第8話『今が与えられた猶予だ』

「GRGGGYAAAAA!! 」

 グレイが切った啖呵に呼応するかのように、ブリティエグさんが咆哮を上げてクソ野郎に飛び掛かった。

「ッ……!!」

 ブリティエグさんの動きに気がついていなかったのは、俺だけではなかったらしい。クソ野郎もまた、背後から迫り来る脅威に先程までの余裕ぶった笑みを崩した。

 一瞬のうちに、動揺、困惑、憤怒、様々な表情が百面相のように浮かんでは消えていった。

 そして、最後に顔に表れたのは、そのどれとも違う表情だった。


「不意打ちかァ……負け犬らしい姑息な手だなァ?」


 嘲笑。


 絶体絶命だった筈の状況で嗤うその男を、俺は理解できなかった。

 何故この状況で嗤えるのか。

 ブリティエグさんが成人男性を優に凌ぐ体格で、優に凌ぐスピードでクソ野郎に迫っているのに何故。

 しかし奴の次の行動が、俺の疑問を完全に打ち砕いた。


「……“偽典・ニーベルンゲン/バルムンクバルムンク・レプリカ”」


 その言葉と共に中空から黄金の柄に蒼玉が埋め込まれた大剣が顕れ、ブリティエグさんを貫いたのだ。

「Grraaa……!!」

 大剣に大地に繋ぎ止められたブリティエグさんは、自らの勢いによって身を裂かれることとなった。傷口から吹き出した血が、周囲一帯を赤く染める。

「おいおい、これで終わりかァ?」

 返り血を浴びながらもなお嗤うクソ野郎の笑みに、俺はもう先程までの軽薄さを感じられなかった。こいつは、ヤバい。直感がそう告げていた。


「まだだ!!」


 そんな化け物にも怯むことなく、グレイは果敢に斬りかかる。鋭く、ブレのない一閃は、グレイの努力の賜物なのだろう。先程俺に詰め寄られてタジタジになっていた奴と同一人物のものだとは思えない、見事な剣だった。

 本来ならクソ野郎の命をも刈り取っていたであろう一閃。


「“偽典・ニーベルンゲン/ジークフリートジークフリート・プリテンダー”」


 しかし、その剣先は傷ひとつつけることすら叶わないままに掴まれ、叩き折られた。奴が何かを言ったのと同時にクソ野郎の全身から湯気のように赤いオーラが立ち上ぼり、纏う雰囲気が更に異常なものになった。

 そして切り込まれた勢いをそのまま跳ね返すように奴の拳がグレイの腹部に突き刺さり、耐えきれず吹き飛んだグレイはそれでも直ぐに2本目の剣を抜く。その瞳は圧倒的な力の差を知っていてなお、闘おうとしているように見えた。

 一方で俺には、グレイを気遣うような余裕は残っていなかった。俺は、クソ野郎の動きを捉えた眼を、ただただ信じきれずに当惑していた。ただでさえ速かった動きが明らかにもう一段速くなり、踏みしめた大地が押し潰されてひび割れていたその姿を信じられなかった。いや、信じたくなかった。

 こんなのは最早、人間ではないだろう。それこそ神の領域じゃーー


 その時、俺は理解した。


 ーーああ、なるほど。こんなんがいるのなら、そりゃ神とやらもいるだろう


 そして俺は、目の前にいる存在の認識を「嫌なやつ」から「人智を越えた脅威」へと切り替えた上で「如何にしてこの場を切り抜けるか」へと思考をシフトさせた。少しでも頭を回し、良い案を考え出そうとした。


 それは、今にして思えば実に悠長なことだった。目の前の脅威は、止まってはくれない。対策を考えるのにも、先立つ猶予が必要になる。

 そう、俺が愚かにも目の前のことから意識を逸らしていたほんの僅かな間に、目の前まで「脅威」が迫っていたのだ。その事に俺が気がついたときには、俺の頭は掴まれ、喉が締め上げられていた。

「ガッッ……!!」

「おい、さっきはよくも偉そうな口をきいてくれたなァ?」

「……エク、セルから……離れろ」

 動かせない頭部の中で眼球だけを素早く動かして確認すると、グレイが膝をついているのが一瞬目に入った。

 息も絶え絶えでなんでさっきあったばっかの俺を心配しているんだ。そんなことが頭を過ったが、腹部への衝撃で掻き消された。

 顔色ひとつ変えないが目の前の男に蹴りを入れられたのだ、今度はそれを一瞬で認識した。

「テメェをどうするかは、グレイをいたぶり殺したあと決める」

「グッ、ガァッッ………」

 俺は、首に掛かった手を締めながらクソ野郎が言うことをただただ聞くしかなかった。


「あァ、1つ聞いとくか。テメェ、最初に目が覚めた前、夢ん中で何か言われたかァ?」

「な、なんのごと、だ……」

「チッ、マジでハズレかよ。もういいや、寝とけ」

 咄嗟に嘘を言った途端、露骨に興味を失った奴は俺を近くの気に向かって投げつけた。俺は石でも投げたかのように真っ直ぐな軌道で木にぶつかり、地面へと崩れ落ちた。

 背中を強く打った衝撃で、息が詰まり意識が俺の手から遠退き勝手に現実逃避を始めた。


 あぁ……クソったれ、どうしてこうなった……



 そう、これが今までのことだ。目の前でクソ野郎こと講師様がグレイと戦って、いや、いたぶっている。

 たった数秒とは言え、俺はまた貴重な時間を無駄にした。

 ほんの僅かな時間、この今が与えられた猶予だ。考えろ。


 こっからどうしたらいい。そもそも俺になにができる。


 このままでは俺は単なる足手まといの負け犬だ。

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