その十四.動脈と右腕
「こら、六郎太。クシナダは丁重に扱えといったはずだ」
宗治は大股で祭壇へと近づきながら、叱りつけるような口調で言った。
「はっ、失礼いたしました」
六郎太は吹雪の首から刃を外した。だが、その手の拘束は解かなかった。
壇上に上がり、宗治は吹雪へと近づいてくる。彼が近づくにつれ強烈な香水のにおいが強まり、頭は酔ったようにくらくらしてきた。
「やあ、遠峰嬢、ご機嫌麗しゅう。手荒い歓迎となってしまった事を詫びさせて欲しい」
「そう思うならば、私と霖哉さんを解放して頂けませんか」
優雅に一礼してみせる宗治に、吹雪は冷やかに答えた。
宗治は顔を上げ、やれやれと肩をすくめる。
「淡雪のように儚いように見えて……なるほど、気丈なお嬢さんだ。あの女の血を継いでいるというのもうなずける」
「……母のことですか?」
吹雪は眉をひそめる。
途端、宗治の顔から笑みが消えた。手袋を嵌めた手をさすりつつ、彼はうなずいた。
「そうとも。我が一族に災禍をもたらした、忌々しい女さ。――さあ、瞳を」
宗治の指示に応え、黒衣の一人が祭壇へと近づいた。
硝子箱を覆うビロードの布が取り除かれる。その中には、赤く妖しく煌めく宝玉があった。
鬼灯の瞳――それを見た途端、吹雪は強い目眩を感じた。
「く、うっ……」
最初に見たときよりも、さらにその煌めきが強まっているような気がする。
「――全ては、祖父の道楽から始まった」
吐き気に喘ぐ吹雪に、宗治は淡々と語り出した。
「二十年前……出雲の遺跡で、祖父は父や私と共に鬼灯の瞳を発掘した。覚えているよ。その時に彼女が――君の母親である、風見燎が居合わせた。彼女はこう語った」
『これは、太古の邪悪な化物の一部である』
『この宝玉は持ち主に、一時の幸運をもたらすだろう。だが、必ず強烈な災いを成す』
『破壊をしないというならば、我が血を以てこの宝玉を封じよう』
「祖父は破壊を拒否した。結果、風見燎はこの宝玉に封印を掛け、その場を去った。――それからだ。この宝玉は、我が一族に語りかけてくるようになった」
香我美家は、鬼灯の瞳により栄華を得たという。
鬼灯の瞳は彼らが眠りについた時、夢枕で夜な夜な囁いた。隠されていた鉱山の在りかや、商売相手の弱点、想像にもつかなかった新たな戦略――。
「祖父の道楽により、傾き掛かっていた香我美家の栄華は立て直された。――しかし同時に、我々は大きな呪いを受けることとなった」
「呪い……?」
吐き気を堪えつつ吹雪はなんとか聞き返した。
宗治はその手に嵌めていた手袋に手を掛け、ゆっくりと引いた。
粘ついた音が聞こえた。そして香水の香りの中に、微かな異臭が混ざった。
「――生きながらにして、体が腐っていくのさ」
宗治は囁き、手袋を完全に外した。
その瞬間、辺りの空気は腐臭に完全に塗り潰された。
「う……ぐっ……!」
吹雪は思わず顔を背ける。
香我美の腕は、不思議な文字の記された包帯でびっしりと包まれていた。だがその狭間から赤黒く変色した肉と、蛆と思わしき仄白い何かが這い回る様が覗いている。
今まで凄惨な光景はそれなりに見てきたはずだった。
それでも、宗治の手はとても見ていられるものではなかった。
「遺跡発掘のため全国を飛び回っていた祖父は、鬼灯の瞳の発掘後一年と保たずに死んだ。父は肉体が朽ちていくにつれ精神を病み、十年前に自殺した」
宗治は淡々と語りながら、手袋を再びはめ直した。
「そして父の死後、呪いは私にうつった。今ならまだ手袋と包帯で抑えていられるが……どうせすぐに、意味が無くなる。私が子を成せば、この呪いはその子に受け継がれるだろう」
香我美家は鬼灯の瞳により栄華を得た。
だが鬼灯の瞳により、おぞましい破滅の未来が決定づけられてしまった。
吐き気を殺そうと乱れた呼吸を繰り返す吹雪に、宗治は「しかし」と語る。その声にはかすかな興奮と、隠しきれない期待の熱が込められていた。
「瞳の御方は夢枕で我々に語った。『これは封印の影響である』と」
鬼灯の瞳に宿る意思は、毎晩香我美家の当主に語ったらしい。
『汝らの肉体が朽ち果てていくのは、あの風見燎の封印のためである』
『封印により、我は今だ真の力を発揮できずにいる』
『風見燎を探せ。風見燎の血を捧げよ』
『さすれば汝らは呪詛より解放され、香我美家は永久の繁栄を約束される』
「――そんなわけがないでしょう!」
腹の底から吹雪は叫ぶ。
その声に、宗治は冷やかに微笑んだ。仮面のような微笑を、吹雪はきっと睨む。
「見え透いた偽りです……鬼灯の瞳は幸福と呪詛とを与える事によって、貴方達を自分の思うがままに動かそうとしている」
