第28話 端緒

「新くん、今日は、今日こそキッチリ聞かせてもらうから!逃がさないわよ!」


岡野は強気な言葉とは裏腹に目は潤んでいた。しかし目尻はありえないぐらい吊り上がり、大きな目はいつもの数倍大きく見開かれ、口は真一文?やや右上に上がっている。なんと眉間に皺まで…。

猛獣にジリジリと追い詰められた兎のように、壁と岡野に挟まれ、耳元に小さくドンと鈍い音がした。本来ならキュンな壁ドンまでされ違う意味で心臓がキュンと縮こまってはいるけれど。

今この状況に陥っているのは、二ヶ前のあの日から始まった。


いつもの日仏戦争が糸里酒造の家宝である古井戸で繰り広げられた、その夜。


「岡野、遅かったな。残業か?」

「うん、今、新くんの家の前なんだけど…。」

「どうしたんだよ。いつも勝手に入って来てるだろ?」

「飲みに行かない?」

「いいよ。直ぐに出るわ。」


 今朝、岡野が来た時には日仏戦争の真っ只中で、岡野が早朝から来た理由も聞く暇もなかった。


「悪かったな。なんか用があったんじゃないの?」

「まぁね。たいした用事じゃないから帰りにでも寄るね。」


 今朝はそう言って別れたが、時計を見るともう直ぐ20時になろうとしている。たぶん急な残業だったんだろう。しかし、この時間からだとそう長い時間は付き合えないな。

 岡野との電話を切り、椅子の背にかけていた上着を掴んで外に出た。

 岡野は曾祖父さんが建てた古びた石の門に寄りかかり、俯いて待っていた。


「よっ!おつかれ!メシは?」

「まだ。」

「じゃあ、行くか?」


 そう言うと岡野の返事を待たずに母家の方に向かって歩きだした。


「新くん…?」


 岡野は訝しげに小声で呼びかける。

 ハイハイ分かってますよ。


 "飲みに行こうって言ったのに何で家に戻るの?もしかして家飲み?"


 って思ってるんでしょ?



「飲みに行くんだろ?ついでにメシも?いい店があるんだ。」


 岡野について来るように合図を送ると、岡野は渋々といった感じでついてきた。

 玄関前で岡野を待たせて、家の中に入ると親父は居間でテレビのバラエティ番組を観ながらバカ笑いしていた。台所で食べ物を物色していると、物音に気づいた親父はチラリとこちらを見て直ぐにテレビの画面に視線を戻した。


「母さんは?」

「風呂屋。マリーちゃんと裏のバァさんと一緒だから遅くなるんじゃないか?」


 俺の問いかけに、欠伸まじりにこたえる親父に、ふーんと興味なさげに俺も相槌をうつ。

 手近にあったレジ袋に酒のつまみになりそうな物と、腹の足しになりそうな物を適当に選んで放り込むと、玄関前に戻る。岡野はジャケットの前を合わせて、寒そうにしていた。


「悪い、待たせて。」


 謝る俺に、軽く首を横に振った。

 俺が蔵の方を指差すと岡野は(ああ、いい店って蔵のことね?)納得した顔で着いてきた。

 蔵の正面の扉ではなく、事務所の裏口のドアから入った。蔵の正面の扉はシャッターを上げてから開けなければいけないので、蔵を閉めてから用がある時には、みんな事務所のドアから入って用を済ませる。

 事務所の電気をつけ、ストーブを持って蔵の奥に入って行った。蔵は縦長になっていて、ちょうど中程に蔵人が休憩したり話し合いをしたりするのに使う木造りの大きなテーブルがある。これもまた古い物で、ずっしりとしていて百数十年使い込まれた風合いがある。俺はこの場所が子供の頃から好きだった。何故かここにいると落ち着くんだ。小さい頃はここに座って、ばあちゃんや職人さんたちが仕事している姿を眺め大人になったら自分も蔵人になるんだと自然に思っていた。ちょっと回り道してしまったが、あの頃思い描いていた蔵人になった。

