壱.雪と鬼

その一.鬼切り、来る

 平正へいせい一四七年 十二月


 暗い空は灰色の霧に覆われ、月光は地表にほとんど届いていない。

 それでも、帝都の夜は明るい。

 煌びやかな電灯に彩られた、仏塔にも似た摩天楼。

 高架道路では大量の自動車が光の奔流と化して駆けぬけ、街角ではまばゆい画面が最新のトーキー映画の広告を流す。

 そんな絢爛豪華たる帝都の外れ――雑然とした路地の片隅で。


「……おかげで、すっかり遅くなってしまいましたよ」


 遠峰吹雪とおみねふぶきは肩をすくめ、蕎麦を啜った。

 肩に掛かるほどの白髪がまず目を引く。肌も透き通るように白く、整った顔立ちも相まって魔性の者のように見えた。どこもかしこも薄く細い体を水色の着物に包み、その上からさらに黒いコートを着て、彼女は帝都の寒さをどうにか凌いでいた。

 吹雪はいったん箸を止め、屋台の片隅に置かれたラジオの声に耳を傾けた。


『北陸から東北にかけての汽車の運行は現在は通常通り……』

「あぁ……やっと全線復旧ですか。この時代になっても汽車は雪に勝てないのですねぇ」

「仕方がないさ。相当立ち往生したのかい?」


 丼をかたづけつつ、カウンター越しに屋台の店主がたずねる。

 群青の瞳を細め、吹雪はうなずいた。


「えぇ半日ほど。予定だと昼間に着くはずだったのですがね。おかげでくたくたです」

「金沢から来たんだっけか?」

「あ、金沢ではないです。同じ加賀でもかなり山奥です」

「それで帝都まで来たのかい……いやぁたいしたもんだ。こっちには旅行かい?」

「いえ、少し人を探しに。――ええと」


 吹雪は隣の席に手を伸ばした。そこには大きな旅行鞄と、長細い包みがある。その鞄から一枚の紙を引っ張り出し、吹雪はそれを店主にみせた。


「この男に見覚えはありませんか? 歳は十七。私よりもほんの少しだけ背が低くて、髪も同じ色です。名前は遠峰雷光とおみねらいこう

「……いや、あっしはいまだかつてこんな人間は見たことがない」


 店主はあごひげをさすりながら、どこか微妙そうな表情で紙を眺める。

 吹雪は肩を落とし、紙を手元に戻した。


「そうですか……」

「そいつはなんだ、嬢ちゃんの【いい人】なのかい?」

「いい人……? いえ、どちらかというと性根は悪人に近いですが」

「ああ違う違う、恋人かっていう――」

「断じて違います」


 吹雪は早口で答えると、唇をへの字にして紙をながめた。

 そこに描いてあるのは、父にも褒められた吹雪渾身の似顔絵だった。


「この男は私の双子の兄です」

「あ、あぁ、そうなのかい。それで嬢ちゃんは、お兄ちゃんを探して帝都に来たんだな」

「えぇ。……ですがうまくはいきませんねぇ、なかなか」


 吹雪は兄の頭の部分を指先で弾き――ついでに腹の部分も弾いてから、似顔絵を片付けた。

 そして、コートのポケットから財布を取り出す。


「おっと、もう行くのかい」

「えぇ。おもちのお蕎麦、美味しかったですよ」

「おうよ――と、宿を探すなら早くしたほうが良い。最近やけに化物が多くてねぇ」

「化物……ですか。そんなに多いのですか?」

「石川の方はどうだか知らないがね。奴らは人間の恐怖とかそういう感情を吸い込むらしくてね、大都市によく出るんだよ」


 店主は怖い声で言って、脅かすように手を動かした。

 吹雪は首をかしげ、唇に指を当てた。


「そういえば金沢でも……」

「多分帝都は金沢の比じゃないぞ? まぁ退治屋達がいるから安心ではあるんだが……この辺りでも最近、若い女が一人喰われたんだ。気をつけた方が良い」

