第8話 クラスメイトたち
彼と別れた後、電車で下北沢に移動した俺達は、清宮さんと合流した。
兄を紹介したところ、彼女は微笑む。
「そっくりですね」
兄弟で見合う。
そうか?
「目元とか、鼻筋がそっくり」
そうなのかもしれない。
俺達は少し早い夕食を取ることにして、駅の近くに立つ雑居ビルの二階に入る中華料理屋に入る。
兄がどうしても中華がいいと譲らないからだ。
普通、こういう時は女の子に意見を求めるものじゃないのかと思うも、こういう人だから三〇過ぎても一人なのだと胸中で悪態をついて済ませる。
ワタリガニの四川風炒め。
麻婆豆腐。
油炸排骨。
三種の野菜炒め。
フカヒレ。
紹興酒。
円卓に並んだ料理を前に、俺達は食べるのと喋るので口が忙しい。
始めこそ、清宮さんと俺の関係、兄と俺の関係を話題にしていて、大学生活の事などを笑い合っていたが、例の夢へと話は向かっていく。
俺は清宮さんに、岸田亮一と会って話した内容を伝えた。
彼女は、彼を覚えていた。
「目立ちましたもん。すごくモテていました。そうかぁ……黒田朱美さんのこと、好きだったんですねぇ」
そこには残念そうな響きはなく、安堵する俺がいる。
兄が、ワタリガニを手で掴み、行儀悪く啜るようにして食べる。
眉をひそめてやると、彼は笑った。
「お行儀悪く食べるのが美味しさの秘訣なんだぞ、蟹は」
「あ、わかります。じゃ、わたしも」
蟹を掴み、これまたチューチューとする清宮さんを眺め、俺も蟹を食べる。
三人でチューチュー、ムシャムシャ、ガジガジと蟹を食べつつ、合間で喋る。
楽しく会話して食事をして……だが、これから重い話になっていくのは確定しているので、兄の食欲を羨む。それにしても、アイスクリームソーダを二杯も食べて飲んで、さらに中華料理をすごい勢いで食べている兄の胃袋はどうなっているんだろうか? 全く太っていないし、どちらかというとスリムでマッチョだ。一方の俺は、今の体型を維持する努力を怠ると良くない結果になるのがわかっているから、ご馳走を前に、慎重さを忘れることができない。
兄が、俺に目配せをする。
訊けよ。
こう訴えているのがわかる。
仕方ない。
確かに、兄が口にするよりも俺のほうがいいだろう。
「清宮さん、今日の報告を兼ねて話をしてもいいですか?」
彼女はうなずき、それでいて目をキュっとつぶって口を開く。
「喋り方、本当に変わらないですよね」
兄が笑う。
「コイツは、どうでもいい相手の前だと生意気な口調になるよ。だから、君はコイツに親密でいたいと思われているってことだと……」
「ちょっと黙ってくれる?」
兄を遮り、咳払いして続ける俺は、少し嬉しそうな表情の清宮さんに照れる。
唇を尖らせて目を柔らかく細めている彼女は、可愛い。
できれば、こんな事を話したいわけじゃないが……。
「今日、岸田君に会って来て、いろいろと話を聴いたんだけど」
岸田亮一の名前を出した時、清宮さんは表情を変化させる。
それは、話したくない事を話さなければならないのかという不安であると受け取れる。
俺は、彼女に岸田亮一との会話をかいつまんで報告をした。そして、いよいよとばかりに深呼吸をして、清宮さんの横顔を見つめる。
だが、彼女が先に口を開いた。
「思い出したくもない記憶だけど、話さないといけないんですね……まさか、こう繋がってくるなんて思いもしなかったです」
兄が、紹興酒を清宮さんに勧める。
彼女は、勢いをつける為にと言って、グイっと飲んだ。
「……はぁ。あの、誤解してほしくないんですけど、私はたしかに間宮さんに嫌がらせをされていましたけど、その原因は岸田君じゃないですよ」
兄が俺を見る。
俺は、彼女が真っ先にそう言った理由が、俺との関係にあるのなら喜ばしいとばかりに笑顔を作った。
「わかっていますよ。仮に、そうだったとしても過去の事だからね。俺だって過去はいくらでもあるわけだし」
