その十三.贄の支度は整った
蛇の巣の如く細い階段を上った先には、小さな落とし戸があった。
霖哉は落とし戸を薄く明け、周囲の様子をうかがう。そして小さくうなずいた。
「……よし。静かに上がれよ」
「ええ」
霖哉につづき、吹雪も地上へと上がる。
そこはあの祭殿の片隅、建物の側面に位置する場所だった。
すでに吹雪が牢を抜け出した事は知られているようで、辺りは騒がしい。庭園には煌々と明かりが焚かれ、無数の警備兵達が警戒している。
吹雪達がいる位置はちょうど建物と木々の影とが干渉し合い、庭園からは死角になっていた。
無数の警備兵が見回る庭園を見つつ、霖哉は直刀に手をかけた。
「この屋敷の作りは覚えているな? ……祭殿裏口の鍵に細工しておいた。おれが正面で派手に暴れて引きつける。その隙におまえは逃げろ」
「あなたは、どうなさるんです?」
吹雪は目を見開く。
じゃらじゃらと音を立てて、霖哉は右手の袖から鎖分銅を垂らす。そしてその分銅を軽く握りしめ、霖哉は小さく笑った。
それは今まで見たことがないほど、優しい微笑だった。
「……おれの事は気にしなくていい」
「でも――!」
「良いから。三つ数えたらおれが出る。いいか? 一、二の――ぐっ……!」
空気がぐらりと揺らいだ。
衝撃波をもろに喰らった霖哉の体が吹き飛ばされる。抜き放たれた直刀がその手から零れ落ち、吹雪の目の前に落ちた。
「何が……!」
霖哉を止めようと手を伸ばしかけたまま、吹雪は一瞬目を見開いた。
しかしすぐに殺気を感じ、その手は直刀を拾い上げる。
夜闇に影が走った。それを捉えた瞬間に体は動き、考える間もなく吹雪は無間を発動する。
一瞬で霖哉の前に移動し、直刀を振るった。
硬い感触と供に、闇に火花が飛び散る。
「ほう――動きが良いな、娘」
ぎりぎりと刀に力を込めながら、男が目を細めた。
角張った顔に、鋭い目。見覚えのあるその顔に、吹雪の眉間に皺が寄る。
「万羽、六朗太……!」
「は――!」
短く呼吸を整える音が頭上から響き、吹雪と六郎太ははっと顔を上げる。
同時に吹雪の刀を強く弾き、六郎太は大きく後退した。直後それまでその顔面があった場所に、霖哉の踵が高空から振り下ろされた。
着地した霖哉は腰から二本の短刀を引き抜き、六郎太を追撃する。
六郎太はさして顔色も変えず刀を構え、立て続けに叩き込まれる霖哉の斬撃を弾いた。
「うおぉおおお――ッ!」
霖哉は、まるで刃の渦と化したかのようだった。
激しく繰り出される刃に、六郎太は打ち込む隙も無く防戦一方と化す。
「駄目……隙が……」
それは吹雪にも同じ事だった。
あまりにも攻防が激しすぎるせいで、助太刀を挟む隙もない。
吹雪は直刀を手に、霖哉達と周囲の様子とをうかがう。
すでに吹雪達の周囲は煌々と照らされ、刀や銃を手にした黒衣の警備兵達が集いつつある。
どうする。
もはや、逃げ場はない。
かといって、霖哉を助ける事もできない。
どうしようもない状況に唇を噛む吹雪の耳に、六郎太の淡々とした声が届いた。
「涅、お館様に拾われた御恩を忘れたのか」
その言葉に、霖哉は目を剥いた。
「うるさい……うるさいッ! 何が恩だ! おまえらのせいで――!」
それは、感情の高まりのせいか。その瞬間、わずかに霖哉の短刀がぶれた。
六郎太はその隙を逃さなかった。
「おぉおお――!」
嵐の渦とかしていた霖哉の斬撃に、渾身の力でもって刀をねじ込む。
片方の短刀が弾き飛ばされ、闇の彼方へと消える。
体勢を崩した霖哉の腕を掴み、六郎太はそれを強く引きながら霖哉の腹に掌打。同時に、容赦なく衝撃波を叩き込む。
鈍い音ともに、枯れ木を砕くような嫌な音が立て続けに響いた。
「あっ、ガ――!」
口から血の泡を吹き出し、霖哉は崩れ落ちた。
「霖哉さん!」
吹雪は目を見開き、霖哉の元へと駆け寄ろうとした。