「……わかりました。そうします」


 吹雪はいまいちぴんとこない表情のままうなずき、店主に銭を渡した。


「化物ねぇ……」


 歩きながら、吹雪は首をかしげる。

 もう真夜中を迎えつつあるが、この街の人々はまだ眠るつもりがないらしい。耳を澄ませれば、遠い繁華街の賑わいがかすかに聞こえてきた。

 吹雪は肩をすくめると、ポケットから折りたたんだ紙を取り出した。


「まぁ、今はどうでもいいですね。ええと――」


 紙を広げると、『武藤慶次郎むとうけいじろう』という人物の名前とその住所が書いてある。帝都についたらこの人物を頼るように、父は吹雪に言った。

 吹雪は紙をじっくりと見つめ、辺りをきょろきょろと見回す。

 しかし静かな路地には、どこにも町名などを記した標識などはない。

 さらに、今日はもう遅い。


「とりあえずどこかで一泊して……明日、会いに行きましょうか」


 呑気に構え、吹雪は再び歩き出そうとする。

 目の前で、ゆらりと影が揺れた。


「あら……?」


 灰色のコートに身を包んだ青年が壁にもたれ、激しく咳き込んでいる。

 薄暗い路地には、彼と吹雪の他に人はいない。

 吹雪はポケットに紙を片付けると、青年に近づいた。


「あの、大丈夫ですか?」

「……ッ」


 そっと肩に触れると、青年が驚いたような目で見てくる。

 うっすらと緑味を帯びた艶やかな黒髪をやや伸ばし、軽く結っている。コートでかさ増しされて見えるが、相当細い体躯をしていることが触れてみてわかった。

 シャープな面差しの顔は汗に濡れ、蒼白を通り越して不気味なほど白く見える。


「ひどい汗……大変、すぐにお医者様のところに……!」

「いい……」

「良くないでしょう! えっと、電話は――」


 青年を支えたまま、吹雪は公衆電話を探して辺りを見回す。

 そこで、青年が吹雪の手を掴んだ。


「ポケットに……」

「え? ポケット?」

「そこの……ケースの中に、薬があるから、それを……」


 青年が言い終わるよりも早く、吹雪は急いで彼のコートを探った。

 すぐに白いプラスチックのケースを見つけだし、吹雪はその蓋を開ける。透明な液体を満たした注射器が二つ入っていた。

 青年の手が注射器を奪う。それを震える手で自分の首筋に注射し、青年は一息吐いた。


「……ハッ、くそ……」


 悪態を吐く青年の手から注射器が零れ落ち、カラカラと音を立てて足下を転がる。

 大きく深呼吸を繰り返す青年に、吹雪はおずおずとたずねた。


「あ、あの……次はどうすれば……」

「……いや、もう問題ない」


 青年は一際大きく呼吸すると、壁から体を離した。

 よろよろと足下に転がる注射器を広い、無造作にケースの中にしまう。


「もう大丈夫なのですか? あの、一応病院に行った方がよろしいのでは」

「いい……こういう、体質みたいなモノだから」


 ケースをポケットに納め、青年はそこでじっと吹雪を見つめた。

 いまいち感情の読み取れないまなざしだった。頭から爪先まで観察するような視線にいたたまれなくなり、吹雪はやや身を縮める。


「あの……?」

「……女がこんな時間に出歩くのは良くない。こんな時期だ――この辺りで最近若い女が襲われたの、知らないのか?」

「まぁ、それは存じ上げておりますが――やむにやまれぬ事情でこうなったというか」


 言葉を濁す吹雪に対し、青年はやや呆れたようにため息を吐いた。


「ともかく、帰れ。命が惜しければ……な」

「あぁ、はい」


 いまいち腑に落ちないまま、吹雪はこくこくと頷いた。

