だ。


「おい、出たぞ。なんだまだ何も選んでないじゃんか」

 振り向くといつの間にか西尾が立っていた。彼は菓子コーナーに目をやると、吉田の手から籠を抜き取って言った。

「ああ、あいつらに遠慮してんの?俺がぱっと行ってぱっと選んで買ってくるから、お前も便所行っとけよ」

 いるわけない。吉田はもう一度目線を巡らせる。美月のわけがなかった。

「ああ、頼むわ」

 吉田はそのままふらふらと個室に入り、便器に座り込んで深く息をつく。ああ、美月でなくて良かった。彼女を再び、西尾に会わせることにならなくて、良かった。



「はー、結構疲れたなー。まだ3分の1も行ってないのか」

 西尾はスポーツドリンクを飲みながら、地図に顔を近づける。

「まあ、まだ10時だよ。時間的にはまだ4分の1くらいしか消費してないわけだから、かなり順調と言えるな」

「そうだな、それに前半の動けるうちに距離を稼いでおかないとな。前半でいくら温存しようとしても後半は絶対にバテるし、最後の数キロなんてどうせ気力で動いてるだけになるだろ。今のうちにそれくらい進んどいたほうが、安心だよな」

「おう、随分専門的なこと言うじゃんか。やっぱ後半まで体力持たないよな」

 西尾は内心ぎくっとしていた。吉田の言う『随分専門的な内容』とは、あの映画で得た情報だった。

「…ああ、まあ、体が限界でも結構動くっていうのは、なんとなく部活とかで覚えがあるからな」

「柔道部が感じる体の限界って結構こえーな。まあでもお前がいれば、こんな夜道もかなり安心だよなー」

 吉田は呑気なことを言いながらチョコレートを口に運んだ。甘い匂いが鼻腔をくすぐる。

「ふっざけんな、元テニス部は自力で逃げ切れ。誰が野郎なんか守ってやるかよ」

「はは…じゃあ、女の子だったら?」

「は?」

 西尾は怪訝な顔をして吉田を見た。さっきからこの男の軽口の中には、ちらちらと本気の陰が見える。

「言うまでもないっか。女の子だったら守ってやるよなー、てかそもそもこんな夜中に一緒に歩かないか」

「…吉田、お前」

 何で第一志望、地元の大学にしたんだ?

 それを彼に尋ねるには、まだ少し夜が浅い気がして、西尾は黙った。コンビニの強い光のせいで、星と吉田の表情は、うまく見えない。


 西尾が柔道を始めたのは、小学校1年生の時だった。当時は背が小さく、加えて生来の寡黙さもあったため、クラスでもかなり地味で目立たない少年だった。そんな西尾を両親が心配して、父方の祖父のやっている道場に通わせることにしたのだ。 西尾は、じいちゃんのことが好きだった。

「何故、柔道を極めようとするんだ?」

 ある日じいちゃんから尋ねられた言葉に、西尾は子どもながらとっさに答えた。

「強くなるため」

「何のために」

 西尾は少し考えた。正直、強くなるための理由なんて考えたこともなかった。

「えっと、道で悪い奴にさらわれそうになった時、相手をやっつけるため」

 はっはっは、と祖父は笑った。

「それは大層勇ましいが、恐らく無理だな。どんなに鍛えても、こんなにちっこいお前は大の大人には敵わない。あっという間に担ぎ上げられて、車に押し込められて終いだな。誘拐犯なんぞと闘って怪我でもするくらいなら、逃げ足を鍛えてとっとと逃げたほうがよっぽど自分の命は安全だぞ」

「えー、じゃあ、何歳になったら大人を倒せるようになる?」

「そうだな、お前のこれからの伸び方にもよるが、6年生くらいになったら倒せるんじゃないか?」

 じいちゃんの言葉がどこまで本当かはわからないが、自分は少なくとも小学校6年生までは柔道を続けようと西尾は決心した。


 西尾が6年生になり、そこらの中学生よりもよっぽど身長が高くなってきたとき、じいちゃんはまた同じ質問をした。

「なあ、お前は何で柔道を極めようと思った?」

 今度は西尾もしっかり応戦する。

「俺は、自分はもちろんだけど家族も守りたい。妹とか母さんとか、もちろんばあちゃんも。あ、ばあちゃんにはじいちゃんが付いてるからいらないか」

 はっはっは、とじいちゃんはあの頃と同じように笑った。じいちゃんは年を取って、お弟子さんの数もだいぶ減った。

「そうか、でもな、みんなもそう思っているんだ。みんなも家族は守りたい。大事にしたい。そう思って働いている奴はいっぱいいる。どんな困難にも負けず、毎日毎日、誰とも知れぬ相手と戦っているんだ。ある意味、柔道でなんかよりもずっと戦っているだろう。では、柔道を極めるお前は、さて何と闘えばいいんだ?」

 西尾は、また黙ってしまった。じいちゃんの道着の胸元辺りを見つめながら、また、刷り込みみたいな一辺倒の答えを出してしまった、と先ほどの回答を恥じた。

「じいちゃんはな、他人を守ってこその柔道だと思っている」

 西尾はじいちゃんの胸元を見ている。さっきの投げ練習のとき、まだ下手くそな中学生に捕まれてよれてしまっていた。

「他人とはな、通りすがりの、もう二度と会わない人たちのことだ。そいつらを助けて、一体何になる?」

 西尾の頭には道徳のノートの中に出てきそうな回答がいくつも浮かんだが、どれも口に出すことはできなかった。

「それはな、それこそが、お前にしかできないことだから、なんだよ。他人がピンチに陥っているとき、そいつの家族が近くにいれば、恐らく死に物狂いで助けに行くだろう。でも、家族がいつもそばにいるとは限らない。そうだろ?」

 西尾が学校に行っている間、父さんは会社で部長をしに、母さんは病院で看護師をしに行っている。昼間、3人はほとんどばらばら状態だ。

「そんなとき、誰かのピンチを救うことができるのが、柔道を極めようとするお前だよ。だから、お前には技術や体力以外に、得てほしいことがあるんだ」

 じいちゃんは西尾の目の高さまで顔を持ってきた。今度はしっかり目が合う。

「……勇気?」

「そうだ」

 じいちゃんはデカい手で西尾の頭を撫でた。

「誰かを助けに行く勇気だ。それはときに、敵に立ち向かうよりもずっと大きな勇気だ。それがあって初めて、お前は柔の道を極めたことになる」

 息を吸うように人を助けるような、そんな大人になりなさい。じいちゃんがこの話をしてくれたのは、これが最初で最後だった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る