「君にはわからないだろう。肉体がじわじわと腐り落ちていく恐怖が――栄華を失う絶望が」
「瞳を手放せば良かったでしょう! 母の言った通りに――!」
「だが我が一族はこの瞳により大きな繁栄を得た。今更、手放すわけにはいかないな」
駄目だ、と思った。
青い瞳を見開き、吹雪は呆然と宗治の微笑を見つめた。
この男には、最早何を言っても通じない。
あまりにも大きすぎる幸福と、生きながらにして肉体が朽ちていく呪いを同時に受けたせいで、正常な判断ができなくなっている。
「祖父、父、そして私――皆、風見燎を探した。だがどこにも見つけることができなかった。我々は焦った。そして少しでも呪詛を和らげるため――女を殺すようになった」
元々、鬼灯の瞳を持っていた化物の好物は若く美しい女だった。
故に鬼灯の瞳に女の血を捧げれば、腐敗の進行をわずかに食い止める事ができる。
伝承を探った宗治の父が、精神を病む前にこれに気づいた。それから香我美家は密かに女を攫ってはそれを殺し、血を鬼灯の瞳に捧げるようになったらしい。
「だから紺田には困ったよ。まさかあんな事をするなんて」
「紺田……偽の、猿面……」
肩をすくめる宗治が口にしたその名前には、覚えがあった。
雷光が――本物の猿面よりも先に現われた偽の猿面。
呼子の異能を持った、青白い顔をした男だった。六郎太の落としたシャンデリアの下敷きになり、最後は猿面を敵視する過激派集団に連れ去られた――。
そこまで思い出した時、不意に吹雪の耳に紺田の叫びが蘇った。
――あいつが俺の人生を無茶苦茶にしたんだ! それだけじゃない! あいつは他の人間さえ破滅に追いやってる……!
六郎太の話によれば、紺田は元々香我美伯爵家の警備隊に所属していた。
そして――霖哉はさっきなんといった?
紺田は、どうして偽の猿面になった? そして彼は一体、どこに消えたのか――?
「偽の猿面の狙いは、ただの復讐ではなかった……?」
背筋に冷や汗が滲むのを感じながら、呆然と吹雪は呟く。
その言葉に、宗治はにっこりと笑った。生徒が正解にたどり着いたことに満足したようなその笑みに怖気を感じつつも、吹雪は思考をたどる。
「猿面になりすましたのは注目を集めるため……? 死んだと言われた猿面になりすまし、予告状を出す事で……貴方が裏で何をしているのか、知らしめようとしたのですか……?」
「……奴は最初から覡警と接触しようとしていた」
吹雪の背後で、六郎太が低い声で言った。
「すぐに始末しようとしたんだがな……奴は異能を使って、行方をくらました」
「そうして偽の猿面だ。あいつはわかっていたんだろうな。慈善事業で世間から尊敬と信頼を集めている私が裏で人を殺していると言ったところで、誰も信じないと思ったのだろう」
困ったように宗治は肩をすくめてみせる。
死んだはずの猿面が出現したとあれば、世間の注目は香我美伯爵家に向かう。そして猿面の捕獲を狙う覡警もまた、伯爵邸に接近することになるだろう。
ならば――伯爵はどうするべきか。
結論は出た。吹雪はその答えに一瞬唇を噛み、宗治の笑みを睨み付けた。
「……殺したんですね? 偽の猿面を――あの、紺田という人を」
時久の言葉を思い出す。
あまりにも統率の取れすぎた――精鋭部隊のような過激派集団。
「途中で現われた黒装束の集団も、全て貴方達の配下。騒ぎに乗じて紺田さんを攫い……」
「覡警に追わせた。ふふっ、見事だ」
宗治は感嘆の声と共に拍手する。
「ただ実際はね、あの時は紺田は屋敷の外には出ていなかったのだよ。外に連れ出されたように見せかけただけ。実際は屋敷の隠し扉に隠していた」
「道理で探し回っても見つからないわけです……」
霖哉の使った隠し扉、あれが屋敷中にあったということか。思えばあの時、鬼灯の瞳も屋敷の隠し通路を用いて祭殿から移されたと聞く。
「猿面は攫われて、鬼灯の瞳は護られた。これで事件はひとまずおしまい、どうにかこうにか大団円――そうなるはずだったんだがねぇ」
「……しかし、本物の猿面が現われてしまった」
吹雪の言葉に、宗治は渋い表情で「その通り」とうなずいた。
月下に現われた、機械仕掛けの猿の面を付けた男。けたたましい哄笑とともに庚申の夜を駆け抜けた――吹雪の双子の兄。
「結果、さらに伯爵家の事件は派手になってしまいました。本物が現われた事で、むしろ偽の猿面の動機とその行方に注目が集まり、貴方は――まさか」
その時、唐突に吹雪は理解した。
宗治は腐っていく肉体をどうにかするために、吹雪を殺すつもりだろう。だが彼にはもう一つ、吹雪を殺し、鬼灯の瞳を解放しなければならない理由がある。
「そうとも、だからこそ余計に私には君の血が必要だ」
