その十二.己を呪うように懺悔する
「父様は今までどれだけの化物を斬ったのですか」
――千はたやすく越えるだろう。
「その中に、鬼と呼ばれるものはいましたか」
――一つだけ。
「それは、どんな化物だったのですか」
――教えられない。
「何故?」
――鬼切りが鬼を知るのは最後が良い。
――そうしなければ鬼切りは必ず迷ってしまう。
「私は迷いませんよ。どんな化物でも斬ってみせましょう」
――だからこそ迷う。
――この父も、いまだ迷っている。
――あれを切ったのは果たして正しかったのかと。
――鬼を知りたくば、その時を待て。
――幾百幾千もの化物の血にその身を染めた時、お前は必ず鬼に逢う。
闇の底から意識が浮上してくる。
「……う」
吹雪は小さく呻き、まぶたを震わせた。
鼻の奥に嫌なにおいが残っている。体全体が重い石と化してしまったような気がした。
吹雪は薄目を開け、周囲を軽く確認する。
そこは三畳ほどの薄暗い牢だった。窓はなく、石壁に三方を囲まれている。残る一方は鉄格子になっており、向こう側の明かりが影を作っていた。
鉄格子の方からは人の気配が伝わってくる。
両手は太い縄で拘束されており、自由に動かすことは出来ない。
その事に内心吹雪が舌打ちしたとき、遠くで誰かの声がした。
息を詰め、吹雪は耳を澄ませる。
鉄格子の向こう側で扉が開く音がした。どうやら男が一人入ってきたらしい。
足音が近づき、鉄格子のすぐ前で止まる。吹雪は息を潜め、まだ眠っているふりをした。
「この娘が本当にクシナダなのか」
鉄格子の前の男がたずねた。
「瞳の御方がそう仰せになったそうだ。此度は本命だそうだ」
もう一人の男が答えた。こちらは、部屋に最初からいた見張りのようだ。その声は、鉄格子よりもやや離れた所から聞こえる。
鉄格子の前の男はそれに対し、深いため息を漏らす。どこか満足げなため息だった。
代わって、見張りの男が口を開いた。
「……お館様は?」
「今晩には草津からお戻りになる。退院の知らせを聞き、支度は整えておられたらしい」
「では今晩、瞳の御方が」
「ああ。そうして我らをお救いになる」
その言葉に、見張りの男は「嗚呼……」と感嘆のため息を漏らした。
奇妙な満足感と達成感に満ちた短い沈黙。その後に、見張りの男は再度たずねた。
「……それまでクシナダはどうする。そろそろ薬の効果は切れるだろう」
「暴れたらまた眠らせておけ。今までの女達と同じように」
「わかった。そうしよう」
淡々としたやり取りは終わった。鉄格子の前から男が動き、遠ざかっていく。
扉の閉じる音を聞きつつ、吹雪はひそかに唇を噛む。
もう一人の見張りは立ち去る気配がない。自分は狭い牢の中にいて、少しでも妙な動きを見せればすぐに男に気づかれ、また薬で眠らされるだろう。
吹雪は意識のないふりを続けながら、考える。
昨夜、黒衣の男達に自分は攫われた。この男達が何者かはわからない。
『瞳の御方』の意味はわからない。だが、クシナダの言葉に聞き覚えはあった。
クシナダ――櫛名田比売。素戔嗚尊の妻。そして神代の頃、この日本にいたと言われる強大な化物――八岐大蛇に贄として捧げられそうになった娘。
どうやらクシナダという言葉は自分を示しているもののようだ。
それは一体、何を意味するものか。
あまり良い想像はできなかった。格子の向こうに気取られないように吹雪は唇を噛む。
狭い牢屋。鉄格子の向こうの男。拘束された両手。――一体、どうすれば。
その時、再度扉が開く音がした。
あの男が戻ってきたのか。それとも見張りの増員か。吹雪は身を固くする。
しかし、見張りの男は困惑の声を漏らした。
「お前は……? 万場殿に謹慎を命じられていたはずだろう。何故……っ!」
見張りの男がはっと息を飲む。
