その十七.鬼灯の如き瞳を持つ者

 ――雪が降っている。

「……雪って、こんなものなのか」

 隣で霖哉がぽつりと呟いた。

 遠峰家の屋敷の縁側で。吹雪と霖哉は手を繋いで座っている。

 聞こえる音はただ、雪の降り積もる微かな音だけ。

 まるで世界に二人きりになったようだ。そう思いつつ、吹雪はそっとたずねた。

「雪は、初めてですか」

「ああ……生まれて初めて見る」

 霖哉はゆっくりとうなずいた。

 そしておもむろに手を伸ばし、庭に植えられた松の枝を指さす。いつものようにけだるげな表情だったが、紅茶色の瞳は子供のような好奇心に輝いていた。

「あれ、なんだ? あの、枝に張ってある縄みたいなもの」

「雪吊りですよ。雪の重さで、枝が折れないようにしているんです」

「ふぅん、そういうものなのか」

 不思議と寒さは感じなかった。

 霖哉が隣にいるからだろうか。彼と繋いだ右手は、とても温かかった。

 と、突然霖哉が絡めた指先に力を込めた。

「霖哉さん?」

「……最初、お前に帝都で会ったとき」

 雪吊りの枝だから視線を外し、霖哉は吹雪をまっすぐに見つめた。

「その白い髪見て、天使だと思った」

「なっ……」

 カッと頬が熱くなるのを感じ、吹雪は視線を逸らす。

「ただおれに天使なんて来るわけないから死神に違いないと思い直した」

「うわっ、ひどい!」

 確かにこの白い髪は闇の中だと人外めいて見えるだろう。

 渋い顔で髪をいじる吹雪に、霖哉はくすくすと笑った。こんなに屈託なく、楽しそうに笑う彼の姿を見たのは初めてかもしれない。

「……でもその後、やっぱりお前は天使だと思ったよ」

「……勘違い、ですよ」

 吹雪は小さく笑って、視線を膝に落とす。

 その白い手は、細く見えてもしなやかな筋肉に覆われている。そして手も、刀を振る影響でタコが多い。その手で、ぎゅっと吹雪は着物の裾を握りしめた。

「私はそんな、綺麗なものじゃないですから」

「綺麗で強いよ、遠峰は――吹雪は」

 霖哉はそっと、膝に乗せた吹雪の手に自分の手を重ねた。

「お前は、おれに普通の時間ってものを教えてくれた。愚鈍なおれに、おれを縛り付けているものについて考えさせてくれた」

「……貴方は聡い人です」

「おれは愚鈍だ。愚鈍で、邪悪だ。――流されるままに生きて、楽に死のうとした」

 霖哉はきっぱりと言い切って、立ち上がった。

 吹雪の右手を握ったまま、彼はどこか苦しげな表情で雪降る庭を見つめている。

「だから……綺麗で強いお前は、おれの事なんか忘れた方が良い」

「霖哉さん……?」

 不吉な予感がした。

 このまま霖哉と手を離してはいけない。そう感じた吹雪は右手に力を込める。

 しかし抵抗も空しく、霖哉は手を振り解いた。

 その瞬間、雪景色の庭が遠のいた。

 視界が消えていく中、吹雪は血を吐くような霖哉の囁きを聞いた。

「だから――吹雪。おれの事は、諦めてくれ」


 自分は死んだものだと思っていた。

「……う」

 体の重みに呻きつつ、吹雪は目を開ける。

 まずその視界に映ったのは、切断されたはずの右手だった。

 先ほどまで血にまみれ、地面に落ちていたはずのそれが、何事もなかったかのように吹雪の肩口に繋がっている。

「腕、が……」

 吹雪は息を呑み、恐る恐る右手を動かしてみる。

 指先を順々に折り曲げ、開きと持する。特に痛みも痺れもなく、指先の動きは変わりない。まるで切断された事が嘘のようだ。

