第7話
えっ、フ、フレデリィク…? とそのまま異国の響きをいくらか反芻したのち、女性は半笑いの口元のまま目の前の彼を見つめて固まってしまった。
「…ちょっと待って下さい、」
そう言うと、カップを持ったまま動き出した女性は静かに椅子から腰を下ろし、何故か恐る恐るというように下を向いたまま椅子を戻し、カップを持っていない右手を伸ばして手のひらを彼に向けて「ストップ」とジェスチャーしたまま後ずさりした。
奇妙な後退りに彼は「あっ、お茶こぼさないようにね、」と心配そうに座ったまま彼女を覘き見るように上半身を傾け、声をそっと掛けた。
その言葉でやっと女性は自分の左手がカップの取っ手を掴んだままだったという事に気づき、まだ顔を下に向けたまま素早くカップをテーブルにそっと置き戻した。
きっと彼の顔を見られないのであろう。きっと、見たらさらに女性は混乱するのであろう。
両手が空いた彼女は、今度は両腕を前に出して両掌を垂直に彼に向けて「動かないで」と念じるような格好のまま後ずさりを再開し、ある地点で切り替えるようにさっと背を向け二階へ続く階段を駆け上がった。
女性は自らの書斎のような部屋に入り、本棚のある本を漁り始めた。確か高校の時、学校で音楽の資料集を買わされたはず。絵や写真が綺麗で、捨てるのが勿体無くて確か取っておいた・・・はず。 頭で必死に過去を思い描きながら、女性は思い当る場所すべてを探った。
・・・あった。学校で配られる本にしては大きめの、表紙もパイプオルガンの写真で飾られた綺麗な資料集。厚さは0.5から1cm程。そんなに分厚くない。その割には高かった記憶がかすかにある。
そんな思い出に浸っている場合ではない。彼女が知りたいのは、かの、彼が発音したはずのあの名の欄だった。音楽の資料集なら載っているだろう、と踏んでこれを探したのだ。逸る気持ちとともにページを捲る。
その手はぴたりと止まった。あった。「音楽の歴史」と題された、最後のほうに年表と共にまとめられたもの。
「ロマン派」の区分けに入っている、見慣れた文字と先程耳にした音が頭の中で一致する。
その名の下には生まれ年の4ケタのアラビア数字。飾られた字体で「1810」と。
それを確認し、頭に叩き込む。1810、1810…1、8、1、ぜろ。
…よし、と女性はその資料を本棚にしまい、すっくと立ち上がった。
心なしか堂々とした足取りで、女性はなぜか意気込んで彼のもとへと向かった。
「1810…」
一致した。彼から紡がれた数字は、つい数秒前に女性が必死で叩き込んだその4ケタとぴたりと一つ違わず一致した。
耳に入ったその数字を自らの口で繰り返して確認する。ああ一緒だ。
一方男性の方は、突然戻って来た女性にいきなり自らの生まれ年を訊かれ、反射的に答えたものの何故いきなりそれを問われたのか不思議に思っていた。
「そ…そうですか…すみません」
女性ははっと正気に戻り、色々なことをその五文字にこめて謝罪を告げた。
女性がどうしていいか途方に暮れていたとき、その問題の原因そのものである男性は、立ちっぱなしでどこも捉えていない瞳のままの女性を見守ってから顔を晴れさせ口を開いた。
「…!、もしかして、僕の事知ってます?」
一体彼が今いくつなのかは知らないので、元の世界ではまだ国外にまで名を轟かせてはいないのか、それとももう世界に翔け出した後なのかよく分からない。
ただ、自分が音楽家として著名であったとしたら、それは男性にとって少なからず喜ばしいことであるようだった。
女性はその声を耳に入れ、静かに肯いた。
男性は椅子から降りてそっと女性のほうに足を進めると、気遣うように彼女の手を取った。
「そんなに遠くまで僕の名は届いているのですか。」
こうえいです、とやさしく言葉を紡ぎ、男性は腰を軽く曲げて、下方から女性の顔を覗きこんだ。
まだ女性は虚ろな瞳のまま、何かを口にしようとしたのか、しゅっと息を吸い込んだ。
そして男性の顔から外れた方向にぼうっと目線を投げたまま言い放つ。
「あの、貴方は行くところは無いんですよね」
えっ、ああ・・・うん、と男性は頭を軽くかいてばつが悪そうに目線を女性から外して苦笑いをする。
「じゃあ、家にいてもいいですよ」
女性はようやく男性の瞳を見た。
「えっ」
それこそ驚いた、というように男性は目を丸くしてぱっと女性の方を見た。急に目線が合うので男性は一瞬狼狽えた。
普段、目を合わせることには何とも思わないし、むしろ自分から目を合わせようとする方なのだが、今の男性は、少しの事にも動じるほどには十分に動揺していた。
・・・だが、それ以上に動揺していたのは女性のほうである。自分が半ば夢の中にいるようなぼうっとした意識のまま口走ってしまったことの意味を今更理解してしまった。
な、なにを言っているんだ私は…!と顔を覆って声にだし、その声に自分ではっとする。弾かれたように男性の方に意識を向けると、男性は、女性の心配に反して明るい表情をしていた。
震えた声で「本当?」と呟く様に女性に向けて問う彼に、女性は特に何も考えぬまま決心した。あ、この人家に置いといても大丈夫かな。
男性の瞳は自分が縋れる希望の光を突然目にした人のように眩しいくらい輝いていた。
もう口にしてしまったことを撤回する気にもなれず、半笑いで「いいですよ」と答えた女性の声は思った以上に朗らかだった。
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