第4話

「僕は… 僕が居たのは……どこなんだ……?」


その男性は真面目な面持ちで頭を抱え出し、そのまま自分を抱えるように下を向いた。

女性は心配そうにそっと男性を見守った。


私は誰なんだ…そう、私は―――僕は、この名前は自分の親に貰ったもので、自分の生れは…生まれは、愛すべき祖国…そう、


「――、ランド…」


苦しそうにうずくまったまま、男性は小さく何かを呟いた。それは女性には聞き取れないほどの音量だったが、男性が今必死に何かを思い出そうとしているという事は、何も知らない女性にも理解できた。


―僕は…ここに来る前、そう、いつもの宮殿でピアノを奏でていた。久しぶりに姉と会って、いつものように音を奏でた。笑っていた。僕も姉も、とても楽しそうに微笑んでいた。あのとき弾いていたのは、



男性の頭に、だんだん先程居た世界で弾いていた曲が蘇ってきた。次第にそれははっきりとして響いてくる。思い出す。思い出した。

それは祖国のポロネーゼ。僕が、一人の祖国を愛する人間として、また、私が、作曲家としても、共に愛した…いや、愛している曲。



「あの、」と女性は声を掛けようとしたが、どうも戸惑った。自分が彼を邪魔してしまうのではないか、という事を一番懼れた。

ああどうも、彼はつい先ほどの瞬間まで、ほんとうに互いに何も知らない赤の他人であったろうに。つくづく私はお人好しというか、きっと悪い人に目を付けられればすぐに死んでしまうだろう。

…まあ、今までも、何人もの人にだまされてきたわけだが。


女性はそうやって自らの過去をいつものようにふと思い出して、いつものように哀しい感情を胸に呼び起こした。ああ悪い癖。過去はどうしようと取り返せるわけでもなしに。


それと同時に、男性も過去の何かを思い出したようだ、やおら頭を上げ、それを抱えていた両手をゆっくりと離す。

彼の瞳孔は動揺からか大きく開いていた。無理は無いであろう。


今までぴたりと静止していたその男性の行動で、ついつい本格的に回顧を始めかけていた女性の思考はぷつりと止む。

同時、一瞬忘れてしまっていた彼への心配もすぐに呼び起こされる。


「大丈夫ですか、」と反射的に声をかけてから女性ははっとした。

つい先ほど自分に注意を促したはずなのだが、本当に、「お人好し。」

呆れに近い笑みを自分に向けて、いつものようにそんな自らを仕方ないやと受け入れてむしろ前向きな気持ちとなる。

いつもこうだ。定期的にこの「回顧行事」は行われる。自然とはじまり、自然と終わってゆく。

こんな馬鹿のようなこと…、とまた思考に耽ってしまうところの女性を、男性はその声で止めた。


「思い出した…!」


静かな叫び。ふたたび女性に向けられたその瞳は、相変わらずの動揺に混じり、歓喜と微かな希望の光が映って揺らいでいた。


女性もそれにつられ、心が救われたような気分になる。

嬉々と逸る気持ちに動かされ、女性は男性に相槌を入れて次を促す。


それに返された男性の言葉は、女性を混乱させるのに十分ではあった。

男性は「僕」と言い掛けて慌ててすぐに一人称を正した。幼年期に教育されたせいであろうか。


「…、…私は、宮殿で姉とピアノを奏でていたところで、急に気が遠のいて…、次に目が覚めたらここにいました!」


「?」、という記号があまりにも似合う表情を浮かべ、女性は文字通り首を傾げた。腕を組んだままの彼女の頭が横にかたむく。


それとは対照に男性は思い出せた喜びからか表情をぱあと晴れさせている。

その彼の周りでは和やかで明るい雰囲気が放たれている。


静止。

その少しの間、女性は自分に向かって彼が言ったことを飲み込み、男性はその達成感からくる歓びに浸っていた。



突拍子もないことを言われた女性は、また訳の分からない奇声を発してしまいそうになるのを制止し、なるべく落ち着いて平静を保とうと努めた。なんとか叫び以外の真面な言葉を紡ごう。女性は混乱する頭をどうにか鎮めた。



「あの、お怪我等はありませんか」


辛うじて紡いだ言葉はそれであった。ともかく目の前の急に現れた男性の無事を確認することが今の女性にできることだろうと判断したらしい。


女性はおずおずと遠慮がちに手を差し伸べた。未だ男性はピアノ椅子の側でしゃがみ込んだままであったので、窮屈そうにも見えたからだ。


「ありがとう」


突然の気遣いに目を丸くしていた男性だが、その厚意を理解するとすぐにまた笑顔を見せてそっとその手をとった。


とった、というよりはただ手を乗せたのみに近い。そのまま男性はもう片方の空いている手で床を押し、両足で体を支えて立ち上がった。


自然と手は離される。女性は若干困惑していた。平静を保っていたといっても、やはりまだ目の前の人間の存在がどうも現実味を帯びてこないからであった。

ただ手を触れた感覚が確かに女性に伝わってきたので、そろそろ彼女は、男性が本当にこの空間に存在している一人の人間であるという事を実感せねばならなくなった。


立ち上がってそのまま、男性は辺りを見渡した。天井の電気やソファなどの見慣れない家具が男性の目に映る。


わあ、とても変わった家具だ。

男性は好奇心に胸が躍った。新しいものを目にすると、どんな状況下に置かれようと、人は知的好奇心をくすぐられずにはいられないようだった。


「わああ、あれは、」


なに。と男性は驚いたような声をあげて女性に問う。

一点を興味深そうに見つめる彼が指差したその先を延長していくと、壁に張り付いている白き箱、恐らくエアコン、に目が止まった。


ああ~、と女性は謎の気の抜けた声をあげて、どう説明するものかとすでによく回らなくなった頭で考えた。



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