第7話 当時を知る人達
森本イズミが目覚めなくなった週の土曜日。
兄と俺は、岸田亮一と会った。
祖師ヶ谷大蔵駅近くのカフェで、コーヒーと紅茶、クリームソーダを俺達は囲む。
会ってみてわかったことがひとつある。
俺は、岸田亮一を知っていた。
彼は、森本イズミの夢に出てきた青年だ。
彼女と遊園地で遊んでいたのは、彼だったのだ。
もちろん、俺は確認をした。
森本イズミを知っているな? と。
しかし彼は、悩むような表情で答えた。
「えっと……誰ですか? その人」
クリームソーダのアイスクリームを舐めるように食べる兄が喋る。
「コイツの知り合いでね。同級生というか、同じ学年にいたはずですよ。高校の」
岸田亮一は、真面目そうな青年である。ちゃんと学校に通い、これからしっかりとした企業に入り、仕事に取り組み、家庭を築き、良き父親になるだろう印象だ。姿勢良く、着ているものも控えめながら安くないもので、いきなり連絡を入れた俺達に対しても無礼な態度を取らない良い青年だ。
その彼が、森本イズミを知らないと言う。
嘘とは思えない。
「覚えていません。その……高校の頃の同級生とは疎遠で……というか、会いたくないんですよね。いろいろとあって……その事で僕に会いに来たんですよね?」
親近感を覚えた。
俺も、中学や高校の頃の同級生とは会いたくない。向こうも会いたいとは思わないだろうし、記憶している奴なんていないだろう。仮に覚えているとすれば、俺に対して悪感情がある者だけだが、そういう人との関わりを断つ為にも、俺は地元には帰っていないし、これからも帰らない。そういうものと、彼も近いのかもしれないなどと勝手に思った。
兄が煙草を取り出し、岸田亮一に許可を求める。彼は笑顔で頷き、俺はと言えば、どうしてこちらには許可を求めないのかという視線を兄に送った。
「岸田さんは、黒田朱美さんを知っているよね?」
「もちろん」
岸田亮一は、悩むこともなく答えた。森本イズミの時とは大きな違いだ。
兄は赤いパッケージから煙草を一本抜き取り、火を点ける。それを吸い、俺達に煙をかけないように吐き出した。
気を遣うなら、吸うなよとは言えない。
今は、協力してもらいたい。
「黒田朱美さんは二年生の時、イジメられていた?」
「あれは……イジメだったと思います」
岸田亮一は腕を組み、何かを思い出そうとしているように視線を彷徨わせる。
「僕はでも……彼女を救えなかったんです」
「救うなんて、そんな大層なこと、誰でもできやしないですよ。俺達はただの人だ」
兄が言う。
「自責したくなる気持ちはわかるけど」
岸田亮一は、力なく笑った。
「朱美のこと、僕は好きだったんですよ」
俺も、兄も、言葉が出ない。
彼はそこで、俺達に困ったような顔を見せる。
「これは……自慢でもなんでもないんですけど……」
何を話す?