直後、砂袋を殴りつけたような鈍い音がした。見張りの男の呻き声が聞こえ、すぐに聞こえなくなる。やがて、どさりとなにか重い物が床に落ちる音が響く。
ただならぬ様子に吹雪は身を起こす。
どうにか格子の側に寄ろうとしたその時、何者かが鉄格子の傍に立った。
「遠峰、無事か」
「霖哉さん……?」
黒装束に身を包んだ霖哉が鉄格子の向こうにいた。
いつもよりもさらに青白い顔をしていて、その手には鈍く光る鍵束を持っている。
吹雪の顔を見た途端、霖哉の顔に一瞬安堵の表情が浮かんだ。
しかし彼はすぐに唇を引き結び、鍵束の鍵を牢の錠前に差し込んだ。
「何もされていないか? すぐにここを開ける! ――くそっ、これは違う……!」
「ど、どうして貴方がここに……!」
吹雪はその時、霖哉の肩越しにある光景が目にした。
石造りの床に、霖哉と同じ黒装束に身を包んだ男が倒れていた。首を掻き切られ、溢れ出した血がカンテラの明かりにてらてらと光っていた。
吹雪はその光景に息を飲み、霖哉と男の死体とを交互に見る。
「貴方は、一体――?」
「全部おれが悪いんだ……」
霖哉は呻き、別の鍵を錠前に差し込んだ。
「本当はあの時……お前があの屋敷に来た時、どうにかして追い返すべきだったんだ。お前があいつに見つかる前に――」
「あいつ……?」
「どうせ察しはついてるんだろ? 香我美だよ――畜生、これも違う!」
霖哉は悪態を吐き、荒っぽい手つきで新たな鍵を錠前に突き入れる。
がちゃがちゃと鍵を鳴らしながら、彼は語る。
「ここのところ帝都で起きてる事件――あれは、あいつが命じたものだ」
「あの、女性を狙った連続殺人事件の事ですね?」
以前、時久の部屋に見舞いに行った時の事を思い出す。たしか彼の読んでいた新聞に、そんな記述があったはずだ。
吹雪の言葉に、霖哉は沈痛な表情で頷いた。
「そうだ……ほんとの被害者はもっと多い。おれは知ってる……おれも、手を貸した」
「ど、どうして……そんな事を……」
吹雪は言葉を失う。
帝都で初めて会った人物であり、親しい友人。喫茶店で静かに吹雪の言葉に耳を貸し、吹雪の抱える漠然とした生きづらさを理解した青年。
自分と同じ、抑圧の中に生きる人。
その彼が、無辜の人を殺したという。
あまりにも重い告白に吹雪は何も言えず、ただ青い瞳を呆然と見開くほかなかった。
「……みんな、あいつに命を握られているんだ」
絶句する吹雪に、霖哉は囁く。
それは形こそ言い訳じみた言葉だった。けれども霖哉の顔には許しを請うような色はない。
紅茶色の瞳には憂鬱と絶望とがない交ぜになって存在していた。
「見ただろ、香我美の配下……屋敷の警備兵たち。あれは香我美伯爵家が代々やってる孤児院の出身者で――全員、出来損ないの異能者だ」
出来損ない――その言葉を漏らした時、霖哉は何故だか小さく笑った。
その時、カチリと錠が噛み合う音が響く。
霖哉が目を見開いた。絶望に塗り固められていた顔に歓喜の色を浮かべ、霖哉は錠を回す。
「よし……! 後は道すがら説明する。――行くぞ!」
悲鳴のような軋みを上げ、牢の扉は大きく開け放たれた。
足音を潜め、吹雪と霖哉は薄暗い地下空間を駆ける。
石壁と鉄格子で構成された空間は、一見すると監獄にしか見えない。しかし、所々金や七宝で蛇の彫像が施されているのが印象的だった。
「おれ達は全員孤児だ。異能のせいで、親に捨てられた」
見張りの警備兵の目をかいくぐって進みつつ、霖哉は語った。
香我美伯爵家の運営する孤児院は、異能を制御できない子供達が集められた施設だという。孤児院ではそんな子供達に、ある薬剤を投与するらしい。
薬剤。その言葉に、吹雪は霖哉がいつも持ち歩いている注射器を思い出した。
「では、貴方が使っているあの薬は……」
