その十六.蛇のにおいのする街
夕暮れに沈む帝都を、一台の自動車が走っていた。
運転するのは、険しい表情をした時久だ。助手席には落ち着かない様子のサチが座っている。
窓の外の街並みは、年末最後の盛り上がりを見せていた。
街中に掲げられた放映機の画面は大晦日から正月にかけての天気予報や、初詣に人気な神社についての情報を流している。
買物に急ぐ人々から視線を逸らし、サチは時久に声を掛けた。
「ねぇ、これからどこに行くの?」
「ともかく小娘を探す」
「でも社長さん達は今、会社にいるんだよ?」
サチは不安げに瞳を揺らし、後ろを振り返った。
時久とサチは一度、紅梅社中に寄った。
しかし時久は慶次郎と短く会話を交わした後、すぐに会社を出てきてしまったのだ。
「御堂さんも会社に行った方がいいんじゃ――」
「あちらは連中に任せておけば良い」
サチの言葉を遮り、時久は淡泊に答えた。
「社長、夕子、綾廣……今、社内にいるのはじっくり考える事が得意な連中だ。俺まで戻れば、現場で判断して動く奴がいなくなる」
「そ、そっか……御堂さん、なんというか現場で生きるタイプだものね」
微妙な顔でサチはうなずく。
「それに……綾廣が試作した通信機がある。何かあれば、これで連絡をとる事も可能だ」
言いながら、時久はポケットから片手で小さな機械を取り出した。
黒い椀とマイクが一体になったようなそれは、猿面事件の時に六郎太が屋敷で使っていたものと同様だ。どうやら軍用無線の一つを元に、綾廣が改良を加えたらしい。
「綾廣曰く、霊気を介しての通信を行えるらしい」
「ちゃんと動くのかな、それ……」
「わからん。これはひとまずお前に預けておく。俺だと壊しかねん」
「わ、わかった」
サチはこくこくとうなずき、通信機を時久から伸張に受け取った。
その時、サチの輪郭がぐらりと揺らぐ。
『――でもやたらめったらに探すわけにはいかないわよ』
霊体の林檎が後部座席に現われ、足を組んだ。
金色の瞳を細め、運転する時久の背中を探るように見つめる。
『帝都は広いんだから。どうするの? 何か当てがあるわけ?』
「ひとまず香我美邸に向かっている」
時久の答えに、通信機を片耳に付けたサチは首をひねった。
「香我美……確か、偽猿面が現われたあの場所……?」
「ああ……最初から胡散臭いとは思っていた」
時久は唸るように言って、前方を睨んだ。
大晦日が近いせいか、道路はいつにもまして混雑している。時久はハンドルを切ると、車の多い大通りを避けて裏道へと入った。
『決めつけは良くないわ。アナタの勘だけじゃ』
「……覡警にツテがいてな」
冷静な林檎の言葉に、時久は重々しい口調で返した。
「奴の話によると、香我美はつい先日、草津に湯治に出かけたらしい。正月三が日までの休養だ。しかし昨日、小娘の退院が決まった途端にとんぼ返りを決めたそうだ」
覡警は偽猿面の出現以降、様々な点から宗治に疑惑を抱いているようだった。
だが覡警が実際に宗治を逮捕するには、まだ時間が掛かるだろうと時久は考えていた。
相手は華族だ。
現在の証拠だけではあの牙城は崩せない。
しかし、どう考えてもあいつはおかしい――時久は眉間に深々と皺を刻み、唇を歪める。
「それに……あの鬼灯の瞳だ。あれには、吹雪の母によって封印を掛けられたらしい」
「封印? あ、まさか……ッ!」
一瞬首をかしげたものの、サチはすぐに理解したらしい。
彼女の呪術の師匠は夕子だ。恐らく彼女から、封印についての知識も伝えられている。
その事を思い返しつつ、時久は言葉を続ける。
「香我美がもし、何かの理由で封印を解くとすれば――」
『……フブキが必要ね』
答えたのは、後部座席の林檎だった。
片割れの言葉に見る見るうちに青ざめていくサチの表情を見ながら、時久はアクセルを踏む。
「ともかく香我美邸に向かうぞ。間違っていたら間違っていたで――ぐっ」
その時、強烈な耳鳴りを感じた。
時久は呻きつつもなんとかブレーキを掛け、自動車を止めた。見ればサチも、後部座席に座る林檎でさえも両耳を押さえている。
「……なんだ? 何が起きた?」
時久は顔をしかめつつベルトを解き、ドアを開けた。
そこは伯爵邸にほど近い、閑静な住宅街だった。
だが以前とは違い、空気の質が明らかにおかしい。ねっとりとした邪悪な気配が大気中に充満し、そこに立っているだけで全身が重くなってくる。
ほとんど瘴気に近い空気を吸いつつ、時久は辺りを見回した。
そして――伯爵邸の方向から差し込む、赤い光に気づいた。
「なんだ……あれは……」
時久は鬼鉄の柄に手をかけ、ゆっくりと光の方向に近づいていった。
禍々しい夕日にも似た閃光が辺りを照らしている。
晴れていた夜空がにわかに曇りだした。瘴気の混じった薄桃色のガスが重くたれ込み、湿気を孕んだ生ぬるい風が吹き始めている。
サチもまた自動車から降り、時久の後方に立った。