「僕、けっこうモテまして……」
そうきたか。でも、モテるだろうと思う。顔はイイし、性格も良さそうだ。着ているものから、育ちも良いはずだ。
「父親は経営者で、家は自分で言うのもなんですが裕福です。スポーツも勉強も、本当に嫌味に聞こえるかもしれませんが得意です」
嫌味にしか聞こえない。
「中学からバスケをしていて、高校の時、一年からレギュラーがガードでした。二年からはキャプテンで、全国にも行きました」
彼は紅茶を飲んだ。
兄が煙草を吸い、灰を灰皿に落とす。
岸田亮一は、紅茶のカップを受け皿に置くと同時に口を開いた。
「だから、モテました。いろんな子に告られて、朱美のことが好きだから、付き合えないって断っていたんですけど、あの二組の……朱美をイジメていた中心は、僕がそうやって断った相手だったんです」
「女の子が、朱美さんをイジメていたんですね?」
「証拠はないですけど、あの空気というか……わかります。それに男子も加わっていて、朱美はああいう子だから、反発したりとか、挑んだりとかせず……でもお爺ちゃんやお婆ちゃんに心配をかけたくないから登校し続けていたに違いないと思うんです。僕はでも、そんな彼女を守ることもできず……いや、見捨てたんです」
彼は俺達を見た。
それは、今も苦しんでいるからこそ言えることだと、言わずして俺達に伝わる表情である。
「バスケ、勉強……朱美のことは好きでも、他の事も忙しくて、いつも一緒にいなかった。登下校はしてましたけど、そういう事を話したがらない彼女を言い訳にして、僕も避けていたんです。あの日……彼女が死んだあの日、僕は彼女を見捨てたんだと思い知らされました」
俺はここで、清宮さんから借りてきた卒業アルバムをバッグから引っ張り出す。
頁を広げて、黒田朱美をイジメていた奴らの中心にいたのは誰かと尋ねる。
彼は頁をめくりながら、二年二組にいた生徒達につけられた○印を辿る。
美人だ。自信に満ち溢れた目だ。正面からじっと見つめられても動じないに違いない。
「彼女は僕に告ってきましたけど、彼女に惚れていたのはコイツです」
吾妻雄太だ。
お近づきにはなりたくないタイプであると、写真からでもわかる。
「間宮さんの取り巻きというか、グループの子達はえっと……この子は覚えているな」
田中美奈だった。
だが、他はもう記憶にないという。
「いたな……程度にしか記憶になくて……あ、森本イズミってこの子か」
彼は、森本イズミの写真を見ていた。
「思い出しました?」
俺の問いに、岸田亮一は頷くと、難しい顔を作って言う。
「ええ……嫌な子でしたよ。思い出しました……一度、僕のところに来て、僕が間宮さんと付き合わないから、自分達も迷惑してるって言われました……」
ちょっと待ってくれ。
森本イズミは、黒田朱美が苛められている原因が何であるのかわかっていつつ、それで自分たちも迷惑をしていると岸田亮一に訴えていた?
彼女が俺に話した内容と、岸田亮一が俺に話す内容の違いは、俺に、どちらを信用するのかと問うようである。
兄が彼に尋ねる。
「森本イズミさんが君にそう言ったのなら、彼女はどう迷惑をしていたのだろう? 心当たりある?」
岸田亮一は悩む。
いい加減なことは言わないという表れであると感じた。
彼は、俺と兄を交互に眺めながら言う。
「憶測でしかないんですが、朱美は何も全員に嫌われていたわけじゃないと思うんです。間宮さん……あまりこういう事を言うのも性格悪いと思うんですけど、彼女が朱美を敵対視していたから、周囲は間宮さんについたという事じゃないでしょうか。それほど、彼女は影響力がありました」
彼は続ける。
「間宮さんは、というより彼女の祖父は学校法人の理事長だったんですよ。教師達も彼女に気を遣うほどでしたから」
「……だらしない親だったんでしょうね」
兄の手厳しい指摘に、岸田亮一は苦笑を浮かべる。彼は紅茶のカップに指で触れ、掴もうかどうしようかと弄びながら答える。
「ま、僕なら自分の祖父が理事長やってるような学校には入りませんし、祖父母や親もそれを許さない人達ですけど、彼女のところはそうではなかったんでしょうね。ただ、とても綺麗な女の子でしたから、手元に置いておかないと心配だというのも理解できなくもないです」
岸田亮一はカップから手を離し、店員を呼ぶとおかわりを注文した。
「如何です?」
彼に促され、俺はミネラルウォーターにした。
兄は、一度目の注文と同じものを頼んだ。
アイスクリームソーダのおかわりをする大人を、俺は兄の他に知らない。
岸田亮一の発言から、彼は今もやはり間宮涼子を許せないのだと感じる。そして、彼女の我侭というか、暴虐武人を許していた彼女の保護者達をも憎んでいるのだと思えた。
俺は、兄はどう感じているかなと思って視線を転じると、彼の難しい顔を見つける。
それは、俺と同じ感想を持っているからというものと少し違った。
何だろう?