 恐る恐る右手を動かしつつ、吹雪は自身の体の状態を確認した。

「……体が、治ってる?」

 積み重なった疲労のせいで体は鉛のように重い。

 しかし、それ以外はどういうわけか特に痛みも感じない。六郎太の拘束から逃れる段階で左腕の関節もおかしくなったはずだが、こちらも痛みはなくなっている。

 一体、何があったのか。

 事態を飲み込めないまま吹雪はそろそろと両手を突き、ゆっくりと体を起こした。

 そして――ようやく周囲の異変に気づいた。

「これは……どういう事です?」

 先ほどまでの出来事が夢でないのならば、吹雪は朽無輪教の聖堂にいたはずだった。

 しかし今、そこは異質な空間に変貌している。

 まるで巨大な蛇の胴体の如くうねり、歪んだ壁や天井。

 黒い金属にも似たその壁面には鱗状の模様が浮き出ている。さらにあちこちに赤い硝子質の球体が埋め込まれ、それが鬼火にも似た光を放っていた。

 唯一、吹雪のいる祭壇だけはどうにか原形を保っている。

 微かな物音に、吹雪ははっと振り返った。

 八つの首を持つ大蛇のステンドグラスがある。空間そのものが歪んだ膨張をしたせいか、それは傾き、蜘蛛の巣状にひびが走っていた。

 おどろおどろしい大蛇の頭の向こうに、ぼうっと紅に滲む月が見えた。

 そして――その下に、見覚えのある背中が立っている。

 軽く結われた黒髪。黒い服に包まれた痩せた体。――霖哉だ。

「霖哉さん! 無事だったんですね!」

 吹雪はぱっと微笑んで、よろけつつも立ち上がった。

 意識を失う前後の記憶が曖昧だが、どうやってか彼は状況を打開したらしい。

 一体何があったのか。吹雪は近づき、霖哉にたずねようとした。

「何が起きたんですか? この場所は一体――!」

 霖哉の肩に触れた瞬間、強烈な寒気が背筋を駆け上った。

 思わず吹雪は手を押さえ、霖哉から離れる。

 目の前に立っているのは間違いなく霖哉だ。なのに、吹雪の本能が告げてくる。

 何かが、おかしい。

 その正体に気づく間もなく、聞き覚えのない嗄れた声が響いた。

「……理解できぬ」

「貴方――ッ、ぐあ……!」

 対応する事も出来なかった。

 気づけば吹雪は霖哉に首を掴まれ、背中から壁に叩き付けられていた。

「何故……私は、そなたを癒やしたのだろう」

 霖哉が――彼の顔をした何者かが呟く。

 その顔は、人外のものに変貌しつつあった。目元に鱗に似た模様が浮き上がっている。

 そして額には――一対の金の角が、鈍く光っている。

 ぎりぎりと首を締め上げられながらも、吹雪はその目を睨む。

「くっ……何者、ですか……!」

「私は――イチクビ。大蛇の長」

 目の前の男は囁き、眼を細めて笑った。

 その瞳は赤々と――あの鬼灯の瞳の如く、怪しく輝いている。

「鬼灯の瞳に宿った化物……! 瞳の御方、ですか……!」

「そうだ、そうだ。越の国の九頭龍、八頭八尾をもつもの、鬼灯の如き瞳のもの、山と谷を覆うもの――切り裂かれ、首を落とされ――」

 そこで、霖哉は笑う。

 唇の端から、蛇の如く二叉に裂けた舌がちろりと覗いた。

「そうして今、『クロツチリンヤ』として蘇った」

 違う、違う。霖哉は、そんな邪悪な笑いをしない。

 体の底から叫びたかった。

 しかし今の吹雪は首を締め上げられ、声を出すのもやっとだった。

「……ここまでの事は期待しておらなんだ。封印が解けたどころか、肉体までも与えられるとは――この男の肉体はずいぶんと傷んでおったが」

