5 愛するあの人を目指して
朝、6時。まだ肌寒い。律子さんは打ち合わせ通り、膝丈のひらひらしたスカートをはいてきてくれた。
「小森君、ちょっと寒いよ」
「ごめん、でも、この軽やかさが欲しいんだ」
「わかってるけど、なんか落ち着かないな」
彼女はくるくるとその場で回転して見せた。
「うん、すごくいいよ。じゃあ、早いとこ終わらせようか」
僕は彼女に準備を促す。朝が終わってしまう前に、撮らなくては。
「ここから、あっちまで走ればいいの?」
「そう、気持ちだけね。実際に映すのは走り出す瞬間だけだから、最後まで走り切らなくても構わないよ」
「ううん。走るよ」
律子さんの目は、数年前の朝に戻っている。目の前を歩く少年を見つけ、自分の心に賭けをした。撮るなら、一瞬だとわかっていた。
「…行くよ。合図をしてから10秒後、走って」
「うん」
車通りも人通りもない、田舎の橋の上。君の眼差しの先には、あの少年の背中。細くて少し猫背で、柔らかい髪が時折風になびく。その様に見とれる君。僕にも当時の風景が見えるようだ。
「…用意、スタート」
君は前を向いている。目指す先にまっすぐ向いたつま先。まっすぐ伸びた足。肩ごしから撮る君の視界。風に煽られて舞い上がる髪、現れては隠れるうなじ。いままさに、彼女の体中のエネルギーが走り出そうと昇り立つ。
鳥が飛んだ。僕のカメラは一瞬、その鳥の影と水色の空を映す。それを合図にするように、彼女は走り出した。
つま先が地面を蹴る。筋肉が躍動する。目指すその先へ、強い眼差しが一瞬映り、そのまま彼女は通り過ぎていった。彼女の去った後の一陣の風まで映してから、僕は叫んだ。
「カーーーット!OK!」
律子さんは止まらなかった。そのまま走り続け、やがて橋の反対側にまで到達すると、振り返って軽やかに笑った。こんなにもあっさりと、撮り終わってしまった。撮るのは一瞬だとわかっていた。撮り直しはできない。律子さんがあの日の朝に戻れるのは、きっと一度だけ。それを逃すことはできない。
そして、それは成功だ。きっと、誰にも負けない作品になる。
編集作業を終え、完成作品を律子さんと鑑賞した。秀平も来たがったが、最初に観るべきは制作に関わった者だけだと伝えると引き下がった。古川はそこら辺のことはわかっているようで、『第2回試写会には呼んでくれ』とラインが来ていた。
「ドキドキ、するね。私、自分がこんな風に映る作品って、今まで見たことないの」
僕の部屋の壁に向けて設置されたスクリーンを見て、彼女ははにかんだ。
「でも、自分の演技を客観視するために、誰かに撮影してもらったりしたことはあるんでしょう?」
「うん、でも、それって私の演技を均等な距離感で全部映したものなんだよね。こんなふうに、編集されて画面に意図した構図で収まっている私なんて、想像できないよ」
「じゃあ、楽しみにしてて」
僕は映写機のスイッチを入れ、部屋の照明を暗くした。
「始めるよ」
最初のカットは、彼女の足元を映したものだ。まっすぐ向いたつま先は、走り出すエネルギーを湛えている。次に、うなじのカット。スローモーションで髪が揺れる。巻き上げられた髪の隙間から、彼女の形のいい耳と頬骨の向こうに見える鼻先が映る。彼女の肩にフォーカスされた、ぼやけた肩越しの視界。この先に見えているものは、彼女しか知らない。
スローモーションのまま、彼女は走り出す。筋肉の動き、髪の動き、そして翻るスカート。背景に鳥が飛ぶ。まるで風を描いているみたいだ。スローモーションが終わり、彼女が走り去る。最後に風の気配を残して、彼女は消えた。
1分間、君は、この画面から走り去り、あとに残されたのは監督の僕。映像になってからは、残されたのは観客全員。
「…すごいね。私、もっと凝ったものだと思ってたの」
律子さんは言葉を慎重に選ぶ。
「こんなにシンプルだと思わなかった。だって、あなたは前に言ってたじゃない、少ない時間の制約の方が難しいんだって。だから、1分間の中にできるだけたくさん詰め込んであるのだと思っていた。でも、これは本当に、走り出す一瞬じゃない」
「そう。テーマが発表になる前から、うんとシンプルなものにしようって、思ってたんだ。僕は、今までコンセプチュアルな作品はたくさん観てきたつもりだけど、自分で撮ろうと思うとどうもうまくいかなかった。だから、今回は物事の本質にできる限りフォーカスしてみたんだ」
「ほんしつ?」