「岸田さん」
兄が一杯目のアイスクリームソーダを平らげると同時に喋る。
「例えば、間宮さんが何か問題を起こした時、学校はそれを隠すと思います?」
……そうか。そういう可能性か。
岸田亮一は悩みもせず答える。
「思いますね。思います」
兄はさらに尋ねる。
「例えば、黒田朱美さんがクラスで苛めに遭ってた場合、その中心に間宮さんがいたとして、それが明るみに出そうになった際、学校は隠した……と思いますかって尋ねたら、君はどう答えますか?」
「隠したでしょうね……と答えますよ」
岸田亮一はさらに発言を続ける。それは抑え込んでいたものを開放するかのような、すっきりとした表情である。
「彼女は本当に……あの学校の女王でした。不思議でしたよ。当時も、今も不思議です。女の子一人に、大人達も、学生達も振り回されていたように思います。だから、思い通りにならなかった僕への事で、僕に怒りをぶつけるのではなく、朱美にいってしまったのだと悔やんでます」
彼はそこで、席を立ちトイレに向かった。
おかわりが到着する。
店員が置いていった二杯目のアイスクリームソーダに、兄はスプーンを伸ばしながら俺に言う。
「岸田亮一も、話せる範囲で話しているに過ぎないと思えよ。彼はつまり、間宮さんの怒りが自分に向かうのが恐くて、朱美さんの事から逃げていたんだ。でも、彼女を完全に見捨てる勇気もゲスさもなかった彼は、申し訳程度に朱美さんに関わっていた……それが余計に、朱美さんに対する仕打ちに繋がっていったのだと、俺は思うね」
俺はトイレの方向を見つつ、返した。
「内申やら……いろいろとそういうところで嫌がらせをされたら嫌だったろう。同情するよ」
兄はソーダをズルズルと音を立てて飲むと、俺をチラリと見る。
「まあ、わからんでもないけどね。苛めはどうして起きると思う?」
なんとまあ難しい質問である。
俺が答えられないでいると、兄は笑って言った。
「楽しいのさ。しているほうは」
トイレから岸田亮一が出て来た。
兄が口を紡ぎ、笑みを浮かべて彼を迎える。
「そういえば」
座った途端に、岸田亮一が口を開いた。
「トイレで、思い出したことがあります」
彼は二杯目の紅茶に手を伸ばしながら続ける。
「ちょっと、さっきの卒業アルバム、見せてもらってもいいですか?」
俺は閉じていたアルバムを開いてやった。
彼はパラパラとページをめくり、「あ」と小さく声を出す。
「この子に、話を聴いたほうがいいですよ」
彼が指差した先には、可愛い女の子の写真が貼られている。卒業アルバムなので、写真の下に名前が記されていて、『清宮穂香』とあった。
俺は瞬きする。
清宮さんの、話を聴いたほうがいい……?
「どうしてです?」
兄が問うと、岸田亮一は躊躇なく答えた。
「彼女、三年の時に間宮さんに苛められていたから」
俺は腰を浮かしてしまった。
-nightmare-
彼と別れた後、電車で下北沢に移動した俺達は、清宮さんと合流した。
兄を紹介したところ、彼女は微笑む。
「そっくりですね」
兄弟で見合う。
そうか?
「目元とか、鼻筋がそっくり」
そうなのかもしれない。
俺達は少し早い夕食を取ることにして、駅の近くに立つ雑居ビルの二階に入る中華料理屋に入る。
兄がどうしても中華がいいと譲らないからだ。
普通、こういう時は女の子に意見を求めるものじゃないのかと思うも、こういう人だから三〇過ぎても一人なのだと胸中で悪態をついて済ませる。
ワタリガニの四川風炒め。
麻婆豆腐。
油炸排骨。
三種の野菜炒め。
フカヒレ。
紹興酒。
円卓に並んだ料理を前に、俺達は食べるのと喋るので口が忙しい。
兄が、ワタリガニを手で掴み、行儀悪く啜るようにして食べる。
眉をひそめてやると、彼は笑った。
「お行儀悪く食べるのが美味しさの秘訣なんだぞ、蟹は」
「あ、わかります。じゃ、わたしも」
蟹を掴み、これまたチューチューとする清宮さんを眺め、俺も蟹を食べる。
三人でチューチュー、ムシャムシャ、ガジガジと蟹を食べつつ、合間で喋る。
