第8話 rondeau
彼は眠ったようだった。
大学の課題にひとまず一区切りを付けた女性は椅子に腰掛けたまま後ろを振り返った。
彼には割と柔らかいソファで寝てもらっている。丁度リクライニングがきく物にしておいて良かった。この時ばかりは過去の自分を有り難く思えた。
―あれから10日になった。いちいち目新しい家電や家具を見てはあからさまに驚いていたその男性も、最初よりは大分この環境や生活に慣れてきたようで良かった。
彼はその新鮮さを楽しみつつちゃんと受け入れてくれているようだ。出会って二日目にはシャワーの使い方を教えたものの、早速三日目の夜に風呂から上がってきた彼は「シャワーに暴れられた・・・」と、どうやらぶつけたらしい肩を擦りつつ涙目で訴えてきた。彼には悪いが、それは密かに女性にとって微笑ましい思い出だ。
その時は今眠る彼の纏っているものと同じ白いバスローブを着てその上から労わるように自らの肩を擦っていた。それからはようやく慣れたのか、もうどこかをぶつけた様子は見られなくなった。そんな女性もたまに注意散漫になった時にシャワーを手から離してしまい軽い怪我をしたことは過去に何度かあるのだが。
涙目の彼は失礼ながらも微笑ましいような可愛らしさがあったのだが、それでも痛い思いはなるべくして欲しくないのでとりあえずひとつシャワーの使い方に慣れてくれたのは一安心だ。
―数奇な運命もあるものだ。
あの日、―初めて出会った日、は休日だったのだが次の日からは大学があった。
結局月曜、火曜と休みを取り、その二日でなるべく彼の身の回りの説明に努めた。
オリエンテーション的な楽しさはあり、それは彼も一緒だったようだが流石に19世紀の人に生活用品を一つ一つ説明してゆくのは大変、主に語彙力を絞り出すことで頭が疲れた。
しかしその後に飲んだココアは最高だったな・・・と仕事後の達成感と軽い開放感を思い起こす。その状態を思い出すと同時に、ああ寝なければ、と思考の時間軸が今に戻される。
女性のベッドがあるのはこの隣の部屋だ。
申し訳なくも作業机がこの彼が眠るソファと同じ、この部屋に置いてあるので「大丈夫ですよ」という彼の言葉に甘え、ここで電気を付けて課題を進めさせてもらった。
机の上に広がる紙たちをひとまとめにし、椅子から離れる体制をとる。
普通に物音を立てても、彼はひとつも起きる気配を見せなかった。ただ、規則正しいリズムを柔らかな布団に刻ませているだけである。
―相当、きっと、疲れているのだろう。
彼女はいたわる様にふっと息と微笑をもらして椅子から立ち上がる。それは苦笑にも似たような力無いやわらかなものであった。
それと同時に、女性は、自らも彼の疲れを映すかのように同様疲れているのだと悟った。
あぁ明日も大学だ。そう心中で呟く。やはり自ら進んで通っている場所はとても楽しい。平穏の中にも小さな驚きと発見が喜ばしい。女性はその明日に向けて前を向き直し、しかしもう一度、眠る彼の方を向き直り、安静をしっかり確認してから確かな安堵を得て、部屋の電気を消して静かにドアを閉め、自分の安らかな睡眠場所へと足を向かわせた。
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