銃声。足下の芝生に銃痕が開き、思わず吹雪は動きを止める。
六郎太は肩で息をしながら、地面に倒れ込んだ霖哉を忌々しげに見下ろした。
「一思いに殺してやりたいところだが……お館様が貴様をお呼びだ。ついて来い」
「だれ、が……!」
血を吐き、必死で起き上がろうともがきながら、霖哉が六郎太を睨みあげる。
六郎太は呼吸を整えつつも、ゆったりと余裕のある足取りで歩き出した。硬直したままの吹雪へと近づくとその肩に手を回し、首筋に刀を添えた。
「ッ――!」
肩を拘束する男の体温と、首筋を刺す鋼の感触とに吹雪は身を固くする。
六郎太は首をかしげ、霖哉を冷やかに見つめた。
「――これでもか?」
「……ッ、畜生……」
霖哉は悪態を吐き、悔しげに視線をそらす。
吹雪もまた目を伏せて、直刀を地面に落とした。
雨が近づいているのだろうか。月は翳り、大気は徐々に湿り気を孕みつつあった。
そこは、見覚えのある空間だった。
六郎太に導かれたのは、祭殿の中にある聖堂だった。
昼間に見たときとは様相が違う。八つの首を持つ大蛇を描いたステンドグラスはいくつものロウソクに照らし出され、座席には白い僧服に身を包んだ者達が座っている。
参列者は皆、首筋には金の蛇を模した彫像を下げていた。
「……
吹雪は呟く。
首筋に冷やかな刃の感触が食い込んだ。そして耳に、さらに冷たい六郎太の声が落ちる。
「進め、クシナダ。瞳の御方の前に」
「……吹雪です」
吹雪は出来うる限り静かに答え、まっすぐ前を向いて歩き出した。
六郎太に拘束されたまま、聖堂の正面へと向かって進む。
顔を上げれば、八つ頭の大蛇が自分を見下ろしていた。赤く輝く硝子の眼が、自分を舐めるように見つめているような気がする。
そして大蛇のステンドグラスの真下には、ビロードの布で覆われた硝子箱。
それを見た瞬間、唐突に吹雪は理解した。
「瞳の御方、とは――」
「かっ……は……うぐっ……!」
荒い呼吸に視線を後ろに向ける。
黒衣に引きずられるようにして、霖哉も歩いていた。血の雫がその口からぼたぼたと零れ落ち、足下に赤い大輪の花を咲かせている。
「霖哉さ――」
「壇上に上がれ。まだ死にたくはないだろう」
霖哉に声をかけようとした瞬間、六郎太の刃が首をちくりと刺した。
『マダ』死ニタクハナイダロウ。――それは、つまり。
吹雪は口を噤み、六郎太とともに階段に足をかけた。霖哉とそれを拘束した黒衣はそれに続かず、二人は祭壇の上と下とに別れた。
処刑台に上がるような気分だった。実際、これから自分は殺されるのだろう。
死が迫っている。――ずいぶん懐かしい感覚だった。それは天外化生流を父に教えられる前、布団の中に伏せっていた頃には何度も感じた。
だが、あの頃とは感じ方が違う。
吹雪は青ざめた顔で、祭壇上から聖堂を見渡した。
信徒達の熱のこもった視線が五体に絡みついてくるように思えた。
見下ろせば、祭壇の下にいる霖哉が地面に膝をついている。その顔は、吹雪以上に青白い。
駄目なのか。
もう、どうしようもないのか。
奥底から湧き上がる震えを殺しながら、吹雪は必死で考える。
六郎太の拘束を振り解き、霖哉を助け出し、聖堂を抜け、屋敷から脱出する方法は。
クシナダは――櫛名田比売は。
一体、何の生け贄にされたのか。そうして、彼女の物語はどうなったのか。
錯綜する脳では、その結末が思い出せない。
死んだのか。それとも――。
その時、悲鳴のような音を立てて聖堂の扉が開いた。吹雪ははっと顔を上げる。
「――支度は全て整ったのだね」
聖堂中の視線を受けながら、香我美宗治が現われた。
相当急いできたのか、香油で撫でつけた黒髪はやや乱れている。
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