楽しく会話して食事をして……だが、これから重い話になっていくのは確定しているので、兄の食欲を羨む。それにしても、アイスクリームソーダを二杯も食べて飲んで、さらに中華料理をすごい勢いで食べている兄の胃袋はどうなっているんだろうか? 全く太っていないし、どちらかというとスリムでマッチョだ。一方の俺は、今の体型を維持する努力を怠ると良くない結果になるのがわかっているから、ご馳走を前に、慎重さを忘れることができない。
兄が、俺に目配せをする。
訊けよ。
こう訴えているのがわかる。
仕方ない。
確かに、兄が口にするよりも俺のほうがいいだろう。
「清宮さん、今日の報告を兼ねて話をしてもいいですか?」
彼女はうなずき、それでいて目をキュっとつぶって口を開く。
「喋り方、本当に変わらないですよね」
兄が笑う。
「コイツは、どうでもいい相手の前だと生意気な口調になるよ。だから、君はコイツに親密でいたいと思われているってことだと……」
「ちょっと黙ってくれる?」
兄を遮り、咳払いして続ける俺は、少し嬉しそうな表情の清宮さんに照れる。
唇を尖らせて目を柔らかく細めている彼女は、可愛い。
できれば、こんな事を話したいわけじゃないが……。
「今日、岸田君に会って来て、いろいろと話を聴いたんだけど」
岸田亮一の名前を出した時、清宮さんは表情を変化させる。
俺は清宮さんに、岸田亮一と会って話した内容を伝えた。
彼女は、彼を覚えていた。
「目立ちましたもん。すごくモテていました。そうかぁ……黒田朱美さんのこと、好きだったんですねぇ」
彼女はそう言い、箸を箸受けに置くと表情を硬くした。
それは、話したくない事を話さなければならないのかという不安であると受け取れた。
ここで俺は、岸田亮一と話した二年二組に関することを彼女に伝えたうえで、三年になってから、あの女王からイジメを受けていたのかという点を質す。
彼女はあっさりと続けて喋り始めた。
「思い出したくもない記憶だけど、話さないといけないんですね……まさか、こう繋がってくるなんて思いもしなかったです」
兄が、紹興酒を清宮さんに勧める。
彼女は、勢いをつける為にと言って、グイっと飲んだ。
「……はぁ。あの、誤解してほしくないんですけど、私はたしかに間宮さんに嫌がらせをされていましたけど、その原因は岸田君じゃないですよ」
彼女は、蟹を食べる兄の杯に紹興酒を注いでやりながら唇を動かす。
「三年生の時、間宮さんと同じクラスになりました。彼女は有名人でしたから、もちろんですけど知ってました。仲良くしたほうがいいよと、イズミからもアドバイスされていましたし……」
森本イズミと清宮さん、そして間宮さんと岸田亮一は三年生で初めて同じクラスになっている。
「……でも、一方的に嫌われていたらどうしようもないですよね。わたしも、仲良くしようと努力したわけじゃないから悪いのかもしれませんけど、自分を嫌いだと言う人にどう接していいのかわからなくて。舌打ちされたり、背中を押されたり、机をひっくり返されていたり……ただ、わたしの場合は二学期始まった頃には終わってましたね。どうしてかなんてわからないですけど」
俺はここで、彼女の矛盾について突っ込む。
清宮さんを信じたいから、うやむやにしておきたくない。
「清宮さんは、森本さんの夢の原因が高校時代にあるんじゃないかと話し合っていた時、調べないかと言っていましたけど、その時は自分の過去に繋がるとは想像しなかったんですか?」
「しましたよ。でも、イズミの事のほうが心配だったし、二年生と三年生の違いがあったし」
彼女はそこで、俺の空いたグラスにビールを注いでくれる。
「それに、嫌な記憶ですけど、どうでもいい事でもあるんです。もう過去のことです。腹は立つし、間宮さんのことを許せないのは変わらないですけど、いちいちそれで縛られるのは馬鹿らしいですよね」
ここで兄が口を開いた。
「間宮さんに会ってみよう」
目を丸くする俺達の視線を浴びた兄は、紹興酒を旨そうに飲み、蟹の殻を口から指で摘みだして、皿へと落としながら喋る。
「彼女が無事かどうか。どんな状況なのか。知っておいたほうがいい」
次の行動が決まった。
-nightmare-