 青年は眼を細め、じっと吹雪を見つめる。


「……おまえ、名前は」

「え? あぁ……私は遠峰吹雪と申します」

「吹雪……おれはくろつち霖哉りんや……さっきは助かった、ありがとう」

「いえ、当然のことをしたまでなので――」


 恐縮する吹雪をよそに、青年は――霖哉はゆらりと背中を向けた。


「……機会があれば、また会おう」


 かすれた声で別れを告げ、霖哉は歩き出した。たびたび咳に震えるその背中は、すぐに曲がり角の向こうに消える。

 霖哉の姿が見えなくなってなおも、吹雪はしばらく彼が歩いて行った方向を見つめていた。


「大丈夫なんでしょうか、あれ……やっぱり病院に連れていった方が」


 迷いながら吹雪は一歩踏み出そうとする。

 その時。遠い繁華街の喧噪を掻き消し、辺りに甲高い女の叫び声が響き渡った。


「ッ、悲鳴――!」


 吹雪は目を見開き、振り返った。

 絹を引き裂くようなその声は途中でぷつりと途切れ、辺りを静寂が包み込む。

 吹雪は硬く手を握り合わせ、辺りを見回した。

 相変わらず、吹雪の他に人影はない。通りに並ぶ建物はひっそりと静まりかえっている。

 悲鳴は、少し離れた路地の裏手から響いてきたように聞こえた。


「……行きますか」


 吹雪はこくりと唾を飲み込むと、裏路地に足を踏み入れた。

 しばらく歩くと、やや開けた場所に行き当たった。

 不規則にまたたく街灯に照らされた路地に立ち、吹雪は辺りを見回す。


「確かに、この辺りから聞こえたのですが……」


 辺りはほとんど無音。壊れかかった街灯が、ただ唸るような音を立てているだけ。

 だが、その静寂が落ち着かない。

 いったん荷物を置き、吹雪は袋小路をぐるりと見回す。


「なんでしょう……なにか……」


 細道から夜風が吹き込んでくる。その風の中に、吹雪はなにか嫌な感触を感じていた。

 吹雪は首をかしげ――息を呑んだ。


「ッ――!」


 心臓の鼓動が早くなる。

 ぐっと拳を堅く握りしめると、強ばった表情で口を開いた。


「――なにか、御用でしょうか」

「――ほう、気配は消していたはずなんだがな」


 低い男の声が響いた。

 吹雪は不規則に白い息を吐きつつ、ちらりと背後に視線を向ける。

 身長二メートルにも達するかと言うほどの大柄な男だった。

 白いコートをはおり、何かの制服と思われる深紅の服を着ている。しかしその服の上からでもその体は鋼のような筋肉に包まれている事が見て取れた。

 顔立ちは端正だが、顔の左半分に刻まれた傷痕が剣呑な印象をいっそう強めている。

 そんな明らかにただ者ではない男が、吹雪に刃を向けていた。


「どちら様でしょうか」

「答える義理はない」


 ざんばら髪を夜風に揺らしつつ、傷痕の男は短く答える。

 吹雪の視線は男から、彼の握る刀に移る。およそ三尺(九〇センチ)ほどの野太刀。その柄を片手で握り、切っ先をぴたりと吹雪の首を向けている。

 重い野太刀を片手で構える――人間にはそう簡単にできる芸当ではない。

 もしや、こいつが例の化物だろうか。吹雪はスッと眼を細めた。


「……ではせめて、剣を下ろしてはいただけませんか。この通りか弱い女です。そんな物騒なものを見ていると動悸がしてくるのです」

「それも断る。こちらは貴様の首にだけ用事があるのだ」

「……それはまた、穏やかではありませんね」


 吹雪は目を伏せ、深くため息を吐いた。


「俺からも二、三聞きたい事がある。――貴様は何者だ」

「虫のいい話ですね。貴方が私の質問に答えないのに、私が貴方の質問に答えるとでも?」