「そう。君の走る姿そのものを撮るんだ。君の中に走る目的があって、それを撮るんじゃなくて。走る目的は君だけの物だろ?だったら、僕は君の姿だけを映し取ろうと決めた。全く、頭から火が出そうな程難しかったよ、この編集」
「…すごいよ、これ、きっと賞を獲る。ううん、賞は獲れないかもしれないけど、絶対に審査員の目に留まる。これは、人の心に残る作品だよ」
「はは、だとしたら、君のおかげだな」
「そんなことない、あなたの才能だよ」
「違う」
律子さんは不思議そうに僕を見た。違う。撮ったのは僕でも、見せたのは君だ。
「あのね、律子さん。僕はあの日、君の芝居を見た。最後のシーンで激高する君を見て、エネルギーそのものを見た気がしたんだ。燃え上がるような純粋なエネルギーそのもの。だから、これが撮れると思った。ただ走るだけの映像なんて、本当だったら怖くてとても作れないよ」
僕は笑う。つられて、律子さんも笑う。
「だからね、律子さんのおかげ。僕がこの映像を撮れたのは、君のおかげ」
「へへへ、そんなに褒められると照れちゃうね」
「うん、だから、とりあえずこれ、お礼」
僕が差し出した封筒を見て、彼女はびっくりした。
「いや、貰えないよこんなの。そんなつもりじゃないもの。私だって勉強のつもりで…」
「でも、僕は女優の君に監督としてオファーしたんだよ。こんなショートムービーのくせに何言ってんだと思うかもしれないけど、女優として受け取ってほしいんだ」
「ううん、いらない。私、最初にお芝居でお金をもらうときは、舞台の演技って決めてるの。バカみたいでしょ、でもね、もう決めてるの」
君の目は、遠慮とか格好つけだとか、そんなもの通用しないくらいにしっかりと僕を見つめた。
「だからね、これは貰えない。でもありがとう、プロとしての私を認めてくれたのは、あなたが初めて」
そんな顔で笑いかけられたら、僕はその封筒を引っ込めるしかなかった。
「…じゃあ、代わりに君の願いを聞かせてよ。お金かからないやつ。できる限り協力するから」
「うふふ、それも無理ね。私の願いは、お芝居で食べていくことだもの。それも、自分の実力でね。だから、万が一あなたが、超有名映画監督の息子で、コネを使って私を話題作の主演に起用してくれても、だめ」
「…僕に手出しできることなんて、何もなし、か。君は満たされているんだね」
「そうでもないよ、服も欲しいしいい部屋にも住みたい。でもね、いいの。お芝居ができて友達にも会えて彼と一緒にいられる、今が幸せなの。服も、彼はあんまり気にしないし、部屋も、一緒に住める広さがあればいい。もう4日間も、帰ってこないけどね」
彼女は笑ったけど、声は笑っていなかった。この笑顔を作りながらこの液体窒素のような声が出せるなんて流石は女優だと、僕は変なところで感心してしまった。
「…帰ってこないって、古川君が?」
「敦君って読んであげて。彼、名前で呼ばれる方が好きみたい。特に仕事仲間や、そうなりそうな人には」
「…敦君は、今どこにいるの?」
「他の彼女のおうちかな。彼、お兄さんと仲悪くて実家にはほとんど帰らないみたいだから」
「…連絡しないの」
「そんなことしたら、また別れるって言われちゃうよ。そんなになるくらいなら、帰ってくるの待ってた方がまし」
律子さんは僕の方に向き直る。その眼差しは強さを超えて、ほとんど狂気じみていた。
「私ね、有名になってどんなイケメン俳優と共演しても、絶対に彼と一緒にいるの。どんなに年を取って彼の外見が変わっても、しわだらけのシミだらけのつるっぱげになっても、彼を愛すの。だって、私は他の女とは違う。彼の外見じゃなくて、口先から出る優しい言葉でもなくて、彼の感性そのものが好きなの」
小森君と一緒だよ。そう言われて僕は鳥肌が立った。
「小森君は、私のエネルギーを感じて、この映像を撮ろうって思ってくれたんでしょ?私も一緒。彼の感性にインスピレーションを受けてる。だから、彼と別れるくらいならこうしてずっと待ってるの。彼の顔がどんなになったって、彼の口が優しい言葉を紡げなくなったって、いいの」
そう言って律子さんは幸せそうに笑う。彼女はどんな気持ちで、あの橋の上から走り出した朝から今まで、生きてきたのだろう。でも僕にだって、彼女の幸せが、彼女の言うような今でないことだけは、わかった。
僕に、何かできるだろうか。この映像を撮らせてくれたお礼が、君に。希望そっくりの絶望に肩まで浸かって溺れかけてることにも気づかない、優しい君に。
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