3 尻に肉の付いた小説家
千秋楽、僕はささやかながら花束を持って映画館へ向かった。相変わらず客はまばらで、僕は前から3列目に腰掛ける。1番前だと花束が見つかってしまうし、これ以上下がると舞台上の彼女に花束を渡すタイミングを逃しそうだったからだ。
「カンパネルラッッ」
彼女の声は、少ししゃがれているようにも聞こえた。そのかすれ方がセクシーで、最初の舞台よりずっといい。
終焉が近づくにつれて、僕はそわそわと落ち着かなくなった。花を誰かに渡すなんて、そんな経験したことない。仲間のグループ展や演奏会の時に連名で持って行ったことならあるが、今回は僕個人から彼女個人へのプレゼントだ。いや、難しく考える必要はない。そのあと彼女はきっと打ち上げがあるだろうから、時間をおいてからラインを使って頼もう。改めて彼女に依頼しよう。僕の映像の主演をしてほしい。女優としての君に、頼みたいのだ。
最後、舞台の上でお辞儀をする彼女のもとへ、さっと駆け寄ってぱっと渡すところを何度もしシミュレーションする。さっ、ぱっ。さっ、ぱっ。
花屋のねえちゃんも言っていたじゃないか、花を貰って喜ばない女はいないって…。
幕が下り、また上がった。さっきまで舞台の真ん中で倒れていた彼女は、嘘みたいに元気そうに笑いながら、仲間と手を取り合ってお辞儀をした。
今だ。今しかない。僕は勇気を奮い立たせて、張り付いたみたいに椅子と仲良しになっている重い尻を持ち上げようとした。その瞬間、真横を人がすり抜けていった。
え、という声も出ないまま、僕は舞台を見上げる。背の高くて少し髪の長い、美しい男が、僕が持っているのを3つも合わせたような大きな花束を抱えて、彼女のもとに悠然と歩み寄った。
驚く彼女。大きな目はこれ以上ないほど見開かれ、それが喜びに細められた時、涙が一筋流れて落ちた。
舞台の上で涙する美しい女優。その涙を拭う美しい恋人。スポットライト。鳴りやまない拍手。これは、舞台の続きなのだろうか。
人気のない受付に、あの薄紫のTシャツを着た不機嫌そうな女が座っている。恐らく今、最高潮を迎えている舞台のエンディングに参加できないことに、すねているのだろう。
「あの、これ」
僕はあの場にいられなくて、終幕を待たずにシアタールームをそっと抜け出した。
「…え?」
女はきょとんとしている。
「千秋楽、お疲れ様でした、とてもよかったと、皆さんにお伝えください」
差し出された花束と僕の顔を、女は困ったように見比べて言った。
「あの…もう少し待てば、劇団のメンバー全員が、お客様をお見送りにここに並びます。その時に、出演者に直接渡せますよ?」
「いいんです、急いでいるので。それに、あなただってこの劇を創り上げた内の一人でしょう?じゃあ、あなたにも花を渡す理由は十分にあるわけだ」
僕はその少し萎れた花束を彼女に押し付けて、足早に映画館を出た。
「あ、ありがとうございましたあ!!」
女は大きな声で礼を叫んだ。外は雨が降っていた。僕はスマホを取り出す。つまらないニュースの通知や公式アカウントのメッセージを掻き分けて、彼女へメッセージを送った。
「僕は、君を撮りたい」
何か、変わるだろうか。
彼女の恋人は、美しい男だった。でも、彼の恋人は、彼女だけじゃなかった。
「『君を選べと言うのなら、僕は君を捨てるよ』だってさ。そこまではっきり言われたら、いっそすがすがしいものよね。」
彼女は、彼が何人の女と付き合おうが、何も言えない。
「いいの別に。彼ね、千秋楽の時、こーんなに大きな花束を持ってきてくれたのよ。バラやマーガレットや、たくさんの花がたくさん刺さってた」
「花束に『刺さってた』って言い方も変だな」
「そうね、刺さってないとしたら、なんて表現すけばいいんだろう。ああこんな時、彼ならきっとぴったりな言葉を選んでくれるのに」
「…もしかして、彼の職業って、詩人とか?」
彼女はグラスから口を離して、あははっと笑った。
「まさかあ、そんなわけないじゃん。そんな夢みたいなもので生計を立ててる人なんている?」
もう一度グラスに口をつけてから、彼女はちょっと声を低くして言った。
「小説家、なんだ。しかも、お尻にお肉の付いた、ね」
「尻に肉?痩せて見えたけど」
「ははは、小説家志望ってこと!」
彼女はグラスの中身を一気に空けてから、また笑った。酔っぱらうとよく笑うらしい。
「なるほど、ヒモとしてはかなり完璧な設定だね」
「そうよ、私に繋がっている、ヒモなの。でもいいんだ、私の稼いだバイト代で、彼がご飯食べるの、嬉しいし」