「……気になる」
ボソリと言った清宮さん。
墓穴を掘ったのかもしれない。
「なんだ、もう付き合ってたの?」
兄が陽気な声を出し、俺と彼女は二人で照れた。
いや、どうなんだろうか……。
付き合っているという宣言はしていない。確認もしていない。しかし、俺はいい加減な気持ちで彼女を求めたわけじゃなく、きっと彼女もそうに違いないと思いたい。
「今は彼女の話を聴くのが先」
両手で顔をパタパタと仰ぐ清宮さんは、酔いなのか照れなのかわからないけど顔は真っ赤だ。
彼女は、蟹を食べる兄の杯に紹興酒を注いでやりながら唇を動かす。
「三年生の時、間宮さんと同じクラスになりました。彼女は有名人でしたから、もちろんですけど知ってました。仲良くしたほうがいいよと、イズミからもアドバイスされていましたし……」
森本イズミと清宮さん、そして間宮さんと岸田亮一は三年生で初めて同じクラスになっている。
「……でも、一方的に嫌われていたらどうしようもないですよね。わたしも、仲良くしようと努力したわけじゃないから悪いのかもしれませんけど、自分を嫌いだと言う人にどう接していいのかわからなくて。舌打ちされたり、背中を押されたり、机をひっくり返されていたり……ただ、わたしの場合は二学期始まった頃には終わってましたね。どうしてかなんてわからないですけど」
俺はここで、彼女の矛盾について突っ込む。
清宮さんを信じたいから、うやむやにしておきたくない。
「清宮さんは、森本さんの夢の原因が高校時代にあるんじゃないかと話し合っていた時、調べないかと言っていましたけど、その時は自分の過去に繋がるとは想像しなかったんですか?」
「しましたよ。でも、イズミの事のほうが心配だったし、二年生と三年生の違いがあったし」
彼女はそこで、俺の空いたグラスにビールを注いでくれる。
「それに、嫌な記憶ですけど、どうでもいい事でもあるんです。もう過去のことです。腹は立つし、間宮さんのことを許せないのは変わらないですけど、いちいちそれで縛られるのは馬鹿らしいですよね」
ここで兄が口を開いた。
「間宮さんに会ってみよう」
目を丸くする俺達の視線を浴びた兄は、紹興酒を旨そうに飲み、蟹の殻を口から指で摘んで皿へと落としながら喋る。
「彼女が無事かどうか。どんな状況なのか。知っておいたほうがいい」
次の行動が決まった。
日曜日。
祖師ヶ谷大蔵駅近くの間宮家を訪ねた。
マンションの最上階全てを占有していた。兄曰く、間宮家所有の建物だろうという事だった。
俺と兄の二人。
エントランスで、最上階の間宮家を呼び出す。
学校法人のウェブサイトから理事長である間宮修造の経歴へと辿り、毎朝新聞の飯田さんに連絡を取って間宮涼子の住所を手に入れた兄の鮮やかさというか、恐ろしさというか、敵に回したら面倒な相手なんだろうなという印象に呆れながら、俺は監視カメラのレンズを見上げる。
俺達の姿を、向こうは見ているはずである。
『どちら様でしょうか?』
女性の声で反応があった。
「高野と申します。間宮涼子様はご在宅でしょうか? 同級生の森本イズミさんと付き合いがありまして、使いというか、代理で参りました」
『どういったご用件ですか?』
とても不審がられている。
兄は、微笑みを保ち返す。
「高校二年生の時の件で、森本イズミさんの代理で来たと伝えて頂ければわかると思います」
なんとも豪胆である……。
男に迫られ、アタフタとしている可愛い女の子を描いている作家には見えない……。
『娘はきっと会いたくないと答えるはずですか』
母親か。
兄は、相手の発言を遮って喋った。
「会わなければ、間宮涼子さんだけではない方々に迷惑がかかることになるかもしれませんけど、よろしいですか?」
『脅してるんですか?』
相手の声に、怯えと強張りが表れる。