「あっち……伯爵邸の方だよね? 見に行ってみよ――」
『駄目ッ!』
走り出そうとしたサチの肩を、林檎が掴んだ。
それまで表情に乏しかったその顔に、初めて明確な感情――恐怖が浮かんでいた。
『あれは駄目! 駄目よ、サチ! あっちに行っちゃ駄目!』
「林檎……?」
今までになかったほど激しく拒絶する林檎に、サチが戸惑いの表情を見せる。
時久は林檎に近づき、可能な限り穏やかに問いかけた。
「……どうした? 何を感じている?」
『……蛇のにおいがする。あのぬめるような鱗のにおい……鼻を突く毒の臭気……』
「……蛇?」
時久が聞き返すと、林檎は顔を覆った。
赤黒い髪がざわざわと波打つ。そしてその下で、細い肩が細かに震えていた。
『古く、恐ろしいものが目覚めた……この街はもう駄目よ。すぐにあの大蛇に呑み込まれるわ。そうなる前に早く、早く逃げないと――!』
頭を抱え込む林檎の肩を、サチがおずおずとさする。
怯えと不安の中にある二人の少女を見つめ、時久は一瞬考えた。
やがて一つ深くうなずくと、彼は二人に背を向けた。
「……犬槙、お前は残れ」
「で、でも!」
離れつつある時久に、サチがはっと顔を上げる。
「俺が様子を見てくる。お前は残って、夕子達を待て。いいな?」
時久は歩きながら、鋭く指示を下す。
足取りはよどみなく、鈍色の瞳はまっすぐに香我美邸の方角を睨んでいた。
「……駄目だよ」
「犬槙?」
かすかな――けれども強い意志の滲んだ声に、時久は思わず振り返る。
サチは震えながら、きっと時久を睨んだ。
その手が腰に帯びた鞭を引き抜き、サチはそれでぴしりと路面を打った。強く響いた鞭の音に奮い立たされたのか、サチの手から震えが消える。
「わたしも行く! 御堂さんだけに行かせるなんてできないよ!」
『駄目よ! 何を言っているの!』
顔を上げた林檎が激しい口調で拒絶する。
しかし、サチはそれ以上に大きな声で叫んだ。
「ブキちゃんがいるかもしれないんだよ!」
『サ、サチ……』
怯えと戸惑いの混じった眼で、林檎がサチを見つめる。
サチは指が白くなるほど鞭の柄をきつく握りしめ、それを睨み付けていた。
「ううん……きっといる。吹雪ちゃんがいなくなった。そして、怪しい伯爵邸で何かが起きてる。これはきっと偶然じゃない」
サチは一つ深呼吸した。
そして林檎を見つめ、今度は言い聞かせるような口調でしっかりと言った。
「ブキちゃんはわたしと林檎を助けてくれたんだよ! 今度は、私達が助けなきゃ!」
『バカな子……本当にバカな子! 短気、直情的!』
「そ、そこまで言わなくたって良いじゃない! ともかくわたしは行くからね!」
泣き声に似た声を漏らし、頭を抱えこむ林檎。
まるで幼子のような彼女に、サチはムキになったように言い返した。
「……林檎、お前はどうする?」
時久がぼそりとたずねた。
林檎は顔を上げ、潤んだ金色の瞳で時久を睨み返した。
『どうにもできないわよ! サチが行くなら、私も行かざるをえない』
「怖いなら、林檎はわたしの中に入ってて。わたしはお札も持ってきてるから、大神達がいなくてもなんとか――」
『バカな子! なんてバカな子!』
優しく話しかけるサチの声を遮り、林檎は一つ大きく首を振った。
そしてガツンと踵で地面を踏みならして、声を張り上げる。
『我が同胞よ! サチについて行く者は、今すぐこの場に出てきなさい!』
その瞬間、サチの影がぐらりと揺らいだ。
唸り声を上げ、頭をゆっくりと振るいつつ、サチの背後から大神達が現われる。
その数は二十六――サチに憑いた、全ての大神。
金色に輝く瞳には怯えの色はない。獣達はそれぞれ、覚悟を決めた顔でサチを見上げた。
サチは驚愕の表情で、大神達を見回した。
「みんな……」
『……どれだけ、困難があろうとも。オオカミは仲間を見捨てない』
林檎は額を抑え、何度か深呼吸を繰り返した。
そして一つ深くうなずくと、伯爵邸の方向を見る。落ち着きを取り戻したその顔には、いつものように表情がない。
ただその眼光は鋭く、もはや怯えはなかった。
『だから……そう。ワタシも、フブキを助けに行かないと』
「林檎……!」
目に涙を浮かべ、サチは林檎に抱きついた。その周囲に大神達が群れ集い、自分も構えと言わんばかりにサチの服の裾をぐいぐいと引く。
以前ならば、ここまで和やかな光景は考えられないものだった。
しかし今は――じゃれあうサチと大神達を目にして、時久は薄く笑った。
「尻尾を巻いて逃げるなよ」
『黙れ、童子。アナタこそ、ここを大江山にするんじゃないわよ』
サチの背中をさすりながら、林檎が時久を睨む。
「ふん、そう簡単に俺は死なん。――では、参るぞ」
時久は鼻を鳴らすと、鬼鉄を抜き払った。
夕闇を切り払うように刃を振るい、時久はそれを肩に担ぐ。
「――小娘。死ぬなよ」
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