第4スクリーン ポラリスの道の彼方

1 無限の時間を歩く旅人

 星が見えた。

 街灯も民家もなく、ただひたすらに暗い道が続く。目に入れて変化のあるものなど、空くらいしかなかった。

「すごいな」

 いつもならこんなわかりやすいことに対して発言をしない西尾も、今日は呟き程度だが感想を述べる。

「…ほんとだな」

 それきり、彼らはまた黙った。夜は長く、道は長く、体は疲れ切っていたからだ。

 でも、自分の身の内に、確かに舞い上がるものがあった。ざわざわと心をなでるような、沸き立つ何かが。それらは二人を内側から突き動かしてくる。


 いくぞ、いくぞ、いくぞ。この知らない道の終点まで。この目的のない旅の終わりまで。この夜の果てまで。



 

「俺さあ、ああいうの嫌いなんだよね」

 西尾はいつも伏目がちで、親友の吉田ともろくに目を合わさない。

「ああ、あの女子たち?わかるよ、『キレイ』『カワイイ』って言っている自分が好きなだけの連中だもんな」

 吉田はよく考えもせずに同意した。似たような意見をどこかで誰かがツイートしていたのを見たことがある気がしたからだ。

 西尾は、少しまた首の角度を深めてから、少し申し訳なさそうな、もどかしそうな顔をして言った。

「うーん、そういうこと、でもないんだ。俺が言いたいのは、あいつらが、自分は『良いものに対して良いって言うことができる』、言い換えるなら『良いと感じる感性を持っている』ってことをアピールしたい人間のように見えるんだ」

 西尾の伏せられた目線の先には、窓から見える虹に群がるクラスメイトたちがいた。女子たちは甲高い声でキレイだスゴイだと騒いでいるし、その周りで数人の男子たちも大げさなリアクションをしている。

 吉田は、西尾が見抜いたことに気付けなかった恥ずかしさといたたまれなさを感じながら、でもさ、と言った。

「でもさ、楽しそうだしいいんじゃないの?虹を見てキレイって思う心なんて、いかにも現代人が失ってそうな心じゃない?」

 それを聞いた西尾は、お前はクールだ、と呟いた。それがひどく過大評価であるような、それでいてどこか突き放されたような見捨てられたような心地がして、吉田は慌てて否定した。

「いやいや、別にクールじゃないし。興味がないだけだよ、虹にも、虹で騒ぐことにも。俺って結構ばかだぜ?お前も知ってるだろ?」

「いや、クールなんだよ。クールぶってる偽物たちは、気にしないふりをしているんだよ。でもどうしても気になるから、精一杯に皮肉を言ってみたりするんだ。お前みたいに無関心でいられないんだ」

 そう言う西尾は、少しだけ寂しそうで羨ましそうだった。

「えー、それ、いいことじゃねえだろ、そんなの。それよかさあ、俺はこれを書かなきゃなんねえんだよ」

 吉田はシャーペンをノックして芯を延ばし、それを折らないように注意しながらまたひっこめた。さっきから一文字も進まず、ノックしては芯をひっこめての動作を繰り返している。  

 虹色の歓声の隙間を縫って、モノクロームのカチカチという音が、机上の進路希望調査書に黒い気配を落とさせる。

 この教室を色分けしたら、窓の付近を中心に鮮やかな色が幅を利かせ、部屋の隅に行くに従ってその彩度は衰えているだろう。そしてきっと、俺たちの周りは灰色から黒だ。と、吉田は思った。

「それ、来週までだろ?吉田の志望校ってY大じゃなかったっけ?」

 ほぼ白紙の用紙を眺めながら、西尾が訊ねる。

「まあね、家から通えて、偏差値も今の俺より気持ち高めくらい。この時期の第一志望なら、ちょうどいいんだよな」

 そういいながら、吉田の手は一向に紙に向かおうとはしない。いつまでも空しく、空中でシャーペンの芯を長く出しては、親指の腹を使ってまたひっこめている。

「この時期って言ったって、夏休み前には第一志望と併願は決定してただろ?吉田は部活も一昨日引退したし、勉強する時間もあるじゃん。Y大で書いて出しても誰に何にも文句は言われないんじゃないのか?」

 それがなあ、と、吉田はため息をついた。

「だって、これ出しちゃったらさあ、何かもう、おしまいな感じしない?」

「おしまいって?」

 西尾の問いに、吉田は頭を掻いた。おしまいじゃない、始まるだけだ。でも、この感情に名前を与えるとするなら、それはやっぱり「おしまい」の方がしっくりくる。自分でもうまく説明のつかないこの感情を、説明のつかないまま西尾に渡していいのだろうか。西尾のことだから、きっと俺の思っている以上にうまい言葉に仕立て上げてくれるに違いない。でも、それはそれで怖いのだ。

 この感情がうまく言葉になり、名前が付き、カテゴライズ化されたとき、本当に何かが『おしまいに』なってしまいそうな気がするのだ。 

「吉田が何を迷ってんのか知らないけど、それは今週の週末でも間に合う話だな?」

 西尾はそれ以上深くは突っ込んでこず、議論を先延ばしにした。いや、あとのお楽しみにとっておいた、というほうが正確かもしれない。

 なぜなら、今週末の二人にはほぼ無限と言っていいほどの時間があるのだ。長く話し込めそうな話題は、一つでも多くとっておいたほうが良い。吉田は脳みそのストックに『進路 おしまい』のラベルの付いた小箱をしまった。さあ、そろそろ俺の脳の記憶容量は限界に近いぞ。早く、今週末になってもらわないと。


 午前中からさらさらと降り続いていた雨は今や完全に上がり、うっすらと掛かっていた虹も消えた。ただの青空に興味をなくした生徒たちは、気づけば窓際から姿を消していた。

 吉田は、進路希望調査書を机の引き出しにしまった。西尾は黒板の上に掛かった時計を仰ぎ見た。午後4時45分。部活を引退して暇を持て余した3年生も、そろそろ家に帰り始める時間だ。

 雨上がりの教室は、もう秋の気配をまとい始めている。

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