その十五.熱き血潮の冷えぬ間に

 聖堂に吹雪の絶叫がこだました。

 血の噴き出す右の肩口を押さえ込み、吹雪は地面に倒れ込む。断面から炸裂する痛みが思考を真っ白に染め上げ、吹雪はわけもわからずに泣き叫んだ。

「お館様、お怪我は?」

 六郎太が刃を仕舞い、宗治の元へと近づく。

「ない。しかし、いけないな。このままでは血液が無駄になってしまう。――手順を省略し、今から儀式を始めるか」

 宗治は祭壇の上に近づき、硝子箱を外した。

 鬼灯の瞳が宗治の掌中へと移る。

 頭がくらくらするような煌めきは、間違いなく先ほどよりもさらに強くなっていた。

「最後に教えてやろう――世の中には二種類の人間がいるんだよ。喰らう人間と、喰われる人間だ。喰われる人間の奉仕と犠牲によって、喰らう人間は新たな可能性を拓く」

 言いながら宗治は信徒達へと向き直ると、鬼灯の瞳を両手で掲げ持った。

 途端、それまで黙り込んでいた信徒達が一斉に首から提げていた金の蛇の彫像を持ち上げた。そしてそれを揺らしながら、奇妙な歌を歌い始めた。

「赦し給え。赦し給え」

「どうか我らに永遠を」

「生まれ変わる蛇の如く永遠を」

「我ら穢れなく、されど力も無く、まなこには光もなく」

「故に我ら猛る御身の前に跪く」

 信徒達の歌声は絡み合い、聖堂中を満たした。

 それを全身で受け止めるように両手を広げ、宗治はうっとりと微笑んだ。

「私は君が生きられなかった分まで生きて、君には獲得できなかったものを獲得しよう」

「あ……う……」

 相手が、何を言っているのかさえ、吹雪にはよく理解できなかった。

 ただ喪失した右手が痛くて、たまらなくて。

 聖堂にこだまする聖歌が、耳障りで仕方がなくて。

 意味のない声を漏らす吹雪に、宗治はどこか厳かな所作で一礼した。

「だから君はここで、私に血を捧げてくれ。――六郎太、杯を。右手から摂れば良いだろう」

「はっ。承知いたしました」

 六郎太は一礼すると祭壇に近づき、小さな金の盃を取った。

 あれに、血を入れるつもりだ。痛みと失血で麻痺した思考でもどうにか吹雪はそれを理解して、残った手足に力を込めた。

「あぐっ――!」

「往生際の悪い。諦めろ、クシナダ」

 六郎太が這って逃げようとする吹雪の背中を踏みつける。そのまま彼は身を屈め、金の盃を吹雪の肩口に近づけた。

 戦わなければ。遠峰吹雪は、こんな時に泣くような娘ではない。

 父に絶句兼若を授けられた鬼切りなのだ。

 でも。

「こん、な――こんな……こんな、手、で……こんな、何が――」

 盃に血が流れ込む音を聞きながら、吹雪は譫言のように繰り返し呟く。

 こんな手で――なにができる――!