日曜日。
祖師ヶ谷大蔵駅近くの間宮家を訪ねた。
マンションの最上階全てを占有していた。兄曰く、間宮家所有の建物だろうという事だった。必要なら法務局で謄本を取ればわかるらしい。
「ま、そこまではしなくていいだろ」
兄が言う。
たしかに、夢とは関係ないだろう。
俺と兄の二人は建物に入り、エントランスで止まる。ここで最上階の間宮家の部屋番号を押すと、インターフォンらしき音が空間に響いた。
学校法人のウェブサイトから理事長である間宮修造の経歴へと辿り、毎朝新聞の飯田さんに連絡を取って間宮涼子の住所を手に入れた兄の鮮やかさというか、恐ろしさというか、敵に回したら面倒な相手なんだろうなという印象に呆れながら、俺は監視カメラのレンズを見上げる。
俺達の姿を、向こうは見ているはずである。
『どちら様でしょうか?』
女性の声で反応があった。
「高野と申します。間宮涼子様はご在宅でしょうか? 同級生の森本イズミさんと付き合いがありまして、使いというか、代理で参りました」
『どういったご用件ですか?』
とても不審がられている。
兄は、微笑みを保ち返す。
「高校二年生の時の件で、森本イズミさんの代理で来たと伝えて頂ければわかると思います」
なんとも豪胆である……。
男に迫られ、アタフタとしている可愛い女の子を描いている作家には見えない……。
『娘はきっと会いたくないと答えるはずですから……』
母親か。
兄は、相手の発言を遮って喋った。
「会わなければ、間宮涼子さんだけではない方々に迷惑がかかることになるかもしれませんけど、よろしいですか?」
『脅してるんですか?』
相手の声に、怯えと強張りが表れる。
「そうお受けになられるということは、思い当たる節があると仰っておられるようなものです。お取次ぎください」
『弁護士の方?』
「弁護士なら、会うのですか?」
『……どうぞ』
エントランスのオートロックが開いた。
「兄さん、やるね」
歩きながら言うと、兄は笑う。
「はは……別にどうってことはない。でもこれで、苛めの隠蔽があったという確率が一割ほど高まったということだね」
「でも、どうして森本イズミの代理って言ったのさ?」
エレベーターに乗り、最上階へとボックスが上昇していく。
兄は増えていく階数を眺めながら答えた。
「確かめたかったんだ。これで森本イズミの名前を母親が覚えていたかどうかは関係ない。当時の二年二組にいた生徒が、例のことに関して間宮涼子と関わっていたことを母親も知っていた。つまり、親も承知のうえで、あのことの処置が進んだ……俺達の推測は事実に近いんだろう」
俺は、ならばと思い尋ねる。
「じゃあ、あの夢は黒田朱美の怨念みたいなものかな?」
「お前、小説家に向いているよ……その妄想力は」
エレベーターが止まり、扉が開く。
俺は、兄でもなれるなら自分もなれるかもなんて思いつつ、外に出た。
ロビーの先は玄関で、中年の女性が立っていた。小奇麗で隙のない印象だ。
彼女は俺達を見るなり、こちらへと言って中にあげてくれる。
二人で靴を脱ぎ、玄関から廊下を進んだ右手の部屋に通される。そこは応接間で、彼女が対面に腰掛けた。
お茶も出さないつもりであるらしい。
「娘は、会えません」
「それはど……」
兄を遮り、間宮涼子の母親が言う。
「娘は、誰とも会いたがりません」
「それは困りました」
兄が腕を組む。
俺は、落ち着きのある室内を見渡す。
高価であるに違いないが派手さはなく、ここに座った人間が落ち着けるように配慮された部屋だ。良家なんだろう。
「家にはおられない?」
兄は尋ねたくせに、相手の回答を待たずに続ける。
「失礼ながら、腕に痣がありますね? どうされました?」
見れば、間宮涼子の母親の手首が青い。長袖のセーターで隠そうとしているが、見えていた。
「あなた達には関係のないことですから」
兄は無視して続ける。
「ご主人が今は理事長で、会社経営も順調で……羨ましいですね。修造様はもうご引退で?」
「……入院しています。あの……」
彼女は、俺達を眺める。
それは、どこか哀れさを感じる表情であった。