 テーブルの上の電球を点け蔵の明るい照明を消すとオレンジ色の灯がテーブルを照らした。


「座れよ。食べる物はいまいちだけど酒なら溺れるぐらいあるぞ。それに結構落ち着けるんだ。」


 事務所から持ってきたストーブのスイッチを入れると、ジーッチッチチチッ、ボッと音をたて火がつく。有難いことに母さんこだわりの灯油ストーブだ。これで水を入れたヤカンをのせればカップ麺もお湯割りもokだ。


「すぐ暖まるから、蔵ってだだっ広いから夜は寒いだろ?」

「そうだね。いつも蔵人さん達が働いていて活気のある蔵しか知らないから、全く雰囲気が違うね。」

「だろ?」


 テーブルの上に家から持ってきた惣菜やらツマミを並べる。


「カップ麺食う?」

「んー、いい。」

「今朝は悪かったな。ゴタゴタしてて。なんか用だったんじゃないの?」

「たいしたことじゃないから…、もういい。」

「なんだよ?気になるだろ?あっ!まさかおまえ又俺の小遣い減らそうとしてるんじゃないだろなっ!俺は月5万しか手元に残ってないんだぞ!」

「あら、まだ5万円も残ってたの?」

「白々しい。知ってるだろ?おまえが管理してんだから。」


 岡野はフフフッと笑ってみせた。

 岡野が俺の財産管理をするようになってからというもの、僅かばかりの給料は岡野のお願い(早い話しノルマ達成)の為に搾り取られている。

 東京で一人暮らししている時と違って光熱費も払わなくていいし、遊ぶにしても拓海が帰ってきた時か、たまに岡野と出かけたりするぐらいだし、お屋形様に朝6時に叩き起こされてトレーニングと称したシゴキを受けている身としては、夜は10時になるとウトウトしてくるのだ。文句は言っているものの正直5万でも充分足りている。だがそのことは、岡野には教えるつもりはない。男にはヘソクリも必要なのだから。いや、待てよ俺。そもそも高校生でもないのに一応社会人である一人前の成人男性が、小遣ぐらいしか手元にないとは情けなくないか?

 そもそも岡野、おまえは俺のなんなんだ?嫁どころか彼女でもないのに、なんの権利があって平気で俺の稼ぎを奪っていくんだ?とか言ったら「アンタの財産管理担当だからよ!」と一喝されておわりなんだろうな…。


「酒飲むなら何かちゃんと腹に入れろよ。」


 岡野は分かってる分かってると言いながら惣菜をパクパク食べながらビールを飲みはじめた。


「新くんのお母さんって本当に料理上手ね?」

「ああ、それノブさんが作ったやつ。」

「えっ?そうなの。お菓子作りが趣味なのは知ってたけど、料理も上手ね。」

「母屋で一緒に食事するから、母さんの手伝いしてるうちに母さんより上手になっちゃってさ、あの人なんでも極めないと気が済まないんだよ。」

「ノンちゃんはしないの?」

「ノブさんは自分の領域にノンちゃんが入るのが嫌なんだよ。あの二人仲は良いけど、競争心が強いからさ。」

「ぷっふ。わかる。二人とも負けず嫌いよね。」


 いつもの様に他愛ない話をしながら、岡野が350mlの缶ビールを空けたところで、俺はテーブルの上に小さなグラスをピラミッド型に積んだ。


「なに?」


 岡野が不思議そうにグラスを指差す。

 俺はフフンと意味ありげに笑ってみせた。


「本日は糸里酒造のスペシャルな酒を用意しました。」


 3段積みの一番上のグラスから新酒を静かに注いでいく、酒がグラスに当たりシュワーっと泡がたつ。グラスからあふれた酒と泡とともに食用菊がオレンジの電球に照らされ金色に煌めきながら流れ落ちていく。

 岡野は目をまん丸にして言葉をなくしていた。俺は何故か少しだけ緊張した。


「当店の新酒[パワースポット]でございます。本日が初お披露目です。」

「これが新くんの造ったお酒…なの?」

「俺じゃないよ。母さんが造った酒。俺はちょっとアイデアを出しただけ。」

「すごい!すごく良い!感動しちゃった。」

「あ、ありがとう。」


 俺はドヤ顔してやろうと思っていたのに、岡野が涙目になっていたので、恥ずかしくなってしまった。


「大袈裟だなぁ。」

「だって…、初めて担当して、完成した物を見れるなんて、しかもこんな、こんな綺麗で素敵で。お母さんと新くんと蔵人さん達が何度も何度も話し合って試行錯誤してるの見てきたんだもん。嬉しくって。」

