第9話solo
彼と出会って、というよりも、彼が突然家に訪れてから二週目の休日。
昨日は世間でいう平日だったが、しょせん大学生は割と自由である。金曜日だし講義は午前中だけ受けて午後すぐに家に帰ってきた。
「あっ、今日は早いね」、と女性を迎えた彼は二階で本を読みながらCDを聴いていた。
一人暮らしだし電気代含む生活費の増加はたとえ少しだろうと中々に痛い。しかし音楽家の彼にとって音楽はきっと恋しいし必要不可欠だろう、そして自分が偉大な音楽家の才能が伸びるような機会を奪ってしまったら申し訳がなさすぎる、と女性なりに葛藤した結果、結局CDプレイヤーの使い方を紹介してしまった。
きっと毎日のように聴くのだろう…と覚悟していたが、意外とそこまでしょっちゅう嵌まってしまうことは無かった。女性は胸を撫で下ろした。
それよりも、彼は毎日のように電子ピアノを弾いていた。幸い、女性の家は住宅地からもほど遠く、加えて一軒家であるので音が洩れる心配はないと思うのだが、きっと洩れたら噂がそのうち広まってしまっていることだろう。彼のピアノはたとえ凡人が聴いても一瞬で分かるほどに技量の高さが並外れている。
それを自分が贅沢にひとり聴いてしまっていることを思うとどうもいたたまれなくなるのだが、どうしようもない。混乱は避けたいのでとりあえず現状維持である。
女性は彼の側に腰掛けて、その本をなんとなく覘きこんだ。自分が貸した本だから内容など分かっているのだが。
それは「美術 Ⅰ」だった。本は本でも、中学校の美術の授業の際に手にした資料集である。教科書だか資料集だかよく区別がつかない、すべてカラーページの、写真だらけのものだ。
暇すぎるのは可哀想だと思い、かと言ってその「ポーランド」語の本など見た事すらなく、ましてや本棚にあるはずもないのでとにかく言葉が理解できなくとも楽しめる本を取り出してみた。案外好評だった。言葉が通じずとも通じるものの存在はとても時に便利で有り難いものだと女性は実感した。
彼は、女性の母国語を理解することはできても読むことはできないようだ。それを知った際は不思議に思い女性は驚いたが、深くは考えないようにした。
休日である今日も彼は楽しそうに音楽に浸っていた。
彼は、音楽を奏でていないときでも音をその周りに纏っているようだった。これがオーラというものだろうか、と女性はふと感じた。
まだ午前のゆっくりとした時間。10時を回ったか回らないかくらいだ。
朝食を終えた二人は簡単な身支度を各自整えると、男性の方の提案でピアノに向かった。
女性の方の感覚だと、数日も同じ服を着るのは慣習的に憚られることだった。その為、あの日に着ていたお高そうな服一着しか持っていない彼の服を用意する必要があった。
やはりあの立派な本物アンティークものに釣り合うような服は思い当らなかったが、とりあえず近くのリサイクルショップで新品未使用のブラウスとズボンを購入した。中古を買うのは流石に遠慮するので気持ちばかりの新品だ。同じ新品を買うのなら、と、新品同様でも値段は安いリサイクルショップで財布を労わりつつの購入に踏んだ。
彼のその近世の服装をイメージしてなんとか買ったフリル付のブラウスと、かぼちゃズボン風にふわっと膨らんで裾が細くなっている長ズボンを、今日彼は着ている。最初は2着買って、それからはそのリサイクルショップに気が向く度に通い、似たようなのを見つける度に買い足していっている。
女性は、隣の彼にちらりと目を配って、その服が似合っていることを確認した。買うときになんとなく彼のもともと着ていた服を意識していたことで、あまり違和感のあるチョイスにはなっていない。…と、思いたい。
…しかしチョイスがどうこうというよりかは、彼のもともとの上品なオーラが、服のフリルを上品な雰囲気に染め上げている、という方が正解だろう。男性の「弾いていい?」という問いかけの声で我に返り、女性は慌てて返事を返した。
ピアノの前へ腰掛けるその背中を見つめつつ、女性は思った。
―彼には、今が“現代”であることを、そういえばまだ伝えていなかった。
その他の事に忙しくて、その事実を彼が知らないということがすっかり頭に無かったのである。
――あっ、と声を掛けようとして女性は止めた。ピアノに向かう彼は、私なんかが止めてはならない。
カチ、と電子ピアノの電源が入れられた。
――終わったら言おう。
ポン、と彼が適当な鍵盤を押して音を確かめる。ドかな、と女性は適当に思った。女性には特に教育された音感は一切備わっていない。しかし、ひたすらに「一般人」に徹底しているということは逆に女性を安心させた。
男性は体制をすっと整えた。これから弾く。それが一瞬で空気に伝わった。彼の周りの空気の流れが一瞬だけ止まり、一つに固まる。
しかしそれは即座に動き出した。それは先程よりも活き活きと、彼に動くべき流れを途端に与えられたように、空気が彼の周りを振動する。音が奏でられる。
テレビの画面を見ているように感じられた。
常人じゃない。 語彙力のない彼女はぽかんとそう思った。
やはり彼は「彼」だ。ピアノを弾く姿は、今まで彼女が目にしてきた人とは明らかに一線を画していた。違う。雰囲気そのものが。生まれ育った環境が全く違う、という事は容易に想像できた。
…ふと、気づいた。
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