「これは質問ではない、尋問だ」


 傷痕の男は冷ややかに答え、脅すように野太刀を揺らした。


「いいか……次はないぞ。俺の質問に貴様が答えなければ、そのたびこの太刀が貴様の体を切り刻む。――再度問う。貴様は何だ?」


 吹雪はフッと息を吐いた。

 そしてゆらりと首を動かし、冷ややかなまなざしで男を見上げる。


「凶賊に名乗る名はございません」


 一閃。

 薙ぎ払われた太刀は、しかし少女の血を散らすことなく弾かれた。

 傷痕を歪ませ、男が目を大きく見開く。


「なっ――篭手こてか!」

「っつ……!」


 篭手を仕込んだ左手にじんっと痺れと痛みが走り、吹雪は顔を歪める。

 しかし休む間はない。


「らぁあ――!」


 首を狙って振るわれた野太刀を転がって避ける。

 さらに転がり、吹雪は荷物の中にあった長細い包みを掴んだ。

 紫の布袋が払われるのと、吹雪の背中めがけ男の太刀が振り下ろされたのはほぼ同時だった。

 ぎぃん……! 甲高い金属音が路地裏に響く。


「おのれ――!」


 傷痕の男が舌打ちする。

 その目に映るのは漆黒の鞘に包まれた太刀――吹雪の愛刀『絶句兼若ぜっくかねわか』。

 吹雪はそれを両手で掴み、男の野太刀をかろうじてのところで防いでいた。


「っ、く……恐ろしい力ですね」


 少しでも気を抜けば押し潰されそうなほどの重みが全身にかかってくる。

 吹雪は眉を寄せ――絶句兼若を支える手からふっと力を抜いた。

 野太刀が吹雪の頭を掠め、路面に深々と亀裂を刻んだ。

 男の足下をすり抜け、即座に立ち上がった吹雪は自らの太刀から鞘を払い落とす。

 傷痕の男が振り返りざまに掬い上げるようにして野太刀を振るう。

 吹雪は眉を寄せ、その一撃を紙一重で回避。


「っふ、っ――!」


 そこから間合いをとり、呼吸を整える吹雪を追撃しようと男は――。

 刹那。

 吹雪の刃が。

 男の眼前にあった。


「――ッ!」


 傷痕の男は息を呑み、背後に跳んだ。

 絶句兼若は空を切り、吹雪もまた体勢を立て直すため後方に下がる。

 傷痕の男は野太刀を構え直した。しかしその顔は、いまだ驚愕の表情を浮かべている。


「……なん、だ」

「何か?」

「今……なにを、した」

「愚問ですねぇ」


 ぎこちなく問う男に対し、吹雪はふっと息を吐いた。

 直後。五、六歩は離れた位置にあった吹雪の体は、もう男の懐にある。


「この通り――太刀を振るっただけですが」

「ぐぅ……!」


 二度目は見切ったのだろうか。

 男は唸りながら、野太刀で吹雪の刃を防ぐ。


「くっ、無挙動からのこの斬撃……化物め」

「我が天外化生流てんがいけしょうりゅうはこういうモノです」


 絶句兼若を中段に構え、吹雪は静かに答える。

 実際は決して無挙動などではない。太刀を振るうための全ての準備が極めて静謐かつ迅速に完了したまでのこと。

 これこそが遠峰家に代々伝わる異形の剣――天外化生流。

 かつて吹雪の祖はこの剣術によって、北陸随一の鬼切りとして名をはせた。


「さて――」


 傷痕の男の動きに注視しつつ、吹雪は思考を巡らせる。

 左手には、まだ先ほどの一撃を払ったときの痺れが残っている。

 さすが人外のモノとあって、男の膂力は恐るべきものだ。正面からやりあえば、恐らく無事では済まないだろう。

 できうる限り速やかにこの怪物を倒す――吹雪は静かに息を整える。

 傷痕の男の足に力がこもった。

 重心から見て、恐らく左から斬撃が来る。まともに受ければ最低でも両手が使えなくなるだろう。ならば男が野太刀を振るう前に間合いを詰め、そして――。