それにね、時々、演劇の脚本も描いてくれるのよ。結構評判良いの。この前の銀河鉄道の線路もそうよ。
酔った彼女は幸せそうに語る。今度応募するショートムービーの主演をすることを、最初は少し渋っていた。舞台の方に力を入れたいのだという。それを説得したのは、他ならぬ彼女の恋人だった。
「彼もね、宮沢賢治が好きなの。本当の幸いのために人生を捧げようと生きているの。あのサソリみたいに」
演じる機会を、それを誰かに見てもらう機会を、逃してはならない。映像作品への出演は、きっと君の勉強にもなるはずだ。彼はそう彼女を諭し、彼女もまたそれにあっさりと従った。こうして、第一回目の打ち合わせと称して、僕は彼女とサシで飲む機会をいただいている。
「じゃあ、ごちそうさまでした。走る練習、いっぱいしておくね」
店の入り口で、彼女は腕を振りジョギングの真似をした。
「そんなにしなくていいって。走るのは一瞬だから」
「もう決まってるんだ」
「イメージはね」
実際のところは、撮ってみないとわからない。
「リツコ」
振り向くと、彼女の彼氏≪ヒモ≫が文字通りヒモとそれに繋がる犬を携えてやって来た。
「あっくん!」
さっきまでふらついていた足を急にしゃきっとさせて、彼女は走る。つま先が地面を蹴り、かかとが空を舞う。力が風になって吹いてくるように、彼女の体はしなやかに踊りながら彼に近づいて行った。
「わあ、何この犬、あっくん飼うの?」
「んなわけないじゃん、バイトだよ、散歩代行。でもお前、犬好きじゃん?だから一緒に迎えに来た」
「ありがとう、わあ可愛い!」
彼女の顔をべろべろと舐める小型犬は、全く人に愛されるためだけに生まれてきたような外見をしていた。
「リツコ、こちらがその監督?」
彼の目が不意に僕を捕らえたので、なんの構えもなかった僕は面食らってしまった。
「そう、小森さん。東京の専門学校で映像の勉強して、何回か賞も取ったんだって」
「初めまして、古川敦です。文章書いたりしてます。もし何かお仕事があれば、こちらに」
彼女の説明を無視して、彼は僕に一枚の名刺をくれた。
『〇〇大学文学部卒、同大学院卒
Atsushi Furukawa 古川敦
mail:a-tsushi.f@×××.ne.jp
tel:080-〇〇〇〇-××××
twitter:@atsu-shi0706(Follow me!)
lineID:0706atsushi』
あつしあつしと名前の主張が強すぎて、目がちかちかする。
「良ければ、あなたの物もいただけませんか?」
名刺を交換しようとしない僕にいら立ったのか、自分から催促してきた。
「ああ、申し訳ない。僕は名刺は持っていません。連絡先を交換したい場合、必要な情報だけその場で書いて渡すようにしていまして」
「ふうん、自信があるんですね。お近づきになれて光栄です」
握手。ペンだこのない滑らかな、女のような手だ。きっとプロットから何からすべてデジタルなのだろうな。
「あなたはリツコの芝居を見て、彼女をスカウトしたんでしょう?見る目、ありますよ。ちなみにあの脚本は僕が書かせていただきました。良ければ感想を聞かせていただきたい」
「ああ、僕は文学にはとんと疎くて、有意義なお話はできないかもしれませんけど、あのセリフが良かったです。何でしたっけ、本当の幸いのためなら、この身が燃えたって構わないっていう…」
「ああ、ジョバンニの最期のセリフですね!嬉しいな、あそこは特に気に入ってるんだ。あれはきっとすごく普遍的なものとして、みんなの心にあると思うんですよね。本当の幸いのために、この身が燃え尽きる。きっとみんなそれを目指しているんだと思うんだ」
「二人とも、話が合っているみたいだね」
彼女はしゃがんで犬を撫でながら、僕たちの方を見上げて言った。
「ああ、店の入り口で、迷惑だったかな。じゃあ、小森さん、出来上がったフィルムをぜひ僕にも見せてほしいな」
「ええ、是非。感想を聞かせてください」
「喜んで」
そういうと、古川は彼女の手を取って歩き出した。
「じゃあ、小森さん、またっ!」
彼女は少しよろめいて、でもしっかり彼の手を掴んでから振り返った。
「ああ、次の火曜日に。ロケーションの候補をいくつか探しておくよ」
僕はそう言って、二人に手を振った。彼女は少し振り返してから、彼に引っ付いて歩いて行った。あの脚本に負ける気なんてさらさらない。さあ、家に帰って絵コンテを描かねば。僕の酔いは、すっかりさめてしまっていた。
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