 言いながら、リンヤは片手をゆっくりと蠢かせる。

 見れば、先ほど黒衣に切り裂かれたはずの首筋は痕も残さずに癒えている。肉体の調子は万全のように見えるが、その肌の色は平時の霖哉よりも遥かに青白かった。

「異能からすると……私か、私に類する龍蛇の縁者とみる。これほど相性の良い肉体を用意するとは、あの愚か者に憑いていた甲斐があった」

「香我美ッ……宗治はどうなりました……!」

「知らぬ」

 喘ぐ吹雪に、リンヤは素っ気なく答えた。

「私がこの城を築き上げた時、足を取られて落ちていった。生きているかどうかもわからぬし、興味もない。――私が興味があるのは、そなただけだ」

 首をさらに締め上げられ、吹雪は悲鳴を漏らす。

 苦悶に歪むその顔にリンヤは自分の顔を近づけ、興味深そうに眺めた。

 ちろちろと、その唇から蛇の舌が覗く。

「そなたは、私を封じ込めたあの忌々しい呪術師の娘だ。なのに何故、私はそなたを癒やしたのか。何故、今もこうして殺さずに生かしておるのか」

「あっ、ぐぅ……!」

「……あるいは、そなたはやはりクシナダなのか? 私達が求め、叶わなんだ――あの、美しき娘の再来か? その白き髪は神気の証であろう」

 唐突に首の拘束が解かれた。

 力を失い、地面に倒れ込みそうになる吹雪の体を、何故かリンヤが抱き留めた。

「げほっ、こほっ……!」

「ならば、そうか――これは僥倖。私達は積年の想いを果たすこととなる」

 激しく咳き込む吹雪の背中を優しくさすりながら、リンヤはため息を漏らした。

 そして――おもむろに吹雪の着物の衿に手を掛けた。

「ここは神代ではない、出雲ではない、あの憎き粗忽者はいない……私達を切り刻んだあの恐ろしい男はいない……そなたに助けは訪れない……」

 歌うように囁きながら、リンヤは血に濡れた着物の衿を裂いた。

 細い首筋が外気に晒された。

 血をたっぷりと吸った着物を着ていたせいで、雪地のような肌は今は薄赤く濡れている。

「ひっ……い……!」

 この霖哉の顔をした男は、一体何をするつもりなのか。

 どうにか逃げ出したくとも、リンヤの腕はまるで大蛇の如く吹雪の体を拘束している。

「――今生こそ。私達の妻となれ、クシナダ。妻となって、私達の血肉になれ」

 二叉に別れた蛇の舌がべろりと皮膚を舐めた。

 首を食い破られる。――そう思った瞬間、突然、吹雪は突き飛ばされた。

 一体、何が起きた。尻餅をついた吹雪はリンヤを見上げる。

「……この、血は……!」

 目を見開き、リンヤは口元を覆っていた。

 何かが焼け焦げるような音とともに、リンヤの指の狭間から細く黒い煙が漏れていた。

「……そうか、お前は……!」

 リンヤは怪しく瞳を光らせ、吹雪へと手を伸ばした。

 吹雪は後ずさる。

 しかし直後、呻き声とともに霖哉がよろよろと背後に下がった。

 見れば自分の胸に、自分で短刀を突き立てていた。

「……逃、げ……ろっ……」

 リンヤが――霖哉が顔を上げ、吹雪を睨む。

 汗に濡れたその顔に、鱗はない。それは間違いなく吹雪の知る霖哉の顔だった。

「り、霖哉さん、ですか……?」

「この建物は、どんどん変形してる……っ、おれが呑まれる前に、早く逃げろ……!」

 吹雪の問いに答えず、霖哉は荒く息を吐きながら怒鳴る。

 みしみしという異音とともに、細かな振動が足下から伝わってきた。

 はっと吹雪が辺りを見回すと、霖哉の言葉の通りに壁や柱が流動していた。金属質の壁はさらに上へと伸び上がり、そして膨れあがっていく。