「あの……娘のことはもう忘れてください。あの子はもう疲れてしまったんです」
兄が無表情で返す。
「疲れたのは、お母様じゃないですか? 涼子様に会えるまで、何度でも来ます」
「警察を呼びますよ」
「どうぞ。警察がいるならば事情を話して、堂々と娘さんと会わせてもらいますよ」
強い……。
相手に弱みがあると勘付いているせいか、兄は引かない。
俺は、どうなるものやらと二人を眺める。
しばらくの沈黙。
間宮涼子の母親は、すくっと立ち上がった。
「今、はっきりとさせたほうがいいですね。その代わり、外では何も話さないでください。約束、できます?」
兄と、俺が立ち上がる。
「ええ。俺達はべつに強請りに来たわけじゃない。何かをして欲しいというわけじゃない。確かめたいだけです」
兄の言葉に、間宮涼子の母親は「じゃあ」と言って、応接間から出る。
後に続く。
廊下を進み、広いリビングに出る。二〇帖はあるだろう。奥にはキッチンがあり、その反対側へと伸びる廊下の先に、寝室がいくつも並んでいるようだ。
もっとも奥が、間宮涼子の部屋らしい。
間宮涼子の母親が、奥の部屋の前で止まった。
母親がドアを叩く。
「涼子さん……ちょっといいかしら」
俺も、兄も、予想していなかった反応を知ることになる。
ガタン、と音が室内でしたと思うと、それは聞こえた。
「うるせぇ! クソババァ! 誰のせいだと思ってんだぁ! うるさい! 邪魔すんじゃねーよ!」
何事かと兄弟で見合った。
間宮涼子の母親は、疲れた笑みで俺達に場所を譲った。
「起きてはいるみたいです」
これは……どういうことだ?
「涼子は、その……SNSであちこちの人から攻撃されて、外に出られなくなっていますから」
炎上ってやつか?
「実名でやってたんですか? いつ?」
俺の問いに、間宮涼子の母親は答えずリビングへと戻っていった。
兄と俺は、どちらが声をかけるべきかと見合い、結局は兄がドアの前に立つ。
「間宮涼子さん。黒田朱美さんのことで話があるんだ」
ガタン……と音がした。
兄は、続ける。
「二年二組で、イジメはあったね?」
ガタン! ……バタン!
「黒田朱美さんが自殺したのは、イジメに遭ってたからだね?」
ダン……ダンダン……。
床を、勢いよく踏みつけている音が室内から聞こえてくる。
兄が口をつぐむ。
ダン……ダンダンダン!
音が、大きくなった。
ダンダン……ドンドン!
ダン! ダン! ダン! ダンダンダン!
音が、近い。
ガンと勢いよくドアが開けられ、俺達はそれを見た。
長い髪はぼさぼさで、異様な臭気が室内から外へと溢れ出てくる。爪は長く伸び、着古したパジャマは色合いがぼやけていた。目がギョロリと俺達を捉え、興奮で歪んだ頬と口周りが皺だらけとなっている。ひどい虫歯があるのではないかと疑うほどの悪臭を呼吸と共に吐き出した相手は、歯をカチカチと鳴らして唸るような声を絞り出す。
「く……がぁ……貧乏人……もがぁ……よってたか……たしを……けんな……ろす……カスども」
俺も、兄も、立ちすくんでしまっていた。
臭くて、醜くて、あの写真で見た女の子と同一人物とは思えない。
「こいつら……ころ……ふざけ……な……ち……すども……くそが! このぼけぇ!」
いきなり掴みかかられて、兄が後ろに転ぶ。俺は慌てて彼女の背中に手を伸ばしたが、彼女が振り回した手があたって痛みに顔をしかめた。それでも、彼女の髪を掴み、引き剥がした。
ぶちぶちと涼子の髪の毛が抜ける。
間宮涼子の母親が、悲壮感漂う表情で現れると、娘を抱きしめて抑え込み、俺達に逃げろと叫んだ。
「わかったでしょう!? もうわかってでしょう!?」
母親の叫び声に押されて、俺達は逃げ出した。
「いてぇ」
エレベーターに乗った時、兄が嘆いた。
見ると、顔が血だらけだ。
間宮涼子にひっかかれたのだ。あの伸び放題だった爪で……。
「病院行かないと」
俺の声に、兄は素直に頷く。
「くそ……あのデブ」
悪態をつく元気は残っていたようである。
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