4 言えない
西尾は、斜め後ろの空席を眺めながらため息をついた。親友の吉田は、昨日からテニス部の関東大会の遠征に行っている。西尾は誰と話すわけでもなく、後ろをちらっと見てまた前を向き直した。焦っていた。
部活動に積極的に取り組むことと、試合で結果を残すことは根本的に全く違う。自分が柔道に取り組む目的は、自分自身の心身を鍛えることで、決して敵を倒すためじゃない。ましてや、同年代の真面目な少年たちを倒す必要なんて全く分からない。そんなことに、自慢の背負い投げを使いたくはなかった。
一度だけ、西尾は練習試合に出たことがある。中学1年の時だ。
戦うために用意された独特の緊張感の中、西尾はその日の対戦相手と向き合った。自分より5cmほど背の低い、優しそうな少年だった。彼は試合が始まる前から一所懸命で、肩を回したり屈伸をしたり準備運動に余念がない。西尾と目が合ってからは、試合が終わるまで決して目をそらそうとはしなかった。
彼はすばしっこかったけれど、腕が短かった。それは本人にも何ともしがたいもので、しかし柔道の試合では圧倒的に不利だった。
西尾はすぐに相手の胸元を掴んだ。相手も負けじと食らいつく。でも、西尾の胸元に手が触れる前に、彼は宙に浮いた。
どすんっ…
「一本!」
審判が叫んだ。マットに沈み込む、初対面の少年。こいつを痛めつける理由なんて、どこにもなかったはずなのに。
「痛っ…」
ノートの切れ端で。西尾は指を切った。赤い血がガラス玉のようにぷくっと膨らみ、やがて流れる。
あの少年は、負けた後も何も言わなかった。西尾も何も言わなかった。中学での初勝利を部員が祝ってくれても、決して笑えなかった。
「俺は、何のために強くなろうとしているのか」
西尾は考えに考え、やっと上記の、自分の答えにたどり着いた。
それからは、がむしゃらに練習した。自分の心と体を鍛えるため、いつかこの体が必要になるときまで、誰も傷つけることなく強くなろう。そんな日が永遠に来なかったとしても、俺は俺を守るために、俺を創ろう。それが、それの感じる柔道への意義だ。
「なあ、次のチェックポイントまで、あとどれくらいだ?」
第一チェックポイントを通過してすぐ、西尾はまた聞いた。
「またかよ。お前、結構せっかちだよな」
吉田は地図を見ながら、あと一時間半くらいか、と呟いた。
西尾は、焦っていた。何か変わるんじゃないかと歩き出したこの道も、歩いてみれば普通の道だった。皆がどこかで遊んでいたり勉強していたりするこの時間は、二人で歩いていても何も変わらない午後9時2分のままだ。俺たちは、俺は、俺のままだ。
この不思議な旅に出ようと思ったきっかけは、同じ高校の6組、美術コースの名前も知らない奴に絡まれたからだったといっても過言じゃない。最初にちょっかいを出してきたのは、あいつの方だった。映画館を出たところで、声をかけてきたのだ。
「あ、君、うちの高校だよね?何だっけ柔道部の、えーと、西野君?」
名前を間違えられたことに対して、何の感情も浮かばなかった。西尾は、目の前の男の顔も知らなかったし、当然名前など知る由もなかった。
「君、有名だよね、強いのに試合には出ないって。意外だな、普通科で運動が得意とかいうやつでも、ここの映画見たりするんだ。あ、僕ね、6組なんだ。名前は・・・。よろしく」
西尾は今思い返しても、やはり彼の名前が出てこない。ただ相手のことを『君』と呼び、自分のことを『僕』と呼ぶ男と会話をしたことがなかったから、名乗られた名前よりもそのことの方が耳に残っている。
「今何の映画見てた?それ面白い?僕が見てたのは、スゲーぞ。夜中じゅうずっと歩く学校行事の映画」
じゃあな、西野!彼は最後まで軽快に、間違った名を呼んで走って行った。絵ばっかり描いている割には、意外と良い動き方をする。
試合直前の木曜日、西尾は部を追い出されていた。『試合前の特別強化練習期間』で、試合に出る選手のみ柔道場で実戦形式の練習を積み、出ない奴らは隅っこの方で応援をするなり水やタオルを持ってくるなりして、選手の邪魔をしないようにする。比較的人数の少ない柔道部で、3年生なのに最後の大会に出ないのは西尾だけだった。西尾が入部してからできた、早い話が西尾への嫌がらせのために生まれた練習だ。
暇を潰すためになんとなく入った映画館で、安かったから映画を見た。あまり映画には詳しくはないが、その外国映画はなんとなく面白かったような気がする。タイトルも内容もよく覚えていないけど。
その週末、大会(の応援)が終わった後、西尾は彼が観たという映画を観に行った。ある関係を持つ男女の間に起った、一晩の出来事をつづったもので、それは本当に一昼夜歩き倒すというイベントの最中だった。
何てバカみたいだと思いながら、西尾の胸は疼き出した。一晩中、歩く。部活も学園祭も、彼のように午後の時間すべてを何かに費やせるだけの情熱も、何もない。特別なことなどに何もない。そんな自分に、もしたった一晩だけでも、こんな特別がやって来たのなら。
吉田を誘ったのは、あいつがクールだからだ。あいつ以外に誰を誘っても、きっと驚かれ、理由を問われ、断られ、陰で笑われ、果ては変な噂になって広まったりしただろうと思う。
