第2話

二階の部屋に入り、ファイルを漁る。何処にあるのかは流石に覚えていないので、気が付いたものから順に手に取っていこう。女性はファイルを開くとともにそれぞれの思い出を巡り起こし、自然と微笑んでいた。


あっ。

あった。


女性は静かに顔を晴れさせ、小さく息を吸い込んだ。


淡くおとなしめの薄紫色をしたファイル。薄めのA4サイズのそれを胸に抱きかかえて、小さな宝物を見つけた子供のように心を躍らせ、嬉々としてピアノの方へと階段を下りていく。

トン、と一歩階段を下りるごとに、ごく軽い音がリズム良く鳴らされる。


半分ほど、その下の階へと続く段を下りた時だろうか。

ちょうど今、女性が向かおうとしていたピアノがある部屋から、美しく小さな音色が聴こえてきた。


ピアノの演奏はここ最近聴く機会に乏しかったので、身近から奏でられる旋律につい耳を傾けてしまう。聴き入りだしたころ、女性は自分が何をするつもりだったのかを思い出し、ぱっと弾かれたように我に返りまた階段を下りることに務めた。


確かあのピアノにはデモ機能はあっただろうか。

確かに、特定のボタンを押せばデモ演奏を聴くことはできる。名が知れたクラシック曲の数々。モーツァルトやハイドン、ショパンやリストなど。あまりその機能は使ったことは無かったが、昔はたまにぼうっとしながらデモをただ流していたものだった。


とはいえども、放っておいて勝手に鳴り出すとは全く知らなかった。電源を入れっぱなしにしてしまう人への対策だろうか。そういえば、電源を一旦消しておくのを忘れていた。いけない。このような積み重ねがやがて電気料的な痛手となってこちらに向かってくるのだ。


ぼつぼつと考えつつ階段を下り切る。ピアノの音はだんだん近くなってくる。

さあ何年かぶりに弾いてみましょうと意気揚々とピアノの方へ向かう。

女性が来たのに気づいたのか、そのピアノの音は止んでしまった。


突然ぷつりと曲が切れてしまったので女性は小さく驚いた。人が来たのを察知したのかしら。案外賢い機能がついていたのね、と感心してしまう。

後で思えばそんなことは無いのだが、この時の女性は懐かしさに浸っていたのでずいぶんと気が和らいでいて思考も半分ほど休憩状態にあったのであった。


ドアを開けてリビングに入る。

ピアノが置いてある空間の方に足を進める。


リビングと直接つながっているその6畳半ほどの空間には、確かに先程女性が触れたはずのピアノが相変わらず佇んでいた、が、女性の頭にはそれは認識されることはなく、むしろ真新しい対象物へと意識が注がれた。


電子ピアノと一緒に貰った、黒いピアノ椅子。それと電子ピアノの足元あたりの空間に挟まって身を隠している者がいた。


だれであろう。それがこの状況に居合わせた女性の率直な意見だった。

えんじ色の、なかなか値が張りそうなコート。それは所謂“体育座り”をして身を隠している者の足元まで覆っていた。

そしてその下にはブラウスだろうか。袖元からフリルがのぞいている。今の時代なかなか奇妙だが、それ以上に異様な“体育座りさん”の雰囲気にはなかなか似合っていて違和感は無かった。いや、女性にとっては、彼の存在自体が違和感なのであるが。

…そもそも、その者は男性であろうか。もしかしたら女性かも知れない。どちらにせよ、顔を隠されているので見当がつかないが、ズボンの服装を見るに恐らく前者であろうか。

明るめのブラウンの髪は彼によって震えている。午後の光を微かに反射して時にそれは琥珀色にも映った。


細かに震える者に、女性は様子を窺いながら問うた。

あの、どうしましたか? 、という間抜けな問い。

午後の穏やかな気候が、余計に女性の警戒心を眠りに就かせているのだろう。


相手があまりに震えてこちらに怯えているので、逆に女性は取り乱すことが無かった。むしろ相手の心配までしていたのであった。女性の立場から見て、その者は侵入者であろうに。


その者は女性の声に気づいて一旦大きく肩を跳ねさせた後、伏せられていた顔をおもむろに上げた。


その双眸は、その髪色と図ったかのように綺麗に調和している。髪色より少し暗めの、深みがある自然なブラウン。


身近に外国人がおらず、珍しいその瞳の反射色に女性は一瞬息を詰まらせた。

その茶色の深みには、戸惑いと縋るような不安の色が滲み、その双方が女性を見上げていた。


その男性は女性の覗き込む顔に驚いたのか、目を一瞬大きくさせて情けない声を漏らした。

あ、あの、 と、わななく口元が何とか言葉を紡ごうと努める。



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