「そうお受けになられるということは、思い当たる節があると仰っておられるようなものです。お取次ぎください」
『弁護士の方?』
「弁護士なら、会うのですか?」
『……どうぞ』
エントランスのオートロックが開いた。
「兄さん、やるね」
歩きながら言うと、兄は笑う。
「はは……別にどうってことはない。でもこれで、苛めの隠蔽があったという確率が高まったということだね」
「でも、どうして森本イズミの代理って言ったのさ?」
エレベーターに乗り、最上階へとボックスが上昇していく。
兄は増えていく階数を眺めながら答えた。
「確かめたかったんだ。これで森本イズミは口裏を合わせたんだろうね。それをあの母親も知っていた。つまり、俺達の推測は事実に近いんだろう」
俺は、ならばと思い尋ねる。
「じゃあ、あの夢は黒田朱美の怨念みたいなものかな?」
「お前、小説家に向いているよ」
エレベーターが止まり、扉が開く。
俺は、兄でもなれるなら自分もなれるかもなんて思いつつ、外に出た。
ロビーの先は玄関で、中年の女性が立っていた。
彼女は俺達を見るなり、こちらへと言って中にあげてくれる。
二人で靴を脱ぎ、玄関から廊下を進んだ右手の部屋に通される。そこは応接間で、彼女が対面に腰掛けた。
お茶も出さないつもりであるらしい。
「娘は、会えません」
「それはど」
兄を遮り、間宮涼子の母親が言う。
「娘は、誰とも会いたがりません」
「それは困りました」
兄が腕を組む。
俺は、落ち着きのある室内を見渡す。
高価であるに違いないが派手さはなく、ここに座った人間が落ち着けるように配慮された部屋だ。良家なんだろう。
「家にはおられない?」
兄は尋ねたくせに、相手の回答を待たずに続ける。
「失礼ながら、腕に痣がありますね? どうされました?」
見れば、間宮涼子の母親の手首が青い。長袖のセーターで隠しているが、覗いている。
「あなた達には関係のないことですから」
兄は無視して続ける。
「ご主人が今は理事長で、会社経営も順調で……羨ましいですね。修造様はもうご引退で?」
「……入院しています。あの……」
彼女は、俺達を眺める。
それは、どこか哀れさを感じる表情であった。
「あの……娘のことはもう忘れてください。あの子はもう疲れてしまったんです」
兄が無表情で返す。
「疲れたのは、お母様じゃないですか? 涼子様に会えるまで、何度でも来ます」
「警察を呼びますよ」
「どうぞ。警察がいるならば事情を話して、堂々と娘さんと会わせてもらいますよ」
強い……。
相手に弱みがあると勘付いているせいか、兄は引かない。
俺は、どうなるものやらと二人を眺める。
しばらくの沈黙。
間宮涼子の母親は、すくっと立ち上がった。
「今、はっきりとさせたほうがいいですね。その代わり、外では何も話さないでください。約束、できます?」
兄と、俺が立ち上がる。
「ええ。俺達はべつに強請りに来たわけじゃない。何かをして欲しいというわけじゃない。確かめたいだけです」
兄の言葉に、間宮涼子の母親は「じゃあ」と言って、応接間から出る。
後に続く。
廊下を進み、広いリビングに出る。20帖はあるだろう。奥にはキッチンがあり、その反対側へと伸びる廊下の先に、寝室がいくつも並んでいるようだ。
もっとも奥が、間宮涼子の部屋らしい。
間宮涼子の母親が、奥の部屋の前で止まった。
母親がドアを叩く。
「涼子さん……ちょっといいかしら」
俺も、兄も、予想していなかった反応を知ることになる。
ガタン、と音が室内でしたと思うと、それは聞こえた。
「うるせぇ! クソババァ! 誰のせいだと思ってんだぁ! うるさい! 邪魔すんじゃねーよ!」
何事かと兄弟で見合った。
間宮涼子の母親は、疲れた笑みで俺達に場所を譲った。
「起きてるみたいです」
これは……どういうことだ?