「――何やってんだい、時久ときひさ!」


 緊迫した静寂は突如、女の怒号によって打ち破られた。

 傷痕の男がばっと振り返る。


「邪魔をするな、夕子ゆうこ! こいつは俺が片付け――!」

「トンチキな事言ってんじゃないよ!」


 男――時久の背後から、一人の女が飛び込んできた。

 歳は二十代後半と言ったところ。腰まで伸ばした赤髪をポニーテールにしている。豊かな胸元とくびれた腰が魅力的な肉体を、時久と同じ制服に包んでいた。

 夕子と呼ばれた女は目を吊り上げ、男の肘をぐっと掴む。


綾廣あやひろが今こっちに追い立ててるから! そこの小道から来るはずだから、とっとと片付けるんだよ!」

「待て! なんの話をしている!」

「この馬鹿! 化物の話に決まってるだろ! いいからほら――ッ!」


 辺りに甲高い女の悲鳴――に似た、獣の鳴き声が響き渡った。

 吹雪ははっとして、赤髪の女が示した方向を見た。

 細道の向こうできらりと何かが光る。生ぬるい風がごうっと吹いてくる。


「ッ――小娘!」


 時久が叫んだのとほぼ同時に、細道から漆黒の影が襲いかかってきた。

 反射的に吹雪は絶句兼若を閃かせた。

 青い火花が散る。同時に硬い感触が腕に伝わってきた。

 吹雪に向かって斬りかかってきたそれはくるりと身を翻し、離れた場所に着地する。

 シャープな顔、長い胴体、鞭のようにしなる尾。


「イタチ……?」


 巨大なイタチにも似たその姿に吹雪は眉をひそめる。

 その目の前で獣が唸り声を上げ、体を細かく震わせる。途端ミチミチと嫌な音を立てつつ、獣の体のあちこちから刃が生えてきた。

 獣の尾が地面を叩く。

 にわかに生ぬるい風が巻き上がり、獣の体がふわりと浮き上がった。


「あら……」


 嫌な予感を感じた吹雪がいったん後退する。

 直後、それまで吹雪がいた場所を銀の光が駆け抜けた。

 女性の悲鳴のような咆哮を上げ、獣が再び身を翻す。そのたびにその胴体から生えた複数の刃が吹雪めがけて襲いかかった。

 少しでも触れればずたずたに切り裂かれてしまう。

 互いに擦れ合いながら迫る刃を弾きつつ、吹雪は獣の様子をうかがった。


「時久! どうして民間人を逃がさなかったんだい!」

「人間だとたった今気づいたのだ! 俺はあっちの方が化物だと思っていた!」


 夕子と時久の会話が耳に入ってくる。こちらが彼を化物だと思っていたように、時久も自分の事を化物だと思い込んでいたようだ。

 確かに化物のうろついている場所に、自分のように白い少女がいたら怪しいかもしれない。

 そんなことを考えながら、吹雪は獣の刃を弾き続ける。


「ともかく助けなけりゃ――ちょいと嬢ちゃん! どうにかこっちまで来れないかい?」

「無茶な事を……!」

「いえ、大丈夫ですよ」


 絶句兼若を振るいながら吹雪は答えた。


「大丈夫って、なにを――」

「化物退治は、それなりに経験しておりますので」

「なんだって……?」


 夕子が目を見開く。それをよそに、吹雪は獣の動きをじっと観察する。

 空中に浮遊し、しなやかに体をくねらせる獣。

 体に生えた刃一本一本の尺はせいぜい草刈り鎌と同じくらい。大きく距離を取れば避けられそうだが、すぐに獣は俊敏な動きで距離を詰めてくるだろう。

 戦いを長引かせるつもりはない。

 吹雪はスッと短く息を吸う。


「たいていの化物は」


 呼吸を整える吹雪の前で、獣の体が翻った。

 体表に生えた刃がぶつかり合い、火花を散らしながらながら迫ってくる。