 膨張していく空間を見回しながらも、吹雪は霖哉へと叫ぶ。

「でも……でも貴方を置いてはいけない!」

「駄目だッ! おれの事は諦めろ!」

 霖哉は激しく首を横に振ると、吹雪から距離を取った。

 それはあの――夢とも現ともつかない雪の世界で聞いた言葉と同じ。

「まさか……そんな……」

 あれは死に呑まれつつある吹雪を霖哉が癒やす過程で、二人の精神が混ざり合ったのか。

 右手を抑え、吹雪は言葉を失う。

 霖哉は背中を壁に押しつけつつ、自嘲するように唇を吊り上げた。

「……愚か、だった……こいつは……人の手に負える奴じゃない……見ろ!」

 霖哉はゆるゆると服の衿に手をかけ、それを思い切り引き裂いた。

 青白い霖哉の胸。引き締まったその肌に、短刀の傷は赤い線となって刻まれていた。

 しかし、その線が見る見るうちに肌から消失していく。

「回復、していく……」

 吹雪は呆然と呟く。

 その傷が完全に癒えきる前に、霖哉は短刀を再び自分の胸に突き立てた。

「まだ……まだ、抑えられる……でも、もうすぐ、だめだ……」

 躊躇いなく霖哉は腕に力を込め、切っ先を自らの胸の深みへと抉り込ませる。

 その顔が歪む。それは、刃の痛みによる苦悶の表情ではなかった。

「おれはお前を殺したくない……そんなの絶対に嫌だ、殺したくなんかないんだよ!」

 今にも泣き出しそうな顔だった。

 潤んだ紅茶色の瞳を吹雪に向けたまま、霖哉は後退する。左手を拒絶するように振り払い、胸を引き絞るような声で彼は絶叫した。

「……だから、だから頼む……おれを捨ててくれ……逃げてくれよ、吹雪――ッ!」

「――私だって貴方を見殺しにしたくない!」

 考えるより先に、吹雪は叫んでいた。

 叫ぶのと同時に体は動き、吹雪は霖哉へと駆け寄っていた。自身をどうにか離れさせようとする左手を掴み、霖哉の肩へと手を回す。

 それは普段の吹雪ならば、まず取らないであろう無意味な行動だった。

 けれども、そうしなければならないと思った。

「貴方を助けたい! 貴方がッ……貴方がッ、大切だから――!」

 あらゆる抑圧をかなぐり捨て、ただ感情のままに吹雪は叫ぶんだ

 霖哉が息を飲んだ。その右手が、機械仕掛けの人形の如くぎこちなく動く。さまようその手は吹雪の背中に触れそうになっては、離れてを繰り返す。

「おれは……おれも……おれだって……でも……おれは……」

 譫言のように繰り返す霖哉の顔を、吹雪はそっと撫でた。

 見開かれた紅茶色の瞳を見つめ、しっかりとした口調で語りかける。

「なにか……なにか、手があるはずです。きっと、貴方を助ける手が……」

 その言葉に、霖哉はふっと目を伏せる。

 何度か深呼吸を繰り返した後、彼はかすれた声で呟いた。

「……なら、頼む」

 目を開いたその顔に、嘆きや苦しみの色はなかった。

 どこか悟りきったような――ただ静かな表情で、霖哉は吹雪をまっすぐに見つめた。

「本当に……本当に、申し訳、ないけれど……頼む……」

「なんです……なんですか! 私に出来る事なら、なんでも――!」

 必死で問いかける吹雪から体を離し、霖哉はふっと笑いかけた。

 それは六郎太に捕まる前、吹雪だけを逃がそうとした時に見せた微笑と同じもの。

 思わず目を見開く吹雪の耳元に、霖哉は口を寄せた。


「――おれを、斬ってくれ」

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