6 この火が、君の未来を明るくしますように
「やあ、久しぶりだね。この前はリツコがどうも。また連絡をくれてうれしいよ」
高く細く整った鼻梁。切れ長だが甘やかな目。薄い唇を歪ませて笑いながら、古川は現れた。
「ごめんね、こんなとこに呼び出して。本当は僕の部屋で見れたらよかったんだけど、君が暫く家に帰っていないと聞いていたから、律子さんが知っている場所に集合するのはまずいかと思って」
チェーンのカフェのテラス席。今日は風がなくて、気温もちょうどいい。曇り空だから日差しもあまり気にならなかった。
「はは、ありがたいけど気にし過ぎだよ、リツコはそんな女じゃないさ。それに、僕は自分が家出をしているみたいには思っていないよ。家じゃなくても止まり木程度のものがあれば、僕には十分だから。リツコは元気?」
「ああ、完成したやつを見てもらったら、すごく喜んでくれたよ」
「そうか、それは楽しみだな。僕は彼女の芝居を録画したものを観るのは、実はこれが初めてなんだ」
「すまないね、こんな小さなパソコンだけど。建物の日陰に入れて。その方がきれいに映る」
僕は自分のノートパソコンを差し出した。古川はそれを手元に引き寄せ、自分の影に入れる。
「うす曇りだから、そんなに気にならないな。音声は入っている?」
「ああ、BGMってほどじゃないけど、風の音とか地面を蹴る音とか、鳥の羽ばたきとかね。これ、良ければ使って」
僕は自分のイヤフォンを差し出した。
「いや、いいよ。自分のがある」
古川はバックの中からごついヘッドフォンを取り出し、パソコンに繋いだ。
「さて、再生してもいいかい?」
「もちろん」
真っ黒だった画面が水色に染まり、彼女が現れた。
どうしよう、何ができるだろう。健気な君に。彼への愛が強すぎてほとんど狂気じみてしまっている君に。僕は何ができるだろう。薄暗い部屋で一人、再生スイッチを押す。真っ暗だった画面が水色に染まり、彼女が現れる。高校生だったあの頃に向かって、まっすぐな恋をすることに何の疑いもなかったあの頃に向かって、彼女は走り出す。
1分間。たった1分間だけ、彼女は画面に表れて、でも一度も僕を見ないまま、憧れの彼に向かって走り去ってしまう。
これだけの映像を撮らせてくれた君に。僕と一緒にお酒を飲んで、僕の部屋に来て、この映像を見て、僕の才能を褒めてくれた君に。僕は何ができるだろう。どうすれば君の希望を叶えてあげられるだろう。
「いやあ、すごいな。小森君はやっぱり自信があるんだね」
見終わった古川は、ヘッドフォンを外して言った。
「いや、全然だよ。是非、敦君の感想を聞かせてほしい。心持ち甘めで」
「ははは、僕ってそんなに毒舌そうに見える?こうして作品を見せてもらえるだけでも十分光栄だよ。この映像のコンセプトは何?」
「テーマは『走る』それ以上でも以下でもないよ。走りのエネルギーそのものを撮りたかったんだ」
「なるほどそれでこんなにシンプルなのか。でも、結構思い切ったね。この橋は、この町にあるの?」
「…そうだよ。律子さんの通っていた高校の通学路だったんだって」
「へえ、そうなの。じゃあ僕も通っていたのかな。ちなみに小森、いやタクヤ君はどこの高校に通っていたの?」
「僕は、トキ美だよ。電車で通ってたから、通学路の思い出とかはあまりないな」
「ははは、歩いて通ってたって、通学路に思い出なんてそうそうないさ。でもすごいなあ、トキ美とは。当時の友達とは連絡を取っている?」
「ぼちぼちかな。親せきの子が今現役で通っているから、なんとなくOBとして話がきたりもするしね」
「そうか、もしご友人と食事をする機会なんかがあったら、ぜひ僕も呼んでくれ。いろいろと話を聞いてみたい」
「…ああ、よろこんで」
古川の声は明らか社交辞令の熱量を超えていたが、僕は気づかないふりをして聞き流した。古川はまだ話し続ける。
「えっと、テーマが『走る』ってことなんだけど、何故走っている最中じゃなくて、走り出す瞬間にフォーカスしたの?これじゃ走っている時間の方が短いな」
「うん、走る行為って、何かに向かっていくためのものだろ?走っている最中ってそれを目指して割と無心になっちゃうから、ちょっと映像として貧しいんだよね。走り出す前ってのは、決意とか迷いとか焦りとか、いろんな感情を含んでる。そして、走っている最中よりも、エネルギーに溢れている」