「赦し給え。赦し給え」

「己の尾を噛む蛇の如く終わる事無き永遠を」

「どうか八つに分かたれた首を我らに向け」

「赦し給え。赦し給え」

 折り重なって響き合う歌声に、思考までもが押し潰されるような気がした。

 ぼうっと吹雪はステンドグラスを見上げる。

 八つの頭部を持つ大蛇の赤い瞳が、自分を見下ろしている。開いた口は、嘲笑っているように見えた。あるいは舌なめずりしているようにも見えた。

 これから、死ぬのか。

 なんとあっけないのだろう、とぼうっと思った。

 視界の端にぴくりとも動かない霖哉の姿が映っている。

「りん……や……」

 これから、彼を追うのか。

 帝都に来て、形は違えど同じ苦しさをわかちあった。吹雪自身も気づかなかった窮屈さに、最初に気づいたのは彼だった。

 最後は彼自身の呪縛を立ちきり、助けに来てくれた。

 霖哉に抱く、この温かく静かな感情の正体がなんなのかはわからない。

 けれども霖哉と黄泉路を行けるなら悪くない。――吹雪は心からそう思った。

 ――そう思っていた。

 けれども、縁側に座す父の姿が脳裏をよぎる。雪路に消えた母の背中を思い出す。

 そして雷光、サチ、夕子、綾廣、慶次郎、十真――。

 御堂時久。

「あ……みど……さ――」

 あの鋭い鈍色の瞳を思い出した瞬間、吹雪の眼から涙が零れた。

 彼は、今、どこで、何をしているのか。

 吹雪がいなくなったら――時久は、どう思うだろう。

「ちくしょう……ちくしょう……」

 微かな囁きが吹雪の意識を引き戻した。

 涙が落ち、ぼやけた視界がわずかにクリアになった。

 潤んだ視界にまず映ったのは、いつの間にか宗治の手に渡った金の盃。

 吹雪の血で満ちたそれに、鬼灯の瞳が落ちていく。

 禍々しい聖歌を歌う信徒達、じっと沈黙する六郎太、宗治の狂気の笑み。

 そして――ゆらりと立ち上がる霖哉。

「くそ、くそ……おれは……おれはやっと、人間らしくなれるって……」

 血に濡れた黒髪の向こうで、うつろな紅茶色の瞳がぼうっと揺れている。

 その首は裂け、血がだくだくと零れている。

 もう、起き上がれるはずもないのに。

「馬鹿な……!」

 完全に彼を死んだものと思っていたのか、六郎太が驚愕の表情を浮かべる。

 水を打ったように聖堂が静まりかえった。

 凍り付いた空気の中、霖哉は一歩、宗治に向かって進んだ。

「遠峰に……吹雪に出会えて、幸せってこうなのかって……なのに、なんで……なんでこうなるんだ……? なんで、おれはこんな……何が、何が悪かったんだ……?」

「……異能のせい、か? しぶとい奴だな」

 宗治が顔を歪める。

 その手の中――盃には更なる変化が現われていた。

 盃を満たしていたはずの吹雪の血が、急速に消えていく。それに従って鬼灯の瞳の輝きはさらに強まり、まるで火の玉のように輝いていた。

「……そうだ……なにもかも……悪いんだ……」

 ぼろりと、霖哉の眼から雫が零れた。

 それは涙ではなかった。真っ赤な血の雫が霖哉の眼から溢れ出している。

 霖哉はまた一歩、踏みだした。

「呪う……おれは、おれは呪うぞ……こんな、こんな理不尽を架した……全てを……」

 地の底から響くような声と共に、霖哉は体を揺らしながら歩く。

 その様を吹雪はぼうっと見つめた。

 黒髪を振り乱し、霖哉は血の涙を零しながら歩く。

「お前達が……喰う側だというなら……」

 裂けた首筋から流れる血は止まっていない。そして、先ほど六郎太に叩き込まれた衝撃波のせいで、肋骨や内臓が滅茶苦茶になっているはず。

 なのに何故、動けるのか。

「なら……おれは……喰ってやるよ……お前達を……は、は……なんで、思いつかなかったんだろう……こんな、単純な事……」

 霖哉は歯を剥き出し、血に濡れた口でニィッと笑った。

 何故、笑える。

 血を失いすぎた頭では何もわからない。

 かすれていく視界の中で、宗治が後ずさる。圧倒的優位に立っていたはずの彼の顔は、いまや恐怖と不安に完全に塗り潰されていた。

「――っ! 殺せ、六郎太! その死に損ないを!」

 宗治は青ざめた顔で手を払い、六郎太に指示を下す。

「承知!」

 六郎太が刀を抜き払い、地を蹴った。

 自分よりも体躯に勝る六郎太が凶刃を以て迫ってくる。――にも関わらず霖哉はいっそう唇を吊り上げ、緩慢な所作で左肩をぐるりと回した。

「……は、は、は。今なら、なんにだってなれそうだ」

 渇いた笑い声。それとメキメキと肉体が変質する音が響いた。

 腕を形成する肉と骨が変形――皮膚を突き破るようにして黒い棘と装甲とが現われ――五指から骨が突き出て牙へと変じ――凶暴な龍の顎を形成する。

 無眼の龍は乱杭状に並んだ牙を剥きだし、六郎太めがけて襲いかかった。

「ひ――」

 迫り来る大顎に、六郎太の顔がわずかに引きつった。

 しかし彼は後退せず、とっさに刀を前に構えて防御をはかる。

 だが、怒り狂う龍は止まらなかった。牙の門にも似たその大顎は、鋼鉄の刃をまるで薄氷の如くたやすく砕いた。

 左半身をざっくりと取り取られ、六郎太が崩れ落ちる。

 そして無眼の龍は勢いを殺さないまま、彼の後方へ――宗治へと襲いかかった。

 宗治は呆然と、自分へと迫る無眼の龍を見つめた。

 眼を持たない龍の口が現界まで裂ける。目の前で牙だらけの洞穴が広がった瞬間、凍り付いた宗治の顔に恐怖の表情が蘇った。

「ひっ、や、やめろ……やめてくれ……!」

「おれは――化物になってやる」

 悲鳴とともに手を振り払う宗治に、霖哉が囁いた。

 同時に無眼の龍が、宗治の左腕ごと鬼灯の瞳を奪い取った。

 宗治の絶叫。そして、視界が赤い光に包まれ――吹雪は意識を失った。

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