「見るだけじゃなくちゃんと試飲しろよ。」


 一番上のグラスを取り透明の小皿に載せて岡野の前に置く。


「もちろん!いただきます。」


 岡野は酒が入ったグラスを置いた小皿ごとそっと持ち上げ顎先くらいの位置で、ゆっくり香りを持ち上げる様にして香りを嗅ぎ、グラスを鼻元まで近づけると、余計な匂いを避ける為グラスと鼻先を隠す様にして、目を閉じ深く香りを吸い込む。そしてグラスを少し傾ける。シャンパンの炭酸のせいで普通の日本酒のようにグラスの口に表面張力がおきることはない。酒はグラスの七分目ほどの量のため、口の中に流し込むには少し顔をあげなければならない。そのせいで影になっていた岡野の顎と首筋のラインをオレンジ色の電球が照らした。その瞬間、心臓に拳を一発くらったような衝撃を受けた。

 岡野の飲み方が蔵人達が試飲する時の飲み方を真似ているからではない。確かに母さんや洋次さんに試飲してもらう時には、納得してもらえるかドキドキするけれど、今はそれとは違う。岡野にはこの酒を「美味い」と絶対言って欲しい。これから先に俺が造る酒は全部飲んで「美味しい」言ってと欲しい。ただそう願った。

 岡野は口に含んだ酒を舌の上で味わいゴクリと飲み込んだ。

 しかし、反応は俺の期待した事とはかなり違っていた。


 あははは。

 岡野は何かツボにはまったように大笑いしだした。目尻に涙さえにじませて…。この酒の何がそんなにおかしいんだ?まるで笑い茸でも食べたような、まさかそんな効果があるのか、この酒に?


「もぅ、やだ新くんの顔。」


 失礼なっ!

 この状況で指まで指して言うことか?


「まるで…、生活指導の三上先生に怒られてる時みたい…、だよ。」


 生活指導の三上。俺たちの通ってた中学の先生だ。その人はいつも怒っていた。たいして悪い生徒がいたわけでもなかったが、やれスカート丈が短いだの、髪の毛が長いだの、こと細かくチェックし指導をしていた。三上先生のことは嫌いではなかったが、当時40歳くらいの体格も良く声も大きな先生という肩書まで持っている男に幼さが残る中学生が叱られるのを恐れるのは当然だろう?

 で、なんで今、三上先生が登場するのか?

 俺は自然に顔をしかめていたみたいで、それに岡野もきづいた。


「ごめん。新くんがあんまりにも真剣な目でジッと見てるから、顔中穴だらけになりそうで…。恥ずかしくなって…。」


 岡野は目を伏せて頬を赤らめた。オレンジ色の灯りの下でも分かるぐらいに。

 二人とも何だか気まずくなってしまった。息が詰まりそうで焦った俺は先に口を開いた。


「ごめん。蔵の人間以外には初めて出したからさ、なんか緊張した。ごめん。」


 岡野は俺の言葉に強く首を振って否定した。


「本当はね、美味しいって、感想をちゃんと言うつもりだったんだよ。笑っちゃってごめんね。」


 その後、慎重に緊張の糸を解くように、いつものくだらない話や仕事の愚痴なんかを言い合っていくうち、岡野がウトウトしはじめた。

 家まで送るから今夜はもうお開きにしようと言うと、岡野は背中をピンとさせて大丈夫だと言い張った。が、すぐに目はトロンとし始め、とうとうテーブルに頭をくっつけてしまった。大きなテーブルごしに岡野の頭を軽く叩いて起こしているうちに、岡野の睡魔が移ってしまったのか、いつもの習慣のせいなのか、外の店で飲んでいたのではなく、蔵とはいえ自宅に違いないという油断からなのか、理由はきっとその全部だろう。俺もウトウトしてきた。そうだ10分も眠ればスッキリするだろう。それから家に送ってやればいいかな?とぼんやり考えながら眠りに落ちた。






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俺のスマホが大変なことになってます⁈ karon @kumi3626

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