吉田は、きっとバカにしないはずだ。そしてきっと、話に乗ってくれるはずだ。終わった話をいつまでも陰でこそこそ言うねちっこさがない代わりに、彼には瞬発力と好奇心と素直な心、という人が持つ最も透明で純粋な感情を表出させる土壌がある。それを称して、西尾は吉田を『クール』と形容していた。
予想通り、吉田は特に何も突っ込まずに参加を表明してくれた。西尾は一生、このアイデアの出所を吉田には言うまいと思う。映画からパクったなんて、知らせる必要のないことだ。
「なあ、吉田。この前の進路調査票、どうなった?」
午後9時48分。この話題を出すのは少し早いかとも思われたが、他にぱっと思い付く話題がなかった。道は暗く民家も減ってきて、空には星が見え始めていた。
「いや、どうにもなってない。あのまま机の引き出しの中だよ。西尾は?もう出したんだろ?どこ大を第一志望にしたんだ?」
「俺は、K大」
「え、関西?なんでまた?」
「なんでって、行ってみたいから、関西。逆に聞くけど、お前は何でY大なんだよ。地元だから?」
「うん、まあな。地元だし、偏差値もちょうどいいし、教師も親も文句言わないし」
「一緒だよ。俺だって今まで通り勉強してればK大だって十分安全圏内だし、誰も文句言わない。それに俺は地元を出たかったし、西の方の文化圏って興味あったし。だから、K大」
「西の方ってなんだよ、西尾だから?」
「ばか、じゃあお前も、Y大のYは吉田のYか?」
「…そうかも。何かY大でいいやって気がしてきたわ」
「今の会話のどのポイントでそういう気になったんだよ」
「運命じゃね?Y大のYって俺のYだわ」
きーまった!吉田は一つ大きくジャンプして、サーブを打つときのように片腕を夜空に伸ばした。流石テニス部で鍛えた足の筋肉は見事なもので、暗闇の中で吉田の輪郭を軽やかに星に近づけ、また引き離した。
西尾には、吉田がこの話題をまだ言葉にできるほどに成熟させ切れていないのだとすぐにわかったので、それからしばらく黙っていた。考える時間は山ほどあるのだ。次に口火を切ったのは、吉田の方だった。
「西尾さあ、彼女いる?」
「…本当に、俺に彼女がいるかどうかわからなくて、そう聞いてんのか?」
「いや、俺の勘だとお前にはいないな」
「勘もくそもないだろ。いたらお前が知らないわけがない」
「それって、彼女できたら真っ先に俺に教えてくれるってこと?」
「…さあな。想像したことがないから、彼女ができたとき真っ先にどういう行動に出るのか、俺にもわからん」
西尾は素直な気持ちで答えた。彼女ができたという想像を今まで一度もしたことがないと言ったら嘘になるが、それでもそれを誰かに報告し一緒に祝う(あるいは妬まれる)ところまで想像を広げたことなんて、一度もない。
「じゃあ想像してくれよ。ある日の放課後、お前に彼女ができた。その日の夜に、たまたま俺から遊びの連絡が来た。さあ、お前はなんと返す?」
「予定がなかったら、『行く』って返す。俺は先にした約束を優先させるからな。その後彼女に誘われたとしてもお前との約束があれば断るよ」
「…愛を感じるわ。でも、俺に教えてくれないんだな」
「その日の夜なんて、彼女ができたと報告をするようなタイミングじゃないだろ」
「どんなタイミングだったら教えてくれるんだよ」
「…彼女いる?て聞かれた時とか」
「じゃあ、お前に今彼女がいたとして、やっぱり俺が今お前に聞くまでわかんないじゃんか」
何が、『いたらお前が知らないわけないだろ』だよー。と吉田は夜空に吠える。星は一層その量を増やし、民家は減っても道の明るさはさっきからあまり変わらない。家の数に比例するように星は輝きを増し、道は緩やかな傾斜を伴って二人を徐々に夜空に近づけていった。
「なんだよ、さっきから。そういうお前は、彼女できないのかよ。去年付き合ってた後輩がいたんじゃなかったのか?」
「去年はいたさ。過去の俺の方が今の俺よりよっぽど賢かった。もう彼女の作り方なんて、忘れちまったよ」
「過去のお前は知ってたのか、彼女の作り方」
「いや、知らなかったけど、それを嗅覚で嗅ぎつけるようなことができた気がする。勘みたな?」
「じゃあ、今の方が人間に近づいてるじゃんか。脱動物、おめでとう」
西尾は拳を近づけた。吉田もそれに呼応し、握った拳を西尾のそれに軽く当てる。
こつん。彼女の一人もいない男子高校生二人が、午後10時の暗闇を歩く。
「…大学行ったら、ガンバローぜ、お互い。関西の文化に負けんなよ」
「どっちが早くできるか競争するか?言っとくけど、俺その気になったら結構やる男だぜ?」
西尾は、自分がモテないわけではないことは知っていた。問題は、どうやったら女子たちが自分に話しかけ易い雰囲気を作り出すことができるか、だ。
「…ちげーよ。俺たちもう同じ大学にはいかないんだからさ、それぞれでいろんなこと頑張りましょーぜってこと。嫌だよ俺、お前と競争なんて」
ぜってー勝てねえ。
吉田の小さく繋げたその呟きに、武闘家のはしくれとしての勘のようなもので、妙な本気の響きを西尾は感じてしまった。
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