「涼子は、その……SNSであちこちの人から攻撃されて、外に出られなくなっていますから」
炎上ってやつか?
「実名でやってたんですか? いつ?」
俺の問いに、間宮涼子の母親は答えずリビングへと戻っていった。
兄と俺は、どちらが声をかけるべきかと見合い、結局は兄がドアの前に立つ。
「間宮涼子さん。黒田朱美さんのことで話があるんだ」
ガタン……と音がした。
兄は、続ける。
「二年二組で、虐めはあったね?」
ガタン……バタン……。
「黒田朱美さんが自殺したのは、虐めに遭ってたからだね?」
ダン……ダンダン……。
床を、勢いよく踏みつけている音が室内から聞こえてくる。
兄が口をつぐむ。
ダン……ダンダンダン……。
音が、大きくなった。
ダンダン……ドンドン!
ダン! ダン! ダン! ダンダンダン!
音が、近い。
ガンと勢いよくドアが開けられ、俺達はそれを見た。
長い髪はぼさぼさで、異様な臭気が室内から外へと溢れ出てくる。爪は長く伸び、着古したパジャマは色合いがぼやけていた。目がギョロリと俺達を捉え、興奮で歪んだ頬と口周りが皺だらけとなっている。ひどい虫歯があるのではないかと疑うほどの悪臭を呼吸と共に吐き出した相手は、歯をカチカチと鳴らして唸るような声を絞り出す。
「く……がぁ……貧乏人……もがぁ……よってたか……たしを……けんな……ろす……カスども」
俺も、兄も、声すら忘れたように立ちすくんでしまっていた。
臭くて、醜くて、あの写真で見た女の子と同一人物とは思えない。
「こいつら……ころ……ふざけ……な……ち……すども……くそが! このぼけぇ!」
いきなり掴みかかられて、兄が後ろに転ぶ。俺は慌てて彼女の背中に手を伸ばしたが、彼女が振り回した手があたって痛みに顔をしかめた。それでも、髪を掴み、引き剥がそうとした。
ぶちぶちと髪の毛が抜ける。
「きぃぃぃいいいいいいあああああああああ!」
狂ったような叫び声は、リビングのほうから聞こえた。
間宮涼子の母親が、手に包丁を持って突っ込んでくる。
俺は素早く身構えて、伸ばされた切っ先を避けると母親を抱きとめ、腰で相手の身体を弾くようにして転がした。
母親が、娘にぶつかり、兄が開放される。
「いてぇ! くそ! このデブが!」
兄は怒り狂っていて、顔を引っかき傷だらけにされて血を流していた。
起き上がろうともがく不気味な女と、転がった包丁を拾うべく這う母親を見て、殴りかかろうとする兄を羽交い絞めにして後ろへと逃げる。
「逃げるぞ! あれはだめだ!」
俺は兄を掴んだが、彼は暴れる。
「離せ! ぶん殴ってやる!」
「やめとけ!」
包丁を拾った間宮涼子の母親が、血走った目で俺達を睨む。
ぼさぼさの髪を激しく舞わせて、間宮涼子が突進してきた。
俺達は靴もはかず玄関から外に飛び出し、玄関ドアを外から押さえて彼女達を防いだ。
兄がエレベーターのボタンを押し、俺がドアを止める。
内側から、すさまじい勢いで押される。
あの夢の再現かよ!
「来たぞ!」
到着したエレベーターに、兄が乗り込みドアを開く。
俺は、一気にボックスへと駆け込んだ。
エレベーターの扉が閉まろうとするなか、玄関から二人が飛び出してきた。
ドアが、閉じる。
「いてぇ」
血だらけになった兄の顔を見て、すぐに病院だと決めた。
黒い夢 ビーグル犬のポン太 @kikonraku
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