硬直する吹雪をよそに、宗治はねっとりとした声で語る。
「ここまで話が大きくなると、もはや人の手ではどうしようもなくてねぇ……。覡警はすでに我々を怪しみ、探りを入れてきている。急がなければならないのだよ」
「……無駄ですよ。私を殺したところで、鬼灯の瞳は貴方を救わない」
吹雪はゆるゆると首を振り、宗治を睨む。
しかし宗治は癖のある黒髪を書き上げつつ、優雅に笑った。
「やってみなければわからない、というだろう? 我々にはもはやこれ以外に道はない」
「道を消したのは貴方達自身でしょう」
吹雪は冷やかに返す。
鬼灯の瞳を破壊していれば、肉体が腐敗していく呪いを受けることもなかった。女達は殺される事はなく――偽の猿面が現われる事もなかった。
「全て……貴方達が鬼灯の瞳を手放せなかったから起きた事です」
「ふふ、容赦が無いな。しかし、君に我々の葛藤など理解できるはずもない。全ては栄華のため、安寧のため、そして生存のため――時に君、処女かね?」
「え……?」
一瞬、完全に思考が停止した。
青い瞳を大きく見開く吹雪に、宗治はゆっくりと近づいてきた。
「鬼灯の瞳はね、若く美しい――清らかな女性の血を好む」
「ぐっ……!」
宗治は手を伸ばすと、言葉も発せずにいる吹雪の頬にそっと手を這わせた。
嫌悪感に肌が粟立った。先ほど見た宗治の手のおぞましさを思い出しただけではない。
宗治の問いかけのあまりの下劣さに、吹雪は震えた。
「い、嫌……」
「君は風見燎本人でなく、その娘だ。仮に君の血液で封印が解けなかったとしても、君が処女ならば恐らく相当の恩恵を得られるはず。最近の子は早熟らしいが……」
宗治が耳元に囁いてくる。
むっと押し寄せてくる香水と――その中に確かに紛れ込む腐臭が、脳を侵してくる。
いっそう強い吐き気を感じ、吹雪はその場にしゃがみこみそうになった。しかし背後で拘束する六郎太が腕を強く引き、膝をつくことさえ許さない。
「うっ、く……」
「君は、紅梅社中のあの御堂とかいう男とよく行動していたようだね。ああ、そこの涅とも仲が良かったと聞く。どうだね? 君、誰かと寝た事は――」
「ふざっ、け――」
「――ふざけるなッ!」
その咆哮に、聖堂の空気がびりびりと震える。
宗治は吹雪から離れると、冷やかな眼で眼下を見下ろした。
「おや、涅。まだ元気そうだな」
「それ以上、その腐った手でッ……! 遠峰に触れるな、近づくなッ……!」
両腕を黒衣に締め上げられながら、霖哉はもがく。その口は呼吸する毎に血液を零していたが、彼はもはや痛みさえ感じていないようだった。
血走った目で宗治を睨みあげ、霖哉は血を吐き出しながら吼えた。
「そいつはッ……そいつはお前やおれみたいに穢れた奴が触っていい奴じゃないッ……! 少しでも遠峰を傷つけてみろッ! おれが……おれが、お前を殺してやる……ッ!」
「……死に損ないのわりに、よく喋る」
宗治は肩をすくめると、ぱちりと一つ指を鳴らした。
途端、霖哉の左右にいた黒衣がその拘束を解く。
霖哉は地面に倒れ込み、呻き声を上げた。
「ぐ、うう……!」
「これ以上、君や紺田のような不届き者が出ると困るのでね――手始めに、君を処刑する」
それは、ほんの一瞬のことだった。
宗治の冷徹な声が響いた瞬間、霖哉の背後にいた黒衣が刃を閃かせた。
霖哉の首筋が。
目に痛いほどに鮮やかな、血が。
「あ……」
霖哉が極限まで目を見開き、切り裂かれた首を抑えようと手を伸ばす。
その手はしかし首に届く前に力を失い、地面に落ちた。
「き、さま、よくも――!」
自分が何を叫んでいるのか――そして何をしたのか、吹雪には理解もできなかった。
左腕がめきりと奇妙な音を立てた。
直後、気づけば六郎太の拘束から吹雪は抜け出していた。
吹雪を見た宗治が大きく目を見開き、後ずさる。
その顔面に向かって吹雪は、右手を。
――ばつん。
「あ……?」
突然、異音と共に右腕が肩口から消失した。
何が起きたのかまるで理解できず、吹雪は一瞬呆然と右手があったはずの空間を見つめた。
ごろりと音を立て、足下に何かが落ちた。
吹雪は視線を地面に落とす。
透き通るように白い腕。細くとも、しなやかな筋肉に包まれた――吹雪の腕。どこからか溢れ出した血液が、その皮膚を赤く染めていく。
何故 自分の腕が 地面に
この血は 一体 どこから
状況を理解したその瞬間、それまで感じた事のない激烈な痛みが脳まで駈け上がってきた。
「ぎ……いっ、あ、が、あああああああああああァアアアアアアアア……!」
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