「陸軍が昔作った制御剤だ。神経系に作用して、一時的に異能を制御可能にする。けれども副作用が強烈で――体がどんどん傷んでいく」
傷んでいく――その言葉に、吹雪は時々激しく咳き込んでいた霖哉の姿を思い出した。
確か、呼吸器が敏感なせいだといっていた。
しかし本当は、制御剤のせいで呼吸器そのものが損傷を受けていたのか。
「ならば、制御剤の使用をやめれば――」
「やめられない。一度使ってしまえは、もうお終いだ」
吹雪の言葉を遮り、霖哉は自嘲するように唇を吊り上げた。
制御剤は、異能を制御する仕組みを完全に壊すという。
例え微弱であっても人間に本来備わっている異能の制御機能――それを完全に破壊し、制御剤無しでは異能を安定して使う事が出来なくなる。
吹雪は強ばった表情でたずねた。
「……制御機能が完全に失われると、どうなるのですか?」
「単純だ。異能は暴走して、持ち主や――あるいは周囲の人間に被害をもたらす」
「そんな……!」
吹雪は絶句し、口元を覆った。
「どうしてそんなひどい事が……伯爵は、なんのためにそんなことを!」
「……おれも詳しくは知らない」
霖哉は目を伏せると、カンテラを吊した柱に手を伸ばした。
よく見ると、カンテラの下には小さな蛇の彫像が施されている。
鈍く光る蛇の頭を掴むと、霖哉はそれを思い切り引っ張った。するとガチャリと鈍い音が響き、柱の右側の石壁が一部浮き上がった。
壁のように偽装されていた隠し扉が開いた先には、細い鉄の階段が伸びている。
吹雪と霖哉はその中に入り、一息吐いた。
扉に背中をもたせかけ、霖哉はどこかぼうっとしたまなざしで鉄の階段を見上げる。
「……でも、どうも伯爵家が代々繰り返してきた事だとは聞いた。時期が来たら奴らは女を殺しだすんだよ。そのために出来損ないの異能者を使うんだ」
おれ達は人を殺すためだけに生かされていた。――そう語り、霖哉は頭を抱えた。
ぐしゃりと黒髪を掻き乱し、彼はか細い声で吐き出す。
「物心ついた時からそうだった……。おれ達は人を殺すためだけに生かされてた。おれは伯爵のために仕事をして、そうしてすぐに死ぬことだけを考えていた……!」
今の境遇になんにも感じていない。ただ伯爵が望むようにあるだけ。――かつて伯爵邸で出会ったとき、霖哉はけだるげにそう語った。
「本当だ…・…本当にそうなんだ。おれは邪悪だ。だからお前を襲った――!」
髪をかきむしり、霖哉はきつくきつく歯を噛みしめる。
その彼が今、吹雪の前で頭を抱え込み、血を吐くように声を絞り出している。
「どうかおれを……ッ、おれを憎んでくれ……! おれはお前が殺されるってこと、わかってた……! わかってて、流されるままに手を貸したんだ……!」
自分を呪うように霖哉は吹雪に懺悔する。
泣き叫ぶのを必死でこらえているようだった。その肩に、吹雪はそっと手を置く。
「それでも、助けに来てくれたんですね」
穏やかな声で、吹雪は問いかける。
吹雪は敵の腹の中とも言える薄暗い空間にいて、霖哉はその手引きをしたという。
しかし彼に対する怒りも、忌避感も沸いては来なかった。
これが哀れみなのか、愛しさなのかもわからない。ただ吹雪は静かで、穏やかな心地で、霖哉の肩をそっとさすっていた。
霖哉はしばらくの間答えず、悲鳴にも似た乱れた呼吸を繰り返していた。
しかし、やがてその首がこくこくと小さく震えるように動いた。
「……うん」
霖哉は顔を覆ったまま、子供のように小さくうなずいた。
そして大きく吐息して、霖哉は扉から背中を離した。肩から離れかけた吹雪の手首を掴み、そのまま表情を見せないようにして歩き出す。
霖哉の手は冷たく、震えていた。
黙って先導する彼の背中に、吹雪は何も言わずついて行った。
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