第3話

こちらが情けなくなってしまうくらいに、彼は言葉に詰まり、ひとつひとつの単語に舌が突っ掛かってしまい、とうとう文章を紡げずにいた。


それに焦ることなく、女性が男性の返事を、そのブラウンの瞳に魅入られつつ待っていると、男性は自らを仕切りなおそうとするかのように、そっと喉に軽く手を当て、静かに息を吸い、やわらかな瞬きと共にそれを吐きだした。


再び男性は初対面の女性の目を見つめ、先ほどよりは落ち着いて、しかし瞳には変わらず不安の色を滲ませながら言を発した。


こんにち、は、

ところでここは何処ですか、すみません、お嬢さん。


途切れつつ控えめに発されたその言葉の短い羅列に女性は少々驚きを見せた。

その理由には、綺麗なブラウンの瞳を持つ彼が、自然と女性の母国語を口にしていたから、というのが大きい。

しかし、もう一つに、彼のやわらかで自然な発音が女性の耳に自然と心地よく入ってきたから、というのもあった。鈴の音のような、という形容が似合うように思えた。男性の声で、「鈴の音の様」と形容できるようなそれを、女性は聴いたことがなかった。


それに加え、ほんの僅かに首を傾げつつ、控えめな笑みとともに女性へ向けられた優しい口調が、あまりに彼に似合っていたので女性は驚きと共に内心うろたえてしまった。


「気づいたら私は此処にいたのです、…これは貴女のピアノですか、

 …このようなピアノは初めて見ました、少し変わっていますね、」


“お嬢さん”ってこんなに自然に言える人がいるなんて、と女性が静かに感動していたとき、その男性は次々と言葉を紡ぎ出していた。


突然はっと肩を跳ねさせ、改めて女性の瞳を見つめ直すと、彼は、自分が勝手に女性のピアノを弾いてしまったことを詫びた。

大丈夫ですよ、と弁解するより前に、女性はそのとき感じた驚きを口にせずにはいられなかった。


さっきの曲、貴方が弾いたのですか、と若干興奮気味に女性が訊く。

失礼ながらも、デモ演奏と聞き間違ってしまったが、それほど安心して聴ける完璧な弾き方であった、ということだった。


少々恥ずかしそうに男性が上目遣い気味になりつつそれを肯定すると、女性はあからさまに感動を表に出して綺麗だの上手だのの、素人なりの賞賛の言葉を述べる。


それにいよいよ男性は恥じらいととれる笑みを零して照れたように自らの頭に手をやった。


「ピアノを弾くのが好きで、」


昔から弾いてたんです、と男性は笑みを深めるが、その言葉とともに何かも思い出したようで、急に首を動かして周りを見渡して、また先程の問いを繰り返した。

女性も自分が問われていたことを思い出してはっと我にかえり、なるべく男性の混乱を呼び起こさぬようにと慎重に言葉を捻りだした。


「ここは確かに私の家で、私が一回この部屋を離れる前は、ここに貴方はいませんでした。また戻ってきたら貴方がここにいた。」


自分にも確かめるように一字一句ゆっくりと言葉にする。と同時に自分の頭の中も慎重に整理していく。


…整理していくと、この事の訳の分からなさに気が付いた。


突然頭を抱え、混乱で焦点がうまく定まらない目で男性を映しつつ、女性はひたすら「え」しか口から出なくなってしまった。


とりあえず「え」以外も口に出そうと意識した結果、むしろ「あ」しか出てこなかったので女性は今のところ意味のある言葉を発せていない。


自分の家にいつの間にか知らない人が、―彼には言い方が悪いが―、侵入、していた。

それは、今考えるととんでもないことであった。女性にとって、というよりも世間一般的に考えても普通はあり得ないことであった。少なくとも、この事実は普通に受け入れるべきことではない、という事は、今の女性にも理解できる。


突然自分から距離を置き、明らかに動揺し出した女性にあっけにとられ、男性はしばらく女性の成り行きをぼうっと見つめていたが、やがて自分がとんでもない勘違いをされているのでは、という可能性に気づき、慌てて弁解をした。


本当に自分はここに気づいたら来てしまっていたこと。先程は、…


先程は?


「先程は…何処に・・・どこにいたのだっけ…」


今度は男性が頭を抱える番だった。



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