 その向こうに、がら空きになった獣の胸が見えた。


「ふっ――!」


 吹雪の靴音が高く響く。

 絶句兼若の切っ先が閃光を放った直後――鈍い音を立て、獣の胴体がぶちぬかれた。

 赤黒い血液が石畳に散る。

 串刺しにされた獣の体は不規則に痙攣し――やがてだらりと弛緩する。

 獣の骸を地面に下ろし、吹雪はそこから絶句兼若を引き抜いた。しばらく警戒して獣の死骸を見つめた後、絶句兼若を軽く振るって血を落とす。

 そうして肩をすくめ、どこか呆然とした様子で自分を見ている時久と夕子に視線を向けた。


「こんな感じで、心臓を一突きすると死ぬんです」

「……っはー、これは」


 夕子が口元を覆い、吹雪と獣の死骸とを見比べる。

 一方、肩に野太刀を担いだ時久は大股で吹雪の元に歩み寄ってきた。

 獣の死骸を見下ろし、それを軽く長靴の爪先で小突く。


「……確かに、死んでいる」

「えぇ。再生とかはしないと思いますよ」


 ポケットから取り出した懐紙で刀身を拭いつつ、吹雪はこくりとうなずいた。

 化物退治はそこまで頻繁に行っていたものではない。吹雪の父は近くで化物が出たと聞けば、修行の一環としてすぐに吹雪と兄をそこに向かわせた。

 しかし地元ではそこまで見なかった化物を、帝都に来てすぐに退治することになるとは。


「都会って怖いですね……」


 吹雪は肩をすくめつつ、絶句兼若を鞘に納めようとした。

 その手首を時久が掴む。


「ちょ、ちょっと! 危ないですよ!」

「その太刀、見せろ」


 荒っぽく吹雪の腕を引き寄せ、時久が絶句兼若の柄から切っ先までじっくりと見る。

 そして視線を絶句兼若に向けたまま、夕子を呼んだ。


「……夕子、どうだ。俺の目には普通の太刀のようにしか見えん。これは式器シキか?」

「シキ……?」

「どれ――ちょいと【】てみようかね」


 近づいてきた夕子は両目を閉じ、そのまぶたをしばらく押さえた。

 そしてすぐに目を開き、絶句兼若をじっと睨む。

 一体何をしているのだろう。吹雪は戸惑い、真剣な様子の時久と夕子とを見た。

 やがて、夕子が重々しく口を開いた。


「……式器ではある、と思うよ。切っ先から根元まで青白く光って見える」

「え、ほんとですか?」


 夕子の言葉を聞き、吹雪は慌てて絶句兼若を見る。

 不規則にまたたく電灯の下、絶句兼若は独特の霜が貼り付いたような刃紋を冷え冷えと光らせている。そこに夕子の言う青白い光などは見えなかった。


「……特に光ってはいないように見えるのですが」

「ま、常人の目には見えないだろうけどね」


 困惑する吹雪に、夕子は眼の脇をとんとんと叩いて見せた。

 たしかに夕子は不思議な目をしていた。まるでオパールのような――赤地に、緑や青などの煌めきが混ざった複雑な色をしている。


「あたしの目は特別製なのさ。なんでもまるっとお見通し」


 言いながら、夕子は再び目を閉じた。

 両目の周りをを軽く揉む夕子に、時久が再び問いかけた。


「この式器、生きているのか?」

「いや、封印が施してあるね。休眠状態だ。多分、機能は発揮できていないはず」

「……ならこの小娘は、実質式器も使わずに化物を殺したことになるぞ」

「そこよ。アタシもそこが不思議でならない」


 夕子が目を開け、我が意を得たりとばかりに時久を指さす。その瞳からは先ほど見た青や緑の煌めきは消え、薄い紅色になっていた。


「あ、あの……どうかなさったのですか? 私の太刀が何か――?」


 状況を掴めずおずおずと吹雪はたずねる。

 すると二人の視線が一気に自分に向けられ、吹雪は思わず肩をすくめた。