「ああ、それはわかるな。走っている最中って、その走り自体の運動エネルギーによってある種の自家発電状態になったりするけど、走り出すってのは言わば爆発だからな。エネルギーは確かにほとばしっている。なるほど面白い視点だな、何かを目指して一心に走るっていうのは、命を燃やすってことだしね」
「…命を、燃やす?」
「そう。この前のリツコの芝居のセリフで言う、『本当の幸い』ってやつ。皆それに向かって命を燃やして生きることを、実は渇望しながら生きているんだ。何かに向かって走り出す瞬間っていうのは、それを最も身近に表した行為なのかもしれないね」
そう言って、古川は一人でうんうんと頷いた。彼の好む『本当の幸い』という言葉自体は宮沢賢治のもので、あのセリフもほとんど宮沢賢治の書いた物語の作中に出てくるセリフと一緒だということを、僕はもう知ってた。
「うーんと、いい作品だとは思うんだけど、いかんせん1分というのは短すぎるな。もう一度再生しても?」
「もちろん」
真っ黒だった画面が、また水色に染まる。君が現れる。
部屋の中で、何度も何度も画面の中の君に会った。君の足、君の髪、君のうなじ。でも決して、僕の方を見ない。
『…君の、本当の幸いって、何?』
何度も問いかける。何度問いかけても、君は答えることなく走り去る。
君の好きな宮沢賢治の本も、何度も読んだ。サソリの部分も繰り返し読んだ。煙草の灰は灰皿に山盛りになった。
井戸の中のサソリは、本当の幸いのために生まれ変わって星になった。紅い紅い、今も輝くアンタレス。
古川の後ろ髪に触れる。ヘッドフォンをした彼は、周囲の気配の変化に気づかない。少し長めの彼の髪は、女みたいに滑らかで、女みたいな匂いがする。でも律子の匂いじゃない。
その束の一筋に、僕はライターを近付けた。髪はじりじりと燃えていく。古川は気づかない。
彼はいつも麻と綿でできたシャツを着ていた。きれいにアイロンが掛けられたそれは、燃え尽きた髪の一部が触れただけでも良く燃えた。
店内にいる客たちは、自分たちの目に映る違和感を確かめるようにテラスにくぎ付けになっている。
古川は立ち上がり、わけのわからないことを叫びながら夢中で自分の飲み物を取ろうとして、プラスチックカップごとテーブルから落とした。飛び散った氷を、僕のつま先が蹴飛ばす。
今や確かめるまでもなく燃える彼を見て、店内はパニックになっていた。油は撒かなかった。延焼したら困るから。人目を避けることはしなかった。隠れる必要なんか微塵もないし、僕がやったと、君に証明する目は多いほうが良い。
店の中から若い男性の店員が出てきて、長いモップの先を使って僕を突き倒した。放火犯と直接戦う勇気はなかったらしい。地面に転がる僕は、燃える彼の頭を見上げる。遠くで「水、バケツ!」という声が聞こえる。そうだ、死んでしまったら彼女が悲しむ。
『彼の顔がどんなになったって、彼の口が優しい言葉を紡げなくなったって、いいの。私は彼の感性そのものが好きなの』
これで、彼女以外の女はこの男から引くだろう。もうそろそろ、この男は彼女の手助けなしでは生きていけないくらいに燃えるだろう。
ああでも、律子さん。この男は、君の姿に対する感想を言わなかったよ。あんなに美しい君の足も、髪も、うなじも、走り出す姿にさえ、何も言わなかったよ。
今や周囲からすっかり忘れられて取り残されたテーブルの上、画面の中の君はとっくに走り去っていて、真っ黒のモニターに真っ赤な炎が鮮やかに写る。なんて美しい炎、なんて正しい明るさだろう。
うす曇りだった空は、いつの間にか厚い雲に覆われていて、すっかり太陽光を遮っていた。僕はモップに押さえつけられながら、その映画のように美しい光景を眺める。ああ、秀平に、完成したあのフィルムを見せてやれなかった。でもきっと、秀平はきっともっとすごいものを作る人間になるだろう。
悲鳴、混乱、恐怖の中で、その男だけが赤く赤く燃えていた。ああこれこそが本当の幸い。世間は、嫉妬に狂ったモテない男の犯行だと騒ぐだろう。でも決してそんなことはないことを、他ならぬ彼女が知っている。彼女の望みを僕が知っていることを、彼女は知っているのだから。
彼女の本当の幸いが、赤く赤く燃えている。僕はサソリのように銀河を照らすことはできないけれど、サザンクロスで君を待つ十字架になろう。この赤く赤く燃える炎こそが、君の、本当の幸い。
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