 時久が眉を寄せ、ちらりと夕子を見る。


「……どうする、夕子」

「やっぱりおやっさんに合わせた方が良いんじゃない? ――嬢ちゃん、この後空いてる?」

「え? えーっと……」


 急に水を向けられ、吹雪はしどろもどろになる。

 恐らく悪人ではないことはわかる。だが、一体自分になんの用事があるのだろうか。


「……そもそも、貴女方はどちらさまでしょうか?」

「ああ、まだ名乗っていなかったね。アタシは戻夕子もどりゆうこっていうんだ。で、こっちのデカくておっかないのが御堂時久みどうときひさ


 夕子は自分の胸に手を当てて名乗った後で、時久を示した。

 しかし時久は黙りこくったまま、険しい顔で吹雪の様子を観察しているようだった。

 その様子に夕子は肩をすくめ、頭を掻く。


「……悪いね、こいつったら無愛想で。さっきも本ッ当に迷惑を掛けた」

「いえ……私は遠峰吹雪と申します。それでその、貴女方は一体?」

「アタシ達は……この通り――」


 夕子は物々しい表情でズボンのポケットに手を差し込んだ。しかし直後その顔をさっと青ざめさせ、彼女はもう片方のポケットに手を突っ込む。


「――ってあれ、ヤバい。社員証がない。これはマズい。どこにしまったっけ」

「おい、夕子……」

「ごめん、時久。ちょっとアンタの見せたげて。お願い――えーと、どこだ、えーと……」

「まったく……ズボラにもほどがあるぞ」


 時久はため息を吐きつつ、コートのポケットに手を差し込んだ。

 彼が取り出したのは、黒革のパスケースに似た物体だった。表紙には、赤く輝く梅の花を模した小さなバッジがついている。

 二つ折りになっているそれを開き、時久は中身を吹雪に見せた。

 片側には時久の身分証明書、そしてもう片方には金属のプレートが入っている。


「俺達は紅梅社中こうばいしゃちゅう。――この通り、政府公認の退治屋だ」

巫覡庁ふげきちょうの許可証……!?」


 吹雪は目を見開く。

 金属プレートには、柊の葉と朝日を組み合わせた紋章が刻み込まれている。

 それはこの国の霊的な事象を司る行政機関――巫覡庁が、化物退治や超常現象の解決などの霊能力を用いた商売を行うことを認めた者にのみ与えられる証だ。


「ああ、あった! よかった……社員証あったよぅ」


 ようやく社員証を見つけた夕子はほっと息を吐き、それをズボンのポケットにしまい直す。

 そして、あまりの事態に戸惑う吹雪の肩にぽんと手を置いた。


「それでね、吹雪ちゃんにはちょいとうちらの事務所まで来て欲しいんだよ」

「あの、キャッチセールス的な何かはちょっと……」

「あ、違うよ! そういうのじゃないんだよ! ただ――」

「別にしょうもないガラクタを売りつけるつもりも、怪しげな講座に勧誘するつもりもない。俺達はただ貴様のその力を知りたい。それだけだ」


 ぶんぶんと顔の前で手を振る夕子に代わり、時久が低い声で答えた。

 吹雪は眉をひそめる。


「私の、力……?」

「そうだ。式器もなしに化物を一撃で屠るその力――ただならぬものだ」


 時久は眉間の皺をいっそう深くして、じろじろと吹雪の頭から爪先までを見る。その視線はひどく無遠慮で、吹雪の全てを見極めようとしているようだった。

 ――どうも、この男は苦手だ。

 吹雪はやや眉を吊り上げ、時久を見つめる。


「……そう怯えるな。茶くらいは出してやる」


 時久は傷痕を歪